長江の辺まで辿り着くには、日数を要する。
成都を出発したものの、日が沈むまでにそう時間がかからなかった。そうでなくても身体が重い。
涙もいっぱい流したお陰で、目も腫れぼったくなっている。 触れると熱くて、その熱に酔ったようにくらりと眩暈がした。


「  」


伯言の声に振り返ると、こちらへと手招きしている彼が居た。 成都から少しでも離れなければ( 私のこと云々より、呉の武将である伯言の方が心配だった )と逸る 気持ちはあるけれど、体力・気力が落ちては行程も思うように進まない。そう提言した伯言はすぐに宿へと交渉してくれた。


「 戦が終わった影響が思ったより早いみたいで・・・ひと部屋だけ用意してもらいました 」


物流も動き出したようだから、今の時期、行商人でいっぱいなんだね、と言うと、彼はちょっと驚いたような顔をする( 失礼な! ) そして、も少しは賢くなりましたね、と子供の成長を喜ぶような満足げな表情を浮かべた。


「 少しは、ってところがひっかかる・・・ 」
「 そのままの意味ですよ。すみません、言葉に衣を被せられない性格でして 」
「 全然謝ってないじゃないっ! 」


噛み付く私をまあまあと宥めるフリをして、案内された部屋の扉を開ける。
私を中に押し込むと、すぐ戻りますから、と断って、伯言はどこかへ行ってしまった。
誰の目も届かない場所に移ったというだけで、突然疲労が身体中にのしかかる。 ぽつんと一人きりになった私は簡素な牀榻に腰掛け、なんとなく寝転がっただけで・・・ それこそ目を開けても居られなくなる。 落ちる、と思う前に暗闇に包まれ・・・小さな物音で目が覚めた。


「 ・・・っと、すみません。起こしてしまいましたか 」


彼の謝罪の声が聞こえるが、どこから発しているのかがわからない。
青暗い闇の中で、は、伯言・・・?と伺うような声を上げると、視界にぽうと光が浮かび上がる。 扉を開けた伯言が、灯を手にして戻ってきたようだ。蝋燭の火を部屋の端にある台灯篭に火を移すと、 ようやく暗闇が去る。ほっと胸を撫で下ろしていると、伯言は手にしていたものを広げた。


「 着替えと旅の用意を一式揃えてきました。その格好じゃ、外へ出ることもままならないでしょう 」


そういえば・・・と身体を包む毛布の中身は、もうぼろぼろになっていた。足元まである裾も、 脛の辺りの短さになっている。火で焦げた上に馬上ですり減ったのだろう。


「 湯をもらって来ます。身を清めれば落ち着きますよ 」
「 うん・・・ありがと 」


にこ、と微笑んだ彼は、また扉の奥に消えたが今度はすぐに戻ってきた。
予め準備してもらっていたのかもしれない。湯の張ったたらいを運んでくると、部屋の端に置いた。
さ、どうぞ、と薦められるが・・・えっと・・・どうしたらいいんだろう、この状況。
確かに身体は洗いたい。着替えもしたいし、けれど、その・・・な、何か衝立とかないのかな。
だってここで脱ぐってことは、その・・・はっ、伯言の前で裸になるってことで!
そそそそんなの、初めてじゃないってことはわかってても、あの、あの時とは状況が違うじゃないッ!
・・・私たちを縛る理由はなくなったの、だし・・・。
え、あっ、で、でもね!ははは伯言にすぐ手を出してもらいたいとかそんな訳じゃ、なくてッ!!


着替えを抱えたまま、真っ赤な顔でもじもじしている私を見て、堪えていたものを吐き出すようにぷっと伯言が吹き出した。


「 はーくーげーんッ!酷い!これでもかってくらい、こっちは緊張してるんだけど!! 」
「 嬉しいですね。それは私のことを一人の『 男 』として意識してくれているということですか。
  ご期待に応えて、このまま貴女に手を伸ばしても・・・ 」
「 キャーキャーキャーッ!!はははは伯言のっ、ば、馬鹿ッ!! 」
「 ふふ、すみません・・・あまりにが面白くて、つい。夕食をもらってきます。ゆっくりどうぞ 」


肩を震わせてまま出て行く背中に、むむむ!と頬を膨らませて・・・苦笑する。
着替えをたらいの傍に置き、服を脱いで身を湯に鎮める。たまらず吐息が出て、汚れた身体を洗った。 ちゃぷ、と湯気の立つ湯を手で掬う。透明な湯に映った顔にはいっぱい煤がついていた。
何度か顔を濯いで、身体のあちこちにこびりついていたものを落とすと、 ようやく緊張も削ぎ落とすことが出来たようだ。最後に湯を覗くと、すっきりとした 顔つきに戻っていた。
布で水気を拭いて、帯を巻いていると、ちょうど伯言が戻ってきた。 両手で持った大きな盆には、料理の盛られた器が乗っている。 卓の上に並べられたそれを見て、小さくお腹が鳴った。


「 まずは腹ごしらえ、しましょうか。でも、申し訳ないけれど先に食べていてもらえますか 」
「 え、どうして・・・? 」
「 残り湯で、自分の身体も洗います。料理が埃っぽくなってしまうのは私が嫌なので 」


私は見られても構いませんよ、と笑った伯言に、慌てて背を向ける。お言葉に甘えて 卓の食べ物に手を伸ばしていると、背後で水音がした。 う・・・これはこれで、き、緊張するな・・・と思ってのも、束の間。
一口食べれば、どれだけ自分がお腹が空いていたかを思い知らされる。湯に浸り、食べ物を口に することで、張り詰めていた気持ちが緩んできたのがわかった・・・。
次第に箸が止まらなくなり、最後に食べたのは早めの朝食だったことを思い出す。


「 ( ・・・そっか、昼食までには戻ってくるから、と玉葉に告げたんだっけ・・・ ) 」


行水を済ませた伯言が向かいに腰掛け、急に箸の止まった私を見て首を傾げる。


「 どうしました? 」
「 ・・・ううん、ただ・・・今、此処にいるのが何だか不思議に思えてきただけ・・・ 」






今日一日を振り返ると、本当に、随分と色々なことがあったと思う・・・。


振り返ることすら億劫だ。ではそのこと全部ひっくるめて、今此処にいることが『 正しかったのか 』と 問いかけても、今の私には早急すぎて答えが出ない。ただ、自分の素直な想いのままに、私は子龍さまと別れ、伯言の手を取った。わかっているのは、それだけ。その『 事実 』だけだった・・・。






箸を動かし、目の前に摘んだ野菜を突きつけられる。食べろ、という意味だろうか。あ、と口を開けると、 伯言が口の中に入れた。噛んで飲み干したのを見届けて、また箸を突きつけられる。2口目、3口目・・・ と食べ物を入れられるが、その・・・子供みたいで、だんだん恥ずかしくなってきた。


「 は・・・伯言・・・あ、の 」
「 今は黙って食べなさい。食べ終わったら、少し話しましょう。今までのことと、これからのことを 」


・・・これからの、こと・・・。


ようやく伯言が自分の口へと箸を運び出したのを見て、私も自分の箸を動かす。だけど、内心は何を言われるのかと 身構えていた。去ったはずの緊張感が、また私を捕らえようとしている。
大人しく、しばらくの間は無言で食べていたけれど・・・俯いた伯言の肩が、揺れた。


「 ぷ、ははッ!本当にわかりやすい人ですね!大丈夫ですよ、悪い話ではありませんから 」


むしろ私にとっても貴女にとっても、いいこと尽くしだと思います、と胸を張った伯言とは対照的に 怒り心頭の私・・・たらいの残り湯を全部ぶっかけてやりたい気分だったが、それはかろうじて留めておいた。
代わりに伯言の箸が伸びようとしていた包子を横取りすると、あ、それは私の分でしたのに!と 悲しそうな声を上げる。べ、と舌を出すと、その隙に私の皿の肉が無くなっていた。






正しいのか、正しくないのか・・・そんなこと、後でいくらでも考えられる。
今は夢のような、宝石のように輝くこの幸せな時間を、ただ大切にしよう。そう思うことにした。






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