振り下ろした剣先が、空を斬る。
ひゅおっ!と音が鳴り、一拍遅れて汗が床に落ちた。雫が反射する光に、一瞬視界を奪われる。
そこで初めて・・・朝が来ていたことに気づいた。
「 ( いつの、間に ) 」
気がつかないほど夢中になっていた。いや、夢中というより、その・・・。
浮かんできた記憶を掻き消すように、頭を振った。
・・・ふと、嗅ぎ慣れた匂いがして顔を上げた。
道場の隅に置いていた手拭いを掴むと、井戸へと向かう。
着物を脱いで、数回頭から水を被り・・・戻り辛かった自室の襖を開ける。
無意識に息を呑んだ。入るのに勇気が要ったが、入らないわけにもいかない。
思い切って開けると『 昨夜 』と寸分違わぬ様相。
すぐに押し入れから新しい着物を引き出して袖を通し、台所に足を踏み入れた。すると、
「 おはよう、まんばくん 」
いつもと変わらない・・・本当に、何ひとつ変わった様子のない主の声がした。
「 ・・・・・・おはよう 」
「 お味噌汁の味、確認してほしいな。今、小皿にとるね 」
その横顔に微笑みまで浮かべて、は小皿に味噌汁を掬う。
手渡された小皿はほんのり温かい。端に口を付けて吸った。
「 どうかな 」
「 ・・・ああ、美味い 」
「 よかった。それじゃあご飯にしましょう 」
は火を止め、他にも用意していた朝食の品を皿に盛り付けた。
・・・こうしていると、何もかも同じだ。
ぼんやりと見つめている朝の光景は、いつもの朝と何も変わらない。
「 ( やはり『 昨夜 』のことは、夢だったのでは・・・ ) 」
と、思いかけて我に返る。
・・・そんな訳、ない。夢であればと何度願ったが、それでは済まない。
その間にも彼女はてきぱきと動いていて、大広間に膳を運んで食事の支度をする。
用意が済むと、立ち尽くしていた俺に座るよう促して自分も席についた。
「 いただきます 」
小気味良い音を立てて合掌。は味噌汁を一口飲み、あ、美味しいね、と言った。
「 お出汁の煮干し変えたんだけど、これはこれで美味しいね 」
「 ・・・主、 」
「 今日はお天気がいいから、お洗濯もの、よく乾きそうだよね。よかった 」
「 主 」
「 ねえ、まんばくん、食べないの?この漬物、絶品・・・ 」
「 主!! 」
ぴたり。ようやく彼女の箸も口も止まる。
箸を静かに置いて、は沈黙する。先程まで張り付けていた、上辺だけの笑みは消えていた。
物音ひとつ立たぬ大部屋に、鳥のさえずりだけが響く。
・・・しまった。どう切り出そうかと迷っていたが、いざ話そうとなると更に何も浮かばない。
だが、時間が経ってしまってからの方が話しにくいのは確かだ。
「 主、あんた、昨夜・・・ 」
こういうことは、その・・・出来るだけやんわりと伝えてから、真意を引き出したかったのに。
いざ思い切って口から出した言葉は、気遣いの欠片も失っていた、と思う。
・・・・・・昨夜。
彼女が、しばしの間、俺の部屋の前で立ち尽くしていたのは気配で解っていた。
今日の出陣から戻った後の、夕食の時から何だか落ち着かない様子だったが・・・。
「 ( 何か、俺に伝えたいことでもあったのだろうか・・・ ) 」
そう思って、の方から切り出してくれるのを待ったが、何を言うこともなかった。
おやすみ、と自室に戻ったのを見届けた時には、正直拍子抜けしてしまった。
明日には打ち明けてくれるだろうか・・・と思っていたが、まさかこんな夜更けに、とは。
一体何を考えているんだ。溜息を吐きそうになった時、が動いた。
「 ・・・まんばくん、入るね! 」
問答無用で襖を開けるという予想外の行動に、面を食らってしまった。
慌てて、どういうつもりだ!と問おうとして・・・言葉を、失う。
は着物を着ずに、薄い寝間着姿だった。咄嗟に顔を背ける。
蒼褪めたはずなのに、一瞬で焼き付いた肢体が瞼の裏から消えず、頬が熱くなる。
は畳と敷布団の境に素早く正座して、畳に額を擦りつけるほど深く頭を下げた。
「 まんばくん! 」
「 な、な、なっ・・・! 」
「 今日の出陣、お疲れ様でした。えっと、そ、の、誉の・・・・・・褒美、ですっ!! 」
「 ・・・・・・!? 」
・・・今、何と言ったんだ・・・?
最後の最後で、肝心な部分を言い難そうに声を小さくした。
だから微かにしか聞き取れなかったが、まさか。
顔を上げる。すると俺の勢いに怯んだのか、彼女は伏したまま息を呑んで固まった。
その肩が僅かに震えていた。が、ゆるりと上体を起こした彼女の瞳には揺るぎない決意があった。
信じられない、という顔の俺と、追い返されてたまるか、という決死の表情のが見つめ合う。
そして・・・とうとうが腰帯を解こうと手を動かしたことで、俺も我に返る。
「 おい、ちょっと待て!何をしてんだ、あんた!! 」
「 こん、な、貧相な身体じゃ褒美にはならないかもしれないけどっ! 」
「 そういうことじゃないだろ、おい!!! 」
彼女の両手首を掴み、帯を解こうとするのを必死に止める。けれど、彼女も抵抗する。
ええい、埒が明かない!彼女の両手を自分側に引き寄せて、そのまま布団に転がす。
小さな悲鳴が上がったが、無視して彼女の身体ごと布団に縫い付けた。
の腹の上に跨り、手首を締め上げる。苦痛に顔を歪め、ひくっと喉を引き攣らせる。
肩で息をしていたのはお互い様だが、俺の方が先に回復して、威嚇するように睨んだ。
「 いい加減にしろ!!一体・・・これはどういうことだ!? 」
悔しさで、か。月光を宿した彼女の瞳に、みるみるうちに盛り上がる涙。
きらりと輝きを放って零れたそれは、俺の褥を濡らした。そして、
「 ・・・・・・っ、て、せ・・・いの、と・・・は、み、んな、そ・・・っ!! 」
放たれた『 言い訳 』は、俺の頭を真っ白にした。
その隙に彼女は手首を解き、身体を反転させる。
乱れた胸元を押さえて、全速力で部屋を後にする。足音があっという間に遠ざかっていった。
呆然と・・・褥についた涙の跡に触れようとして、自分の指先が震えていることに気づいた。
・・・落ち着け、落ち着け。けれど、の言葉が脳内で反芻する。
『 だって、先輩の刀剣男子は、みんなそうやって誉の褒美を受け取っていたもんっ!! 』
正式な審神者になる前に、既に本丸を構える審神者の元で研修する。
初めて会った日に、そんなことを言っていたな・・・とんだ審神者を手本にしたらしい。
手で口を覆い、肺に溜まった空気を吐き出す。跡が在った場所をなぞる。もう震えていなかった。
追って、彼女の部屋を訪れようとしたが、去りゆく背中を思い出す。
俺は、に・・・何と声をかければいい?どんな言葉で慰めてやればいいんだ?
「 ・・・大丈夫だよ、まんばくん 」
強い口調ではなかったのに、静寂の中で恐ろしく響いた。
はっと顔を上げる俺に、の笑顔が飛び込んでくる。目を擦りそうになった。
・・・まぼろし、だろうか・・・何故、彼女は俺に笑いかけているんだ・・・?
「 昨夜は驚かせてごめんなさい。反省しています 」
大変申し訳ありません、と両手を床について頭を下げた。
昨夜のような勢いに乗って、ではなく静かに、深く深く。さらりと髪が流れて、彼女の顔を隠した。
微動だに出来ずにいると、しばらくの間が空いた後、は静かに頭を上げて、更に軽く一礼。
朝食をかきこむと、御馳走様、と手を合わせて、自分の膳だけ持って大広間を出ていく。
・・・再び、さえずりだけが満ちる。が伏した床をぼんやりと見つめまま、独りごちた。
「 ・・・俺は、主に土下座されたのか・・・ 」
応える者はいない。目の前に佇むの残像が、滲む。
俺と彼女の間に、確実に引かれた『 一線 』を感じて、視界が眩むほどのダメージを受けた。
湯気すら浮かばない冷めた椀の中に映る自分を見るのが怖くて、手を伸ばせなかった。
この旅路は桜色
(03)
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Title:"春告げチーリン"
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