凌統殿の執務室で立ち尽くすこと数刻、脳内は霧で覆われていたのに、気が付くと自室にいた。
「 ( 私は・・・今日一日、何をしていたのでしょう ) 」
状況を整理しようとしても、思い出すのは彼女のことだけ。それもあの瞬間だけ、だ。
凌統殿に担がれ、私の名を紡ぐ・・・いや、紡ごうとして開いた口が力を失う、あの一瞬・・・。
そこで反射的に頭を振った。これ以上、自分の記憶と向き合うことは辛い。
の・・・『 あの 』表情を、明瞭に思い出すのは・・・。
「 ( 衣食住に苦労はさせていませんし、仕事だって楽しんでやっているように見えました。
それに、私ではなく凌統殿を選んだのは彼女自身だというのに・・・何故、あんな顔を・・・ ) 」
自分の何がいけなかったのだろう。何度考えても、答えは出ずにの顔だけが瞼に浮かぶ。
紡ぐべき言葉が音にならない。私に、だけでなく、自分自身にも絶望しているようにも見えた。
大きく開いた瞳に涙の膜が覆うのを眺めているうちに、扉が閉まった。
何か声を、慰めの言葉をかけるべきだと思った。だがあの瞬間・・・私も頭の中が真っ白になっていた。
ぽた、と墨の落ちる気配に我に返る。気が付けば、筆から零れた墨の滴が数滴、竹簡を汚していた。
慌てて布で拭い、もう一度筆を走らせようとしたが・・・くるくると竹簡を巻き出す。
机の脇に積み重なった竹簡の山には目もくれず、そのまま席を立つ。
「 陸遜さま? 」
「 しばらく席を外します。私の承認が必要な竹簡は、机に置いておいてください。後で見ます 」
有無を言わさず執務室の扉を閉めた。机に置いて、と言ったけれど、置ける隙間がない。
仕事をこなす速度も落ちてきたせいもあって、竹簡の山は一向に減らない。
またもや崩壊寸前なのだが・・・今はどうしても仕事が手につかない。
「 ( ・・・私としたことが、何と情けないことでしょう ) 」
大きく溜息を吐く。武将として、呉を預かる軍師として、人の何倍もこなさなければならないというのに。
このままでは他の関係機関にも影響が出てしまう。その前に立ち直らなければ。
・・・原因は解っているのに、どうしても『 一歩 』が踏み出せないのは自分が臆病だからでしょうか。
「 ( ・・・どうして、いるでしょうか・・・ ) 」
ご飯はちゃんと食べていますか?凌統殿の屋敷で困っていることはないでしょうか?
仕事は?頼れる先輩はいますか?そこは・・・私の執務室より、働きやすい場所ですか?
こんなことなら官服なんて着せなければよかった。いや、でもそれでは凌統殿に手を出されてしまう。
( 男の『 彼女 』でさえ気に入られたというのに、女だと知れたら・・・! )
が離れて、一か月も経ってしまった。そろそろ限界だ。
「 ( 意地を張るのに、私自身が疲れました。に逢って、あの時のことを謝らなければ ) 」
・・・許して、もらえるでしょうか。
私の瞼に映り込んだままの曇った表情を、笑顔に変えてくれるでしょうか・・・。
きっと意外にもあっさり『 いいよ! 』と言ってくれるかもしれない。
はあの短絡的なところがかわい・・・って!か、可愛いと、か・・・言いませんよ、私は!
知らぬ間に百面相を繰り返していたのか、すれ違った文官が怪訝そうな顔で振り返る。
ごほ、と咳で誤魔化し、緩んだ口元を引き締め、何気ない風を装ってから廊下を進む。
そういえば呂蒙殿に竹簡を取りに来るよう言われていました。いつもなら遣いを出しますが・・・。
「 ( 今日は私が取りに行きましょう、そして・・・凌統殿の執務室に、彼女を迎えに行きます ) 」
よし、と拳を握って、廊下を歩く速度を速めた。
仕事をこなして、とのわだかまりも清算して・・・そう思い直したら、急に心が軽くなった。
今の私なら何だってできそうな気がする。決意を新たにしたた矢先だった、が。
「 きゃぁぁあああああああああッッ・・・!!!! 」
廊下に木霊する悲鳴。女性のものだ、と瞬時に判断した私は声のした方向へと疾走した。
白昼堂々、悲鳴が上がるなんてことはそうそうない。只事でないことは明らかだった。
石柱の角を曲がり、進路の先の、開いたままの扉の中へと駆け込んだ・・・この、執務室は。
「 呂蒙殿!! 」
開いたままの扉には人だかりができていた。かき分けて執務室に飛び込み、思わず眉を顰める。
執務室の中は酷い参事だった。壁の至るところに何かをぶつけた跡があり、破片が散らばっていた。
陸遜、と顔を上げたのは部屋の主である呂蒙殿。
彼を挟むように佇むのは凌統殿と、遠征から帰ってきたばかりの甘寧殿だ。
3人とも同じように、明らかに戸惑っていた。そんな彼らから移ったように、私も戸惑いの表情を浮かべる。
「 一体、何があったというのですか?この参事は一体・・・ 」
「 り、陸遜、それが俺にもわからんのだ!いや、この参事は凌統のせいだが 」
「 俺だけの責任じゃないですよ!元はと言えばこいつが・・・ 」
「 ああン!?俺のせいだって言いてえのか、凌統 」
「 どう考えたってお前のせいだろ!! 」
「 てめえだ!! 」
「 お前だ!! 」
「 いい加減にしないかっ、二人とも!!! 」
わなわなと震えていた両拳が、凌統殿と甘寧殿の脳天に炸裂する( ・・・親子ですか )
痛ぇえええッ!!と甘寧殿の咆哮が響く。凌統殿は無言で耐えているが、痛みは平等。蹲って震えていた。
・・・いつもの喧嘩の延長線上ですか。なら、問題ありません。
騒ぎを聞きつけた周瑜殿がそのうちやってきて、2人に適切な処分を下してくれるでしょう。
ふう、と一息吐いたところで・・・甘寧殿のものとは違う、肝心の『 悲鳴 』を思い出す。
「 あのっ!悲鳴が、女性の悲鳴が聞こえた気がしたのですが・・・ 」
私の言葉に、3人が顔を見合わせた。
「 の、だな。甘寧と凌統の争いに巻き込まれて縮こまっていたが、ふいに悲鳴を上げたのだ。
・・・だがあいつは女性ではなく、凌統の文官だ。それは解っているのだが・・・はて 」
と、呂蒙殿が呟いて首を傾げた。ぎくりと固まった私など気にせず、呂蒙殿は凌統殿を見た。
その視線に、え、俺!?と凌統殿が声を上げる。
「 女性な訳ないでしょ!あいつは文官だ。なあ、陸遜・・・・・・陸遜? 」
凌統殿の問いかけを背に受けながら、呂蒙殿の執務室を飛び出す。
私が飛び出したのとは反対側の廊下から、案の定、周瑜殿がやってきたようだ。
何をしている!と、凛とした怒号が執務室に響いていた。
これで誰かが追ってくることはない。皆の目は、張本人の彼らに引き付けられただろうから。
次第に集まってきた人混みをくぐり抜けて、私は再度廊下を駆けた。
「 ( 、・・・一体どこに行ったのですか!? ) 」
集まってくる人の波に逆らい、廊下の分岐点で立ち止まっては、悩む。
こんな時にどこへ彼女が逃げ込む可能性があるのか、想像がつかなかった。
まだまだ知らないことがあり過ぎる。そう、私はのことを・・・何も知らない。
がどうして絶望したのか。が再三言っていた『 世界 』とは何のことなのか。
耳を塞いでいただけだ。知らないふり、聞かないふりをして、の声を聞こうとしなかった。
『 常識 』の尺など、十数年しか生きていない私が構築した狭い世界で。
彼女は何度もその扉を叩いて、私に寄り添おうと訴えていてくれたというのに。
自分の器の小ささを痛感しながら、私は走る・・・今度こそ、彼女の手を取るために。
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