湯浴みを済ませてきた陸遜は、部屋着に着替えて部屋へと戻ってきた。
窓辺の椅子に座って、お茶を飲んでいた私は、急須のお茶を用意していたもうひとつの杯に注ぐ。
お待たせしました、と謝る陸遜に、私は首を振る。
「 ううん、私も湯浴みしている間、待っててもらったし・・・何ていうか、待っている間、実感してた 」
一人で笑いだした私に、陸遜は訳が解らないといった表情を浮かべるが、
「 凌統殿のお屋敷では、一人でゆっくり出来るっていう時間がなかったから。
ここで静かに過ごしていると、陸家に戻ってきたんだなって思う。そしてあの夜を思い出すの 」
きっとあの日、堕ちたのが凌統さまのお屋敷だったら全然違った状況なんだろうな。
賑やかで、いつだって華やかな空気でいっぱいのお屋敷だったから。
陸家は静謐な場所。波の立たない水底の中のような静けさに満ちていて、それがとても落ち着く。
そう言うと、彼は苦笑してお茶を啜った。
「 執務室や屋敷には主人の性格が出るといいますから。今度、甘寧殿の元も訪れるといいですよ 」
「 ・・・想像がつくから、やめておく 」
クスクスと肩を揺らしてひとしきり笑って・・・ふっと、陸遜が柔らかい表情を浮かべた。
杯の中身を飲み干し、姿勢を正して私に向かい合った。
「 理解できないことは後でひとつずつ尋ねますから・・・貴女のことを教えてください。
私に気遣う必要はありません。の中にある、の言葉で聞きたいのです 」
「 ・・・うん 」
そうだ・・・私、このために陸家に戻ってきたんだ。陸遜にもう一度向き合いたいから。
自分も服の襟を正して、彼を見つめる。陸遜はただじっと私の言葉を待ってくれていた。
深呼吸をして、既に整理していた事柄をひとつひとつ言葉にしていく。
「 ここが三国時代の中国なら・・・私は1800年後の、未来の日本からやってきたの 」
陸遜は、顔色ひとつ変えなかった。内心はどうか解らないけど・・・後で尋ねるって言っていたっけ。
私は今理解できていること、出来ていないことを仕訳して伝える。
「 三国時代の中国だって気づいたのは、陸遜が『 孔明 』という名前を出したから。
その名前は、書物『 三国志 』の登場人物の一人だっていうことは私の時代でも有名で。
だから、その人が存命しているってことは、ここが過去の中華という国だって思い当たったの 」
「 ・・・確かに、諸葛孔明先生はご存命ですが・・・ 」
「 どうして此処にやってきたのかは、未だに私にも解らない。思い当る理由もないし・・・。
ただ、直前の記憶が酷く曖昧なの。だから鍵はこの『 忘れた記憶 』なんだと思う 」
「 成程 」
「 けれど・・・解らないのは、私は日本という、海を越えた別大陸の人間だよ。
時代だけでなく、日本と中華じゃ言葉も違うはずなのに、読み書きも話すこともできる。
中華は広いのに、何故狙ったかのように陸家で迷子になっていたのかも解らないし・・・ 」
まるで、一番に陸遜に『 出逢う 』よう仕組まれた訳でもあるまいし。
最後の台詞は、特に深く考えていったわけではなかったのだけど、陸遜は顔を上げた。
突然のことにびくっとしたが、何でもありません、と言ったきり・・・考え込んでしまった。
つい黙ってしまった私だが、彼に再び促されて言葉を続ける。
「 私の知っている中華とはどこか違う。だから、もしかしたら繋がっていないのかも、とも思ってる 」
「 繋がっていない、とは? 」
「 ちょっと難しい話になるけれど、パラレル・・・平行世界、っていう言葉があるの 」
昔、オカルト好きの友達が言っていた言葉のひとつ( こんなところで役に立つことになるとは・・・ )
私は残っていたお茶を使って、彼の前に2つの直線を引く仕草をする。
ふむ、と陸遜が覗き込む中、こっちがここ、陸遜の世界、こっちが私のいた世界ね、と説明する。
「 私の世界に『 三国時代 』という歴史があっても、陸遜の世界の『 三国時代 』とは別物。
全然繋がっていない場所だからこそ、繋がらない『 常識 』もあるのかも、って 」
目の前の陸遜が身に着けているものって、古代中国のもの、って感じがしない。
凌統さまや呂蒙さまだってそう。1800年前って、こんなに文化は発展していないと思うもの。
だから・・・これは仮説だけど、本やゲームの中だとしたら?それも私の、現代の産物だとしたら?
古代中国をアレンジしたというなら、説明がつく。
三国志関連の本も読まないし、ゲームもしない私が、ここに飛ばされた理由は不明のままだけど。
ちら、と陸遜を見る。引いた2本線は乾いていたけれど、彼は見つめたまま動かなかった。
「 ・・・陸遜? 」
・・・仮説までは話し過ぎたかな。なんてったって陸遜ってば理屈の通らないこと嫌いだもんね。
ついつい語ってしまったけれど、あくまでも予想だから突っ込まれると答えられるかどうか・・・。
後日にすればよかったと後悔した時、大きな吐息が聞こえた。
徐に急須を取ると、私と自分の杯にお茶を注ぐ。
考えこんだまま、陸遜はそれをゆっくりと飲んで・・・すっと手を伸ばした。
小さな机だったから、彼の手はすぐ私へと触れる。ぽんぽん、と頭を撫でて、優しく微笑んだ。
「 貴女にしては、随分頭を使って考えたようですね。出逢った時とは比べ物にならない回答でした 」
「 ・・・さりげなく貶しているでしょ。相変わらず意地悪だね、陸遜は 」
「 そんなことありません。頑張りましたね、と感心しているんですよ 」
ふふ、と笑って、拗ねた私を宥めると、頬杖をついていた手を取った。
一度静かに閉じて・・・次に私を見つめた陸遜の瞳は、強く柔らかい、意志の光を湛えていた。
「 もう不安にならなくても大丈夫です。これからは、どんなことがあっても私が貴女を護ります 」
・・・どき、と胸が一際強く鼓動を打つ。
陸遜と重ねた手のひらが、じわりと熱を孕んできて、更に焦ってきた。
恥ずかしくて引っ込めたかったけれど、何故か動かすことが、出来なくて・・・。
混乱と驚きと動揺で、眩暈がしそうな私とは正反対に、涼しげな顔のまま陸遜はすんなり手を離す。
私は慌てて胸に両手を抱き込む。手だけじゃなく、ぜ、全身から汗が吹き出しそう・・・。
ほんの短い時間だったはずなのに、これ以上ないほど緊張していたんだ、と改めて思う。
自分がこんなにも揺れていることに狼狽していると、さて、と陸遜が言った。
「 夜も更けました、そろそろ休みましょうか。明日からはまた私の執務室で働いてもらいますよ。
凌統殿の屋敷よりは静かでしょうから、今夜はゆっくり寝て、疲れをとってください 」
「 う、うん!頑張るよ、私!! 」
つい大きな声が出てしまったが、特に気にした様子もない( よよよかった! )
こっそり深呼吸を繰り返すうちに、少しずつ、少しずつ動悸も収まっていくけれど。
胸にあてた手の汗がなかなか引かなくて、こっそり服で拭いてから席を立った。
茶器を乗せた盆は私が下げるから、と言って預かる。扉の前まで行くと陸遜が開けてくれた。
また動悸がしたらどうしよう、と怯えながらも、勇気を出して出入口に立つ彼の正面に立つ。
「 ありがとう。ちゃんと、私の話を聞いてくれて 」
時間がかかったけれど、私も自分の中の情報を整理できた。
そして、こうして2人で話す時間を設けられたことに、とても感謝したい。
いいえ、と呟いた彼は、ふるふると首を振った。
「 私こそすみませんでした。貴女の意見を尊重せずにいたことを、謝らなければなりません 」
「 そんなことないよ!伝えられなかった私も責任が・・・ 」
必死に陸遜の台詞を否定するけれど、だんだん水掛論になってきて・・・どちらともなく笑った。
「 ・・・おやすみ、陸遜 」
「 ええ、おやすみなさい・・・ 」
点々と置いてある灯を頼りに、私は廊下を進んでいく。
時折、立ち止まってこっそり振り向くと、彼はいつまでも見送ってくれていた。
手は振れなかったけれど、曲がる廊下の角で、少しだけ頭を下げると陸遜も返してきた。
姿が見えなくなると、私は一目散に調理場へと向かって歩いていく。
これを置いて、陸遜が言った通り、明日の仕事に向けて早く寝て、英気を養おう。
陸遜のために・・・私を信じてくれた陸遜のために、いっぱいいっぱい働こう。
「 ( 私・・・やっぱり、此処に帰ってきて良かった!! ) 」
今夜は、いい夢が見られそうだ。
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