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 その夜、陸遜殿を歓迎する宴が催された。
 着飾った尚香さまを先頭に、女官たちの手厚い待遇を受けたせいか陸遜殿は終始笑顔だった。
 ・・・あれだけの美男子だ、いつも以上に宮廷が華やかになる。
 
 
 「 何だ、仏頂面して。ほら、とりあえず飲め!趙雲、お前の杯はどこだ? 」
 「 やめてくれ、馬超・・・そんな気分じゃないんだ 」
 「 酒を飲めば憂いなど吹き飛ぶ!・・・おい、誰か!こっちに酒を運んでくれ 」
 「 ここでよいですか? 」
 
 
 ああ、と酒壷を持ってきた顔を見て、馬超の顔がぎょっとしたものになった。隣の私も目を見開く。
 そこには陸遜殿が立っていて、女官はどうした!?と馬超が騒いだ。
 
 
 「 お忙しいみたいでしたので、私が持ってまいりました 」
 「 し、しかし、陸遜殿は主賓であられるのに、その・・・ 」
 「 五虎将軍とお話できる機会はそうありませんから。さ、一献・・・趙雲殿も 」
 「 ・・・・・・ 」
 
 
 馬超の杯を満たすと、私へと差し出される。
威圧するように黙って陸遜殿を見つめるが、彼は気にした様子もなく、先程遠くから見ていた表情と
同じような笑みを浮かべていた。
 無理矢理持たされた杯は空っぽだ、なのに彼の前へと差し出す気になれない。手近な机の上に
乗せて、私は小さく頭を下げた。
 
 
 「 ・・・申し訳ない、今夜はこれで失礼する 」
 
 
 お、おい趙雲!!と馬超の大きな声が響いて、周囲の誰もが振り返る。
同盟の使者の誘いを目の前で断るなど・・・臣下として主君の顔に泥を塗る行為にも等しい。
いつもの自分なら、どんな相手でも絶対にそんなことはしないのに。
 
 
 相手が・・・陸遜殿であるからこそ。
 
 
 「 陸遜殿、申し訳ありません。趙雲殿は今朝から少し調子が悪いそうで 」
 
 
 背後から聞こえたのは諸葛亮殿の声。彼が味方してくれたなら私を悪いようにはしない
だろう、という無意識に感じる安心感に満たされ、同時にどこか肩の力が抜けた気がした。
 そうでしたか、失礼いたしました・・・と彼の残念そうな声がしてが、敢えて振り返らなかった。
 ・・・彼と対峙すると自分が自分でなくなる。気が、狂いそうだ。
 刃を抜いて、陸遜殿の首の根元へ押し当てる自分を想像して、吐きそうになる。相手は呉の重鎮だ。
 酒の席を抜け出すどころではなくなる『 罪 』になってしまう・・・それに。
 
 
 「 ( そんなことをすれば、今度こそ本当に・・・彼女に嫌われてしまう ) 」
 
 
 一時の感情に身を任せて、を手放すことになれば・・・どれだけ後悔するか目に見えている。
 それこそ相手の思うつぼなのだ、ということも。複雑に絡まる感情の糸に、頭を抱えたい気分だった。
 
 
 宴会場を後にするが止める者は居なかった。殿や諸葛亮殿、馬超には後日詫びねばならないな・・・。
 厩舎で待っていた白龍に跨ると、一路屋敷へと走らせた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「 ・・・ただいま 」
 「 おかえりなさいませ、子龍さま・・・あれ・・・? 」
 
 
 室に入ると、衝立の向こうで椅子から彼女が立ち上がる音がした。
 帰りを待っていてくれたが、くん、と匂いを嗅ぐ仕草をして私の腕に擦り寄った。
ふいに近づいてきた存在に胸が高鳴る。そっと腕を伸ばし、抱き締めようとしたところでシャンと
簪が大きく鳴った。
 
 
 「 微かにお酒の匂いがします。飲んで帰っていらしたのですか? 」
 
 
 見上げたの顔が間近に迫る。否定も肯定もしないまま、何も知らない彼女を見下ろしていた。
は丸い瞳をぱちぱちとさせて鼻をまた袖に近づける。あどけない様子の彼女を前に、私は迷っていた。
 
 
 「 ( ・・・ねえ、このまま口付けたら貴女は怒るだろうか、それとも・・・ ) 」
 
 
 の心が、未だ陸遜殿に向けられていると疑ってしまう理由・・・。
 それは彼女と自分が、本当の意味で『 繋がって 』いないから。
 
 
 彼女の身体だけでも手に入れてしまいたい、と思うなら、抱いてしまえばいいのだ。
 私が、抱きたい、と言えば彼女は頷くだろう。この前の例もある、拒否されないかもしれない。
 ・・・けれどそれは、彼女が本心に背を向けて、の結果だ。
 無理矢理抱いたとなれば、私自身が後悔するだろう。
下手をすれば、永遠に彼女の心は自分から離れていくだろうから。
後悔しても遅いと感じる時が、いつかやってくるような気がして。
 
 
 でもの心が手に入るのを待っていたら、きっと陸遜殿に付け入られてしまう。
 彼は軍師だ。
戦のことも男女の色恋も策略を用いらせたら、只の無骨な武将である自分など太刀打ちできないに決まっている・・・。
 
 
 を・・・愛する女性を奪われてしまうかもしれない、という不安と焦燥。
 
 
 ・・・自信がないのだ。自分には彼のような頭脳や明晰さも若さもない。女性に対する気遣いも喋りも上手ではない。
諸葛亮殿が言うように・・・彼女を幸せに出来る自信が、ないのだ。
 
 
 「 子龍さま、どうしましたか?顔色が悪いですよ・・・あ、もしかして呑み過ぎて気分が悪いのでは 」
 「 ・・・そう、だな・・・ 」
 「 大変!すぐ横になってください!!・・・玉葉、玉葉!子龍さまが・・・ 」
 「 いや、・・・大丈夫だから、落ち着いて 」
 「 こんな時に何を仰ってるんですか!?むしろ子龍さまの方が落ち着き過ぎです!
 私に遠慮はしないでください!・・・ああ、玉葉、子龍さまの寝所の用意は出来ている?? 」
 
 
 の両肩に額を押し当て、縋るように膝を床に着いた私の姿にが青褪めた。
 『 演技 』でもしないと、彼女に甘えることすら出来ない自分が・・・とても情けなく思えた。
 飛んできた玉葉にすぐに牀榻を整えるよう指示をし、は私を無理に動かそうとはせず、その場に座らせる。
自分も膝を着いて目線を同じ高さに合わせると、徐に服に手を伸ばした。
 慌てたのは私の方だった。じ、自分で出来るから!と珍しく上擦った声で答えたのが、
余計彼女の闘志に火をつけたのか。
はぷうと頬を膨らませて、何が何でも脱がせようと帯の結び目を解くのに更に躍起になった。
 
 
 「 ( ・・・あ、この顔・・・ ) 」
 
 
 
 
 
 
 
 
 『 小さな怪我ほど、ちゃんと処置しなきゃ、ですよ 』
 
 
 
 
 
 
 
 
 ああ・・・そういや初めて逢った時も、こんな顔をしていたな。軽い既視感に、堪らず吹き出す。
 普段はそんな強引なところ、垣間見せないのに。夫婦として、
共にそれなりの年月を過ごしてきたつもりなのに、
ふいに驚かされるのだ。まだまだいくつもの顔が彼女の中に眠っている気がして、
掘り出す度に新鮮な気持ちになる。
 
 
 「 ふっ・・・ふふ、ははッ、あははははっ! 」
 「 し・・・子龍、さま・・・?? 」
 「 はははッ、くく・・・すまない、。私は失念していたみたいだ 」
 
 
 
 
 貴女と一緒になりたいと思った、その理由を。
 
 
 
 
 はわからないというように、きょとんとしていたけれど・・・うん、でも、それでいいんだ。
 好きな気持ちは変わらない。貴女が私を選ばず彼を選んだとしても、この愛は不変のものだ。
 だから・・・貴女が私の傍にいたいと言ってくれている『 今 』という幸福な時間を大切にしよう。
 
 
 私は、心配そうな顔をした彼女の頭をそっと撫でる。よく梳かれた黒髪に触れるのは心地良かった。
 曇った表情のに、本当にもう大丈夫だ、と何度も諭すと、ようやく安堵したように、よかった、と呟いて少し笑った。
 
 
 「 ・・・ 」
 「 はい、子龍さま 」
 
 
 改めて名前を呼べば、彼女が答える。
 呼べば返事が返ってくるこの距離に『 在る 』のは陸遜殿ではない・・・紛れもなく、自分だ。だから、
 
 
 
 
 
 
 「 今日・・・呉より、同盟の使者として陸遜殿がいらしたよ 」
 
 
 
 
 
 
 告げるか迷ったが・・・ありのまま、自分の信念のままに。
 
 
 
 
 
 
 「 ・・・そうですか。教えてくださってありがとうございます 」
 
 
 
 
 
 
 は一瞬瞳を閉じて・・・いつも通りに、微笑んだ。
 陸遜殿に逢いたい、呉に帰りたい・・・と泣きじゃくるんじゃないかと最悪の場合も覚悟していただけに。
動揺ひとつ見せない彼女の様子に、本当は拍子抜けした気分だった( けれど、心底ほっとしたんだ )
 そこへ玉葉が牀榻の支度が整ったと報告に来た。腰が抜けたように立ち上がるのを渋っていると、
まだ気分が優れませんか?とが白湯を持ってきてくれた。
 
 
 「 ありがとう、 」
 「 どういたしまして 」
 
 
 それを飲んだら、ちょっと辛くても牀榻へ移動してお休みなってくださいね、とが微笑む。
 自分の緩んだ唇を隠すように、白湯の入った杯を煽る。
 
 
 
 
 
 
 は渡さない、彼の思い通りにはならない。彼女の覚悟を・・・私は守ると決めたのだ。
 
 
 
 
 
 
 ぬるめの白湯が胃に沁み込む時、受け取れなかった『 杯 』を一瞬だけ思い出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
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