「 ふぇっ・・・うう、ひっく、ううっく、ぇ・・・うぇええ、ええん・・・ 」
逃げてきた茂みの深い庭で、小さく小さく丸まって泣いていた。
がっ・・・我慢しなくちゃ。声、上げたら見つかっちゃう。我慢しなくちゃ、我慢・・・我慢だってば。
そう思うのに、一向に嗚咽は止まらなかった。私は服の袖を束にして口元に当てる。
官服からは、凌統さまの執務室で焚かれている香の匂いがした。そう気づいた私は数度と吸い込む。
いつも嗅ぐ匂いに包まれて、混乱した気持ちが収まってくる・・・そう、この涙の原因は『 混乱 』だ。
甘寧さまの腕に捕まれたのが『 胸 』でなければ、きっと悲鳴を上げることはなかった。
「 ( 絶対、わざとじゃないんだし!むしろ危ないから助けようとしてくれたんだし! ) 」
風圧に飛ばされれば、石造りの壁にぶつかって怪我をしてた。
ううん、怪我じゃ済まなかったかも。打ち所が悪ければ本当に死んじゃう。
・・・解ってる、甘寧さまに悪気なんてないんだってこと。
けれど・・・『 びっくり 』した。そして、こんなに大きな声が出たことに私自身、驚いた。
それも女の子みたいな悲鳴、だったし( 一応年齢的にも女の子・・・って問題はそこじゃない! )
「 ( ・・・ばれちゃった、かな・・・ ) 」
全てを知る陸遜がいればフォローしてくれるかもしれないけど、当然不在である。
あの場にいた誰の表情も見ずに飛び出してきたが、今の主である凌統さまをも驚かせたはずだ。
「 ( うう、これは戻り辛いなあ・・・でも、他に行く場所なんてないし・・・ ) 」
元の・・・私の世界であれば、家出して頼れる場所はいくつかあったけれど。
この世界ではまだ『 新参者 』で、私には頼れるどころか、信頼・・・できる人もいなく、って・・・。
一瞬涙がぶわりと浮かんだが、零れるのは何とか堪えることができた。
混乱で流れた涙も落ち着いてきた。嫌悪感で流れたものじゃないから止まるのも早い。
最後の一粒を拭って、深呼吸をひとつ。
心の中でぐるぐる渦巻いた感情をそこに捨てて、情けない気持ちを断ち切るように。
すく、と立って、官服の裾を払う。皺くちゃになった袖を伸ばして、辺りを見渡した。
「 ( ・・・・・・あ、あれ!?え、え、どこ??ここどこ!? ) 」
見たことのない景色に戸惑う。も、もしかして、随分奥まで入り込んじゃった?
この城は本当に広くて、まだまだ立ち入ったことのない場所も多い。
新米文官が入れる場所も限られているし、持ち歩いていた竹簡地図には当然空欄もある。
・・・では、ここは空欄の、新米の私では入れない『 場所 』ということだろうか・・・。
手入れの行き届いた季節の花が咲き誇る、美しい庭園。
こんなに綺麗な色艶は、野の花では見られない。やっぱり特別な場所なのかな。
泣いた後ということもあって、長い息を吐き出すと共に肩の力が抜けた、時。
「 あら、貴方。こんなところで何しているの?? 」
ふいに背後から声がかかり、背筋が伸びた。
こ・・・こういうところで逢うのは、身分の高い人だって決まってるっ!!
『 そういう時は拱手するのが基本ですよ 』という陸遜の声を思い出して、慌てて顔を伏せた。
振り向き様に一瞬見えた2人の人影は、通り過ぎるでもなく、その場から声をかけるでもなく。
拱手した私の傍まで近づいてきたようで、頭上で首を傾げる気配がした。
「 泣いている声が聞こえた気がして室から出てきたのだけど、あれは貴方?? 」
「 え・・・えっと・・・ 」
「 姫様がお伺いしているのですよ?きちんとお答えなさい 」
「 練師、いいのよ。ね、顔を上げて 」
優しい声に、おずおずと顔を上げる・・・が、すぐに息を飲んだ。
至近距離まで迫った彼女の顔。くりっと大きな瞳が驚愕した私の顔を映し出していた。
動きよりワンテンポ遅く、耳飾りがしゃらりと鳴って揺れる。
固まった私をまじまじと品定めするように眺めて、ふーんと彼女は呟く。
「 目が真っ赤。泣いていたのは貴方だったのね。名前は? 」
「 ・・・と、申します 」
「 私は尚香、こっちは練師ね。それにしても、随分可愛らしい顔立ちね。女の子みたい 」
ふふ!と屈託なく笑った尚香さまとは対照的に、冷や汗がどっと出てきた私。
「 ( こ、これは・・・ば・・・万事休す、なんじゃ・・・!! ) 」
男の人の中じゃ平気だったのに、やっぱり同性の方が隠せないの、かしら・・・!?
い、いや、もしかしたらさっきの悲鳴で全部ばれてるのかも!
執務室に帰ったら皆知ってて、陸遜に叱られて、城から追い出されて・・・。
ただでさえ大泣きして揺らいでいた情緒不安定な涙腺は『 混乱 』の次に『 動揺 』で緩む。
みるみるうちに視界を涙で満たした私を見て、尚香さまが焦る。隣の練師さまもぎょっとしていた。
「 や・・・やだ、泣かないでよ!可愛らしい顔って褒めたのよ!ね、ね、そうよね、練師 」
「 え、ええ。そうですよ、殿。殿はどちらの執務室で勤務されている文官ですか? 」
「 ぐす・・・い、今は、凌統さま付きとして働かせてもらっています。その前は陸遜、さま、です 」
「 そう、よかったわ!凌統や陸遜ならこっそり『 借りて 』も平気ね 」
さすがに父様付きとかだったら無理かなと思ったけれど、と呟く声が聞こえ( ・・・父様?? )
顎に手を当てて、考えるような素振りだった尚香さまは、ぽん!と手を打った。
「 決めたわっ!、10日後に私の室を訪ねてらっしゃい 」
ね!と確認するように尚香さまが私に振り向くけれど・・・何故、10日後なんだろう・・・??
戸惑う私は置いてけぼりのまま、彼女は話を進めていく。
「 10日後、執務はいつもより早く終わるでしょうから、仕事が終わったらこの庭で待っててね。
練師を迎えにやるわ。それから当然、このことは他言無用よ。今日、私に逢ったこともね 」
「 ま、待ってください、尚香さま!あの、全く話が見えないんですけど、10日後って・・・ 」
「 貴方に『 こっそり 』手伝ってもらいたいことがあるの。適任者が見つかって私も嬉しいわ! 」
その場で飛び跳ねんばかりの勢いで、はしゃいでいる尚香さま。
回答は確かに頂いたのだけれど、話が全く見えないのは変わらない。
どうしようどうしよう、と慌てる私、だったが。
・・・・・・風が運んできた声に、ふいに顔を上げた。
私より早く尚香さまや練師さまも気づいたみたい。同じ方向を向いて、尚香さまが溜息を吐いた。
「 ・・・思ったより早く邪魔されちゃったわ。じゃあね、。10日後よ!! 」
「 え、しょ、尚香さま・・・!! 」
手を振った尚香さまは、そのまま着物の裾を翻した。練師さまも軽く私に頭を下げて、後を追う。
彼女たちの姿が庭園から消えてしまうと、今度はパタパタと廊下を駆ける音が近づいてくる。
不思議と・・・誰のものかは、予め解っていた気がする。
吹き抜ける風に背中を押されるように、私は足音に向かって花咲く萌黄色の道を迷いなく歩いた。
進むうちに、歩く速さが上がっていく。早足になって、小走りになって、終いには走る。
ようやく逢えると思ったら、彼のこと以外考えられなくなる。
全ての混乱が涙と一緒に流れてしまったかのように、頭の中がとてもクリアになっていた。
あんなにくよくよと悩んでいたのが嘘みたい。残ったのはたったひとつの『 答え 』。
何が解らなくて、どこまでが理解できているのか、と今ならはっきり答えられるだろう。
記憶が曖昧な部分も多い。でも、陸遜には時間をかけて説明しよう。
きっと理解しようと努力してくれる。彼はそういう人だって、私、もう解ってるから。
私のことを理解してほしい、彼の真意も知りたい。きちんと陸遜に正面から向き合いたい。
それは、陸遜が私のことを信じているか信じていないかじゃなくて。
私が陸遜を誰よりも信じているし・・・これからも信じたいって思うから。
だから、今・・・ものすごく、陸遜に逢いたくてたまらない。
最後の茂みを抜けた向こうに、良く知る彼の背中が見えた。
私の足音に気づいた陸遜が、すぐ様振り向いて・・・湛えた微笑みと共に、両手を広げた。
私は躊躇なく飛び込む。
抱きしめられた時に香った彼の匂いに、涙が出そうなほど、心底安堵したのが自分でも解った。
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