鎧の止め具の、最後の一つを止めると、彼は身体に馴染ませるように軽く揺する。
傍らに控えていた家人たちを前に、屋敷の主であるをしっかり支えよ、と声をかけ、玉葉には、 あとは頼んだぞ、と頷いた。拱手した玉葉が、家人たちを下がらせる。


「  」


伸ばした手に掴まる。導かれるようにして抱き締められた彼を見上げると、静かに微笑んでいた。
いつ見てもとても綺麗な顔立ち。見つめられれば、恥ずかしくなって顔を背けるのは私の方だ。
だけど・・・今日だけは目を逸らしたくなかった、絶対に。


「 子龍さま・・・お願いです、還って来て下さいね 」
「 ああ、努力はする。だけど・・・も約束は忘れないでいてくれ 」
「 ・・・忘れてしまうかもしれません。だから忘れないうちに還って来て下さい 」
「 変なところで頑固だな、は 」


何とでも、と答える前に、そっと子龍さまの唇が降って来る。
何度か子龍さまとは口づけを交わしたけれど・・・今までで、一番熱い。 離れても熱だけでも置いていくことができればいいのに。 そうしたら私、子龍さまのことだけ考えて・・・生きていける、のに。
抱き締められたままでいたら、伯言への想いもいつか子龍さまの熱に溶けるかもしれないのに。


「 それでは、いってくる 」


刻限だ。私は立膝をついて、子龍さまの足元に深く叩頭した。


「 屋敷のことはお任せ下さい・・・どうぞ、ご無事で 」


ああ、と子龍さまの声がして、私は顔を上げる。
たった今昇ったばかりの朝陽に照らされた彼は・・・その名の通り、神々しい龍の化身に見えた。














数刻経っても、胸の内は晴れなかった。
戦があるのは、今この時代珍しくもない。呉にいた時だって、あちこちで起こってたのは知ってる。
けれど、私には当たり前のように両親が存在して、この年齢まで戦火を経験したこともない。
それは何て幸せなことだろうと、改めて思う。だからこそ、子龍さまを見送ることが切なくて堪らない。
もう何度目になるかわからない溜め息の後に、さま、と玉葉が私に声をかけてきた。


「 大丈夫でいらっしゃいますか?お心を強くお持ち下さいませ 」
「 うん・・・わかってるのよ、本当は。だけど、やっぱり・・・ 」


魏を相手に、蜀と呉が手を組んで戦う。 私は、二度だけお逢いした孫権さまと劉備さまの顔を思い出した。この国の同盟のために、私と尚香さまが 故郷を離れた。けれど、こうして『 自分の役割 』を再確認すると、やっぱり自分の選択は間違っていなかった と思う。
少なくとも、子龍さまと伯言が争うのではない。むしろ協闘するのだ。
それだけは本当に・・・唯一、安堵できる事実だった。


「 そのうち、こうして戦へ送り出すことにも慣れなくちゃいけないのよね。今は難しいけれど・・・ 」
「 いつ決着がつくかもわかりませんし・・・終わっても、屋敷に戻られるまで時間がかかりましょう 」
「 そうね・・・ 」


子龍さまは単騎で駆け抜けるほどの胆力の持ち主で、想像を絶する武人でいらっしゃるそうだから。
戦のことはよくわからないけれど、呉から嫁ぐ時に馬超さまがそう教えてくださったのだ。 あいつは凄い、俺の自慢の戦友だ、と自分のことのように嬉しそうに話す様子を見ていて、 趙雲さまとはどんな方なのだろう・・・と想像を巡らせたっけ。もっと戦鬼のような人だと思ってたのに ( あんなにお優しい方とは思わなかったなあ・・・ )
くすり、と思い出し笑いをしていると、侍女の一人が拱手して入ってきた。玉葉に何か耳打ちする。


「 さま、凱旋が始まったようです。見に行かれませんか? 」
「 凱旋・・・ 」
「 趙雲さまのお姿を拝見するのも、恐らくこれが最後。戻られるまでお目にかかれないかと 」


これが、最後。


玉葉のその言葉を聞いた瞬間、足が勝手に動いた。彼女の驚いた声は背中で聞いた。
部屋を飛び出し、室を繋ぐ廊下を駆け抜け、玄関へと向かう。すれ違った誰もが振り向いた。
けれど、そんなことには目もくれず、屋敷を飛び出す。


「 ( 子龍さまっ・・・! ) 」


蜀の軍勢が凱旋するのをひと目見ようと、成都は驚くほどの人で溢れかえっていた。
私はきょろきょろと周囲を見渡して、人の視線の先を追い、目的の場所へと目星をつける。
街へ下りた私の後から護衛兵がついてきてくれているのが、何となくわかった。きっと玉葉が慌てて遣わせたのだろう。 だけど、人の波に押されてどこまでついて来れるか。
待っている暇もなく、私は人込みを掻き分けて『 その場所 』を目指す。
はあはあ、と途切れ途切れに息が漏れた。とっくに肺は限界を迎えている。気を抜いたら倒れてしまいそう・・・だったが、 ふと目に付いた積まれた木箱。私はもうひと踏ん張りと走り、 だん、と勢いをつけて踏み込むと、木箱の山へと這い登った。
そのまま中心街から少しだけ離れた、低めの屋根の上に飛び移る。


少し遠いが、遠くの方からやってくる一団・・・あの中に、子龍さまがいる。


先頭は馬超さまだろうか・・・ああ、そうだ。煌びやかな立派な鎧に身を包んだ彼は、きっと目が良いんだろう。 随分と遠くに居たのに、私の姿を認めて一瞬驚くが( うう、必死だったとはいえちょっと恥ずかしいかも )白い歯を見せてニッと笑った。
私も笑って手を振り返す。馬超さまは振り返すと、近くの兵を捕まえて何事か言いつけると走らせた。


首を傾げていると、やがてやってきたのは劉備さまだ。
ひと際大きな声援を受けて、彼は民に向けて手を振っている。仁愛の精神の持ち主だ、と子龍さまが 仰っていた。彼は、私たちの平和を守るために、こうして出陣しているのだ・・・そう思うと胸が熱い。
その隣に控えているのは、諸葛亮さま。
いつものように扇をはためかせているが、凱旋ということもあってか、その顔には覇気が満ちている。
流石というべきか、彼も目ざとい。周囲を見渡すことなく、私を視界に捉えると穏やかに頭を下げる。私も小さく 拱手で返した。


「 ( あ・・・っ!! ) 」


華燭の典でお逢いした関羽さま、張飛さまに続いて・・・とうとう、子龍さまの姿を見つける。
早朝に見送った時と同じ井出達。白銀の鎧に外套が翻る。長い髪が白龍の歩みに合わせて靡いていた。 やっとお逢いできたと思うと、へた、とその場に腰が落ちた。
そこへ、どこかで見た兵士が現れて子龍さまに駆け寄る ( そうだ、馬超さまの・・・! )途端、顔を上げた子龍さまが辺りを見渡した。


「 しっ・・・し、りゅうっ、さまぁああッ!! 」


突然の、頭上からの絶叫に周囲の人が振り返った。遠すぎて声は届いていないはずなのに、 弾かれたように振り向いた子龍さまが、微笑む。嬉しそうな表情で、!と叫んでくれたのが口の形でわかった。


「 私、待ってます・・・子龍さまのこと!! 」


私の声だって、この歓声の中じゃ届かない。
でも・・・『 想い 』は届いた。だから振り向いてくれたのでしょう?そう・・・信じてもいいですか?


「 死なないで、お願いだから還って来てくださいッ!絶対、絶対・・・ッ!! 」


ずっとこの目に焼きつきたいと想うのに、思いとは裏腹に視界が滲んでいく。
涙が後から後から頬を伝い、終いにはぎゅうぎゅうと胸が締め付けられて、声も出ない。
けれど・・・彼はいつものように、ふっと唇を綺麗に持ち上げて、静かに天へと拳を掲げた。
おおおッ!!と彼の後ろに付き従っていた兵士たちから、大きな気合いの声が上がった。それを受けて、 見ていた街の人も応えるように声を上げる。


「 ( ・・・子龍さま・・・! ) 」


彼が拳を掲げた天を仰ぐ。両手を胸に当てて、全身全霊を込めて祈った。






どうか彼らにありったけの武運を。子龍さまと伯言・・・蜀と呉の未来に、光あれ。






凱旋が終わり、蜀全軍が門を通り抜けた後も、集まった人たちの熱はしばらく冷めなかった。
・・・戦場の彼らのように、私も『 私に出来ること 』をしなきゃ。
着物の袖で残った涙を拭うと、私は立ち上がる。胸のわだかまりは、涙と共になくなっていた。






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