伯言が来ているという期間、私は家から一歩も出なかった。
「 今日・・・呉より、同盟の使者として陸遜殿がいらしたよ 」
子龍さまがそう言った時、動揺を隠すのが私に出来る『 精一杯 』で。
微笑んだ私の顔は歪ではなかっただろうか、と後から気になった。
瞼を閉じれば、別れ際に見た伯言の・・・寂しそうな笑顔が思い浮かぶ。
孫権さまの代理として同盟の確認に来た、と伯言は言っていた。私と逢った日から随分と時間をずらして
蜀を訪れたのは、きっと私の為だ。見られていない自信はあるにしても、
万が一のことがあった場合、私と伯言が密会していたとバレないように。
無事に到着し、子龍さまのお話しぶりだと滞在を許されたみたいだから、あの夜のことは誰にも知られていないのだろう。
刺繍の針が動きを止める。ほら・・・私の心はこんな簡単なことで動揺してしまう。
「 ( 伯言の手を二度も振り払って、子龍さまを選んだのは私自身なのに ) 」
いつだって・・・伯言も子龍さまも、私へと差し伸べる手は真剣なものなのに、そのどちらも選べずに迷ってしまう。
伯言に差し伸べられれば、その手は子龍さまを裏切るものに見えてしまい、
かといって子龍さまの手を取れば、もう二度と伯言の元に戻れない気がして・・・躊躇ってしまうのだ。
・・・私だって、子供じゃない。
いつかはこの迷いに決着をつけて、答えを出さなきゃいけないことくらい、わかってる。
「 ( 今は・・・子龍さまのためにも蟄居していよう ) 」
伯言に逢いたい、なんて言えば、きっと要らぬ負担をかけてしまうから。
子龍さまは・・・私の心が定まらないのを知りつつ、此処に置いて下さるのだ。
だから、私がずっと屋敷にいたと知れば余計な心配をかけなくて済むだろう。
「 ( そう自分に言い聞かせている割には、刺繍が全然進んでいないんだけど ) 」
上の空もいいところ。どれだけ・・・伯言のことを考えているんだか。
自分自身に溜め息が出る。皮肉めいた笑みが浮かんだ時、部屋の外から声がかかった。玉葉だ。
「 失礼致します、さま。孫夫人がお見えでございます 」
「 え・・・尚香さまが!? 」
臣下の家を訪ねることなど、あまりないことなどだけど( でもあの方なら、という思いがあるのは何故だろう )
ともかく部屋にお通してください、と言ったものの、もうすぐ傍までいらっしゃっていたらしい。
刺繍道具を片付ける前に衣擦れの音がした。その人の姿を認めると、私は拱手の姿勢を取った。
「 いらっしゃいませ、孫夫人 」
「 尚香、で結構よ。うふふ、突然お邪魔してごめんなさいね。急に貴女の顔が見たくなっちゃって 」
相変わらずの明るい声でえへへと笑った尚香さまが、奨めた椅子に腰掛ける。
卓にはお茶やお菓子が並べられ、御礼を伝えると玉葉が笑みを浮かべて部屋を去る。
2人きりになると、尚香さまは持ってきた包みを卓に開放した。
「 これ、呉のお饅頭なの。権兄さまが好きでよく取り寄せていたのよ 」
「 あ・・・私、頂いたことあります!陸家で、やっぱり孫権さまから頂いた時に美味しかったので、と 」
「 ふふっ、よかったぁ!これもね、陸遜が持ってきてくれたの。今来ているって趙雲から聞いた? 」
「 ・・・はい 」
そう、と彼女は一度会話を切って、お茶を啜った。
「 貴女と逢うのも婚儀以来ね。あれから体調を崩したと知って、すごく心配したわ 」
「 病の折には、大変貴重なものを頂きましてありがとうございました 」
「 お礼なんていいの。それより、からもらった包子、とっても美味しかった!
ねえねえ、あれってどうやって作るの!?私も作れるようになれば、殿はお喜びになるかしら 」
「 難しくありませんから、私で良ければ今度お教えしますよ 」
「 うふふ、約束ね 」
尚香さまは嬉しそうに笑って、頬を染めた。しばらく自分の鬱々とした気持ちと向き合っていたせいか、
彼女の陽気な声にすごく救われる気分だった。自然と自分も顔にも微笑が浮かんでいるのが解る。
太陽のように弾けんばかりの、その純粋な笑顔。
だから、彼女は身分や国境を越えて、様々な人々に愛されるのだろう。
「 ・・・いいなあ・・・私も、尚香さまのようになりたい・・・ 」
無意識に声に出てしまってから、はっとする。わ、私、何て失礼なことを・・・!
あわあわと口を押さえるが、そんな私を見て尚香さまは吹き出した。声高らかに笑って、
貴女たちって似ているのね、と呟いた。誰に?と首を傾げると、当然陸遜によ、と彼女は苦笑した。
「 はく・・・陸遜さまにですか? 」
「 一緒にお茶をした時、陸遜も自分の考えに沈みこんで独り言呟いてたわ。陸家は皆そうなの? 」
「 そ、それは・・・申し訳ありません 」
が謝ることじゃないのに、と尚香さまは笑って・・・一際長い溜め息をついた。
「 ・・・逢わなくていいの?子龍に頼めば逢わせてくれると思うわ、従兄妹だもの 」
「 尚香さま 」
「 貴女の話題になった時、陸遜にも同じことを聞いたわ。だけど彼は首を振った。ねえどうして?
私だったら身内が近くにいるって聞いたら、馬をすっ飛ばしても逢いに行っちゃうのに 」
何故、彼女が急に私を訪れてくれたか・・・ようやく判った気がした。
尚香さまの周囲にいる呉の人間は、使者として訪れている伯言と私しか居ない。なのに、お互いが
お互いの面会を拒否しているのだ。
呉を代表して陸家から出された花嫁を、当主である伯言が確認するのも至極当然のこと。
また、故郷である呉の様子を知りたいと思うのも、またこれ当然の心理なのに私も逢おうとしない。
同じ家の出自なのにも関わらず・・・に。それで尚香さまは訪れたのだろう。
どう理由をつければ良いのだろう、と迷う。それとも何もかも告白してしまった方が潔いのだろうか。
一人で悩むことに疲れていた私は、いっそ誰かに話して楽になってしまいたかった・・・でも、
こんなにも私を心配してくれる尚香さまを、自分の『 運命 』に巻き込んでしまうことだけは避けたい。
「 逢えない、理由があるんです 」
手の中にある湯呑みを見つめたまま、そう静かに告げる。
「 貴女は国のために蜀へと遣わされた花嫁。それは陸家にとって誇りよ。何を遠慮するの? 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 同盟の確認をしに来た意味、にならわかるでしょう?近いうちに戦争が起きる。
そうなれば呉に帰ることもしばらく出来ないし、陸遜は軍師よ。戦の先でも逢えるかどうか・・・ 」
「 それでも・・・それでも、です 」
頑なに拒んだ私は、そのまま黙り込む。
私なんかよりも全然上の身分の奥方様に、なんて無礼な物言いだろうと思いつつ、
俯いたまま、卓の上で冷えていく茶碗の中身ばかりぼんやりと見ていた。
午後の日差しを浴びた薄褐色の水面が白く輝いている。今の私には眩しすぎて・・・目を、閉じた。
すると、しばらくして彼女がそう・・・とぽつりと零した。それ以上は尚香さまも聞いてこなかった。
( こういうところも、彼女がみんなに愛される理由の一つなんだろうな、と思った )
閉じていたゆっくりと瞳を開いて、私は彼女に真っ直ぐ向き直った。
「 尚香さまは・・・まだ、陸遜さまにお逢いする機会がありますか? 」
「 え・・・?ええ、恐らく。明日の朝には出立するみたいだから、今夜の宴では逢うわよ 」
「 ・・・ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか 」
私は首の後ろに手を回す。襟下から姿を現した小さなそれを、ことん、と卓の上に置いた。
きょとんとしていた尚香さまは、首を傾げて手に取る。陽射しに透かすと、光を浴びて輝いた。
「 琥珀? 」
「 陸遜さまにお渡ししてください。戦へのお守りに、と 」
伯言ならば、憶えているはずだ。それが・・・私にとってどんなに大切なものかを。
そしてこの首飾りの存在がなければ、私たちの気持ちは結ばれるはずがなかった。
だから・・・どんなに離れても、私は伯言を想っている。
胸が引き裂かれるような苦しみの果てに、殻を破って生まれ変わった『 恋心 』はもっと無垢なもので、
真摯な想いへと昇華した。今ももちろん愛してる、でもそれ以上に深い気持ちで彼の幸せを願っている。
結ばれなくても、離れ離れになっても・・・伯言を想わない時は無いんだって
・・・そう、伝えたいから。
琥珀の首飾りの真意はわからずとも、何か強い決意がそこにある、と察してくれたのだと思う。
彼女は私と向き合うと、力強く頷いた。確かに預かったわ、と首飾りを帯にしまう。
そして持ってきたお饅頭を私に薦めると、自分もひとつ摘んで口の中に放り込んだ。
「 やっぱり美味しいわね 」
「 はい、美味しいです 」
「 ねえ・・・国のことは抜きにしても、また貴女に逢いに来てもいいかしら? 」
「 ええ是非。お待ちしております 」
よかった、と微笑む彼女に、私も笑いかける。
久しぶりに呉の話が出来ると思ってか、話に花が咲き、玉葉にお茶のお替りを頼む。
日の沈む気配に、ようやく尚香さまは重い腰を上げる。
胸に抱いた私の首飾りに手を当て、馬上で微笑んだ姿に・・・私は深々と頭を下げた。
伯言・・・どうか貴方に、私の想いが届きますように。
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