涙ながらの、伯言の悲痛な声が響き渡る。音もなく空気を切り裂く気配に、震えることすらなかった。
ただ静かにその時を待ち侘びていると・・・刃は私の、すぐ脇を掠めた。
「 ひと房、貰い受けるぞ 」
という声と同時に、宣言通り髪がひと房切って落とされる。しゃく、と場違いな柔らかな音がして、
ぼとりと床に弧を描いた。音がすると同時に瞑っていた瞳を開く。
視線を落としていた私は、床に落ちた髪を拾い上げる手を追いかけるように顔を上げた。
「 ・・・子龍さま? 」
険しい顔など嘘のように、優しく笑っていた。
彼は地に伏せた私に手を添えて起こすと、そっと抱きしめる。
「 道に迷っていたは途中で力つきて死んでいて、遺体はそのまま火葬してきた。
遺髪だけ持ち帰って来た・・・ということにする。屋敷はもう崩れ落ちる。貴女は逃げなさい 」
「 し・・・子龍、さま・・・!? 」
「 幸い、屋敷が燃えたのは事実だから。諸葛亮殿あたりは疑うかもしれないが、深く追求はしまい。
こういうことは得意じゃないが、それでもうまく誤魔化してみせるさ 」
ふっと唇を持ち上げる。何ともいえない表情をしてるな、と呟いて、煤のついた私の頬を愛しそうに撫でる。
そして・・・誓約は取り消そう、と言った。
「 貴女をそこまで悩ませた責任は、私にもあるのだから。苦しい思いをさせてすまない。
しかし、今まで一緒に過ごしてくれてありがとう。短い間だが感謝している。
傍にいなくても、私はが幸せであればいいと思ってる。
陸遜殿を選んで幸せだった、胸を張ってそう言える人生を貴女に歩んでほしいんだ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 大丈夫。私は私なりの幸せを見つける。だからお互い、自分の生きる国で幸せになろう。
・・・このまま突き当たりを左に曲がれば裏口がある。そこから東門へ向かうのだ。
門で私の名前を出して、馬を借りなさい。私は表から出て、周囲の目を引き付けるとしよう 」
「 で、でもたった今、私たち通ってきましたがもの凄い火の勢いで・・・危なくて通れません! 」
「 私一人なら平気だよ。戦場ではこのくらいの勢い、幾度も切り抜けてきたさ。
時間が無い、さあ行くんだ!!を頼んだぞ・・・陸遜殿 」
抱きしめていた腕に一瞬だけ力が宿るが、すぐ伯言へと背中を押し出される。
よろけた私を身体を起こしたばかりの伯言が抱きとめ、
「 ・・・子龍、さま・・・子龍さまーっ!! 」
声をかけた時には、炎の中へ消えようとしていた。吸い込まれようとする残影に、自然と頭が下がる。
涙が後から後から溢れて、乾いた床に零れては吸い込まれていく。隣の伯言も拱手しているのがわかった。
そして・・・頭を上げた時にはもう、彼の姿はなかった。
「 ( さようなら、さようなら・・・子龍さま ) 」
私、何もして差し上げられなかった。妻としても、女としても。
子龍さまはいつだって私を大切にしてくれたのに。いつだって、愛して・・・くれた、のに・・・。
( だけど、もう・・・これが最後。生涯、二度とお逢いできないだろう )
隣の伯言の手を握る。驚いたように振り返った彼に、私は微笑んだ。
「 行こう、伯言 」
「 ・・・ええ、。こちらです 」
泣いてはだめだとわかっていても、惜別の涙は止まらなかった。零れる涙が、煙対策のために口を覆った
袖に全部吸い込まれて、どんどん重くなっていく。そんな私に何も声をかけずに、伯言は黙ったまま私の手を引っ張ってくれた。
・・・ぎゅうっと繋いだ手が熱かった。
出口はすぐだ。言われていた角というのは、ここのことだろう、と思われる場所を左に曲がる。
息を吐く暇もないほど走って、走って・・・
ようやく裏口を抜けたところで、背後で轟く大きな音に振り返る。
燃え上がる柱が倒れて、たった今通ってきた出口が塞がれていた。
少しでも遅れれば大変なことになっていただろう・・・ぞっと背筋が寒気立つ。
「 ( 子龍さまは・・・間に合ったのかな・・・ ) 」
表の方が火の回りが早かったはずだ。いくら子龍さまといえども・・・まさか・・・。
私が青ざめたのを悟ったのか、伯言が慰めるように背中に手を当てた。
「 趙雲殿なら恐らく心配いりません。なんせ全身肝と評される、蜀の大将軍ですから。
むしろ、ここで貴女が見つかることこそ、逃がしてくれた彼の為になりませんよ 」
「 ・・・うん、わかってる 」
子龍さま、玉葉・・・主と慕ってくれた、趙家の家人たち。
尚香さまや馬超さま、諸葛亮さま、劉備さま、親切にしてくれた蜀の人々。
「 ありがとう、さようなら 」
風に消えてしまうほど小さな別れの言葉。伯言はしばらく見守っていてくれたが、頃合いを見て私を促す。
手を取り合って東門を目指した。子龍さまの指示に従い、馬を借りなきゃ。呉へ・・・向かわなきゃ。
『 死んだ 』ことになっている私に、どんな運命が待ち受けているのかわからない。
それでも・・・私は、伯言の隣を選んだ。泣いても始まらない。後悔なんか、しない。
彼の言う通り、伯言を選んでよかったと思うくらい・・・私、幸せに、ならなきゃ。
描いた未来を、現実にする為に。汚れた裾で顔を隠しながら城門へと急いだ。
南の城門が攻めらている。東からも攻撃が来るのではないか、と駐屯する兵士たちは戦々恐々だった。
声をかけるのも躊躇うほど。この中に私を趙家のものだと知っている人がいたらと思うと、余計不安になる。
伯言はおろおろと立ち尽くす私の肩を抱くと、力強く引き寄せた。
「 趙雲さまの遣いで馬をお借ります。よろしいですか? 」
「 何ッ、趙雲さまだと・・・!?成都に、も、戻って来られてるのか!? 」
力強く伯言が頷くのを見て、そうか・・・なら勝機はある!と彼らは瞳の色を取り戻す。
わ、と気合の声が上がるのを呆然と見ていると、一人の兵士が厩から栗毛を連れて来てくれた。
鼻面をひと撫ですると、まず伯言が颯爽と跨がり、差し出された手に掴まった私が彼の前に騎乗する。
走り出そうとすると、馬を連れて来てくれたさっきの兵士がの毛布を差し出した。
その格好じゃ外に出た時辛いぜ、と苦笑される。
・・・それもそのはず。なんせあちこち焦がし、寄れて破けた衣装では、防寒の意味を成さない。
人の歩みよりも早い馬上だからこそ寒いのだ。
ありがとうございます、と礼を言って受け取ると、彼は返すように笑って馬の尻を叩いた。
「 しっかり掴まっていてください 」
はっ、と声を上げた伯言が手綱を取る。伯言と同乗する時には、それこそ死ぬ気で掴まっていないと
落馬しかねないことなんて重々承知しているつもり。・・・でも、これは遠乗りじゃないんだ。冗談めいている場合じゃない。
神妙な顔つきでしがみついている私に、、と声が降る。
「 大丈夫ですよ・・・もう絶対、離しませんから・・・ 」
栗毛の馬はとっても足並みが速い駿馬で、口を開けば舌を噛んでしまいそうだった。
だから頷いた、つもりだったんだけど・・・上下の揺れでガチガチと歯がぶつかるので、それも上手く伝わったかどうか。
伯言は眉を八の字に寄せて苦笑すると、しばらくの間、我慢してくださいね、と言った。
「 このまま長江沿岸に向かい、船で呉へと帰りましょう 」
呉へ帰る、と聞いた瞬間、長い夢が目前に迫ったことを今更ながら・・・悟る。
見上げた私の頭を撫でた伯言はさらに馬を走らせる。呉へと通ずる、その道へと。
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