『  』












私を呼ぶ、愛しい愛しい彼の声。
伯言、と答えたつもりなのに、水中に気泡が浮いただけ。けれど、苦しくはなかった。
私の方が水面の底に居るのだ。逆光の中でもわかるほど、美しく微笑んだ伯言が手を伸ばす。
そっと自分も手を伸ばすと、彼はそっとその手を引いて水面へと引き上げる。


『 ありがとう 』


と、水面へと続く短い距離を浮遊しながら、彼は言った。


『 ありがとう、・・・それに趙雲殿にも。謝罪と、たくさんの感謝を。
  私自身と、大切な貴女の幸せを願ってくれる全ての人に感謝しています 』
『 伯言・・・違うわ、私、何も返していない 』
『 それは大きな間違いですよ。いっぱい与えられていたのは私の方です。だから 』


浮遊感が更に加速する。伯言の姿はとうに見えない。
導かれる彼の手だけが、その存在を感じさせてくれていた・・・けれどその指先も、離れる。






『 だから、今度は貴女の愛を・・・貴女が本当に愛する人に、向けてあげてください 』





















が私のために祈ってくれた分だけ・・・私も、貴女の幸せを願っているのですから。





















水面が視界に広がり、世界への扉が開く。






ぷは、と大きく口を開けたそこは、一面に広がる青空の真下。
雲の棚引く様を黙ってみていたが、伯言に導かれていた手を・・・誰かが握っていたようだ。
強く握られ、小さく顔を顰めると、青空と私の間に割ってはいる顔があった。
私を見下ろし・・・泣いてしまうのかと思うほど、その美眉が八の字にくしゃりと歪められる。


「 、気がついたか 」
「 ・・・はい・・・子、龍さま・・・ 」


黒い前髪が庇のように陽の光を和らげてくれている。状況を確認したくて身体を起こそうとすると、 気だるい身体には一切の力が入らなかった。そのままでいるんだ、と彼から制止の声が上がった。


「 あの・・・私、一体・・・どうして、助かったのでしょうか 」


だって、もうこれで何もかも終わりだと思った。屋敷の倒壊も、私の命も。
確かに爆風を背に受けたのも憶えているし、その、戦場ほどではないにしても流血もした。
それを見て張り詰めていたものが切れてしまい、生きる気力も手放してしまったというのに。
彼は弱々しく微笑んで、玉葉たちだよ、と言った。


「 が倒れてすぐ、玉葉が他の家人たちと合流して、裏口から私たちを助けに来てくれたんだ 」


ああ、では最後に聞いた足音は幻聴なんかじゃなくて、救助に来た家人たちの足音だったのだ。 子龍さまの話では、屋敷は全焼したが奇跡的に死人は一人も出なかったらしい。火を起こした張本人である 南からの侵入者たちも成都の軍勢がたちまちに追い払ったという。街にも壊滅的な被害もなかったそうだ。
それを聞いて、ほお・・・と長い吐息が出た。
・・・よかった、本当によかった。玉葉も、子龍さまも、誰も死なずに全員無事だったなんて。
浮かんだ涙を彼の指が撫でる。そのまま頬に手が添えられ、子龍さまがじっと私を見つめた。


「 今回のことは、にどんなに感謝しても足りない。ありがとう、。皆の命を救ってくれて 」
「 いいえ、全然お役に立てず・・・むしろ子龍さまに言わなくては。ありがとうございます 」




いつもいつも、私を救ってくださる正義の味方に。




にこ、と笑うと、子龍さまもつられるように笑った。そのことに今気づいた、と言わんばかりに 急にはっとして照れくさそうな表情を浮かべる。子供みたいだ、と堪えるように微笑んだ私の唇を、 すかさず捕らえては騒ぐ前に離れていく。ぽかん・・・と呆気にとられていると、照れたように笑って 立ち去っていく。彼の背中が遠ざかっていくのと入れ違えに、足元から声がした。


「 ・・・珍しいこともあるものですね。他人に見せ付けるような方ではないと思っていたのですが。
  さまのお陰で、趙雲さまも遅ればせながら人並みの恋愛が出来たということでしょうか 」
「 玉葉っ!無事でよかった!! 」
「 さま・・・あの炎の中よくぞご無事で・・・この玉葉、身の縮む思いでしたよ 」
「 ごめんね、無茶ばかりして。逆に迷惑をかけちゃったわね・・・ 」
「 違いますわ、さま。感謝こそすれど、迷惑などと如何して思えましょう。
  私がここにおりますのはさまのお陰。大切な御身ですのに本当にありがとうございました 」
「 ・・・玉葉・・・そう言ってくれて、嬉しい。これからも傍で支えてね 」


はい、と顔を上げた彼女の瞳には涙が溢れていて、私の傷ついた手を抱き締めて泣いた。
もらい涙を流す私に、もう一人声をかけてきた。彼女は玉葉が背負っていた侍女だ。貴女も 助かったのね、よかったわと微笑むと、むせび泣いて地に伏せる。そんな私たちを見ていた周囲から、 すすり声がした。身体を起こせずとも、命の危険を共にした趙家のみんなが心からこの結末に感謝している。


じわりと胸を温める感情を閉じ込めるように目を閉じていると、子龍さまがやってきたのだろう。
周囲が拱手し身を引く音と、、私の名を呼ぶ声に返事をする。


「 これから場所を移すが、貴女はそのまま横になっていなさい。
  私も共に輿で移動するとしよう。今、用意してもらうから待っていなさい 」
「 子龍さま・・・あの、子龍さまの傷は平気なのですか?随分酷いように思えたましたが・・・ 」
「 ああ、適切な手当てが早かったせいかな。片足を引き摺るが、何とか歩けるくらいにはなった。
  白龍には乗れるほど、まだ体力は回復していないがな・・・ 」
「 それに・・・移動って、どちらへですか? 」


趙家は燃えてしまった。他の屋敷に比べたらそこまで大きくは無かったが、将軍家だったのでそれなりの広さだった。 家人も、最低限の人数だったとはいえ決して少なくはない。 彼らを置いていくというの・・・?
子龍さまは、私の不安そうな表情を見て苦笑する。頭をひと撫ですると、城だ、と告げた。


「 尚香さまの取り計らいで、趙家は全員、一時的に城で預かっていただくことになったんだ。
  狭いのは承知しているが・・・と私は、しばらく私の執務室で生活してもらう 」


戦の前に、せめてもう少し綺麗にしておけばよかったと、今ほど後悔した時はないよ。


そう言って頭を抱えた子龍さまに、玉葉が肩を竦めると周囲から笑いが沸き起こる。
私も笑う。屋敷が焼けたというのに、悲観になる人は一人もいなかった。




だって、これからもずっと一緒なのだから。今の私たちなら何でも出来るように思えた。






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