絶句したまま・・・私を見つめている陸遜を視線に耐えきれなくて、俯く。






 その瞬間に・・・今までとは違う冷たい汗が滝のように吹き出る!
 うわあぁあっ!やばいやばいやばい、絶対陸遜怒ってるーっ!!
 視線すら上げられず、そのまま腕を抜け出そうと彼の身体を押しのけようとしたが、びくとも動かない。
 むしろ身体を支えていた腕が、逃がしませんよ!というようにぎゅっと締まった。
 ひ・・・っ!と息を呑んで蒼褪めた私の耳元で、有無を言わさない声音で陸遜が囁く。




「 いいですか、話を合わせてくださいよ 」




 畏怖に固まった私は頷く間もなかった。
 彼は私を抱き起こすと、大袈裟に、ああっ!!と悲鳴染みた声を上げた。


「 何てことをしてくれたんですかっ!私の大切な服を汚すなんて・・・! 」


 そう言って、自分の胸元を見る。
 そこには染みひとつないんだけど、私の身体の陰に隠れてしまい、周囲からは見えない位置だった。
 合わせて、という彼の台詞を思い出して、私も咄嗟に彼の胸元を見て驚いたように叫ぶ。


「 も・・・申し訳ありませんっ、陸遜・・・さまっ!! 」
「 謝罪ひとつで済むと思っているんですか!?いいから、こちらへ来なさい! 」
「 は、はいっ!! 」


 陸遜はむんずと私の腕を掴むと、その場を足早に去ろうとする。
 足をもつらせながら必死についていく私( も、もうちょっと手加減してくれてもいいのに! )
 急展開についていけず、ぽかんと見守っていた周囲だったが、我に返った呂蒙さまが彼を呼び止めた。


「 り、陸遜、何もそこまで怒らんでも!姫様の連れてこられた方だぞ、無体なことは・・・ 」
「 尚香さまには、私から後でご説明させていただきます。今は、彼女に仕置きをする方が先です 」
「 陸遜! 」
「 行きますよ、愛蘭殿 」


 こんな時まで、呂蒙さまってば優しいっ!( それに比べて仕置きって・・・いや、笑っちゃいけない )
 うるるっと感動に瞳を潤ませた私を見てか、彼の手の力が強くなる。
 必死についていくどころか、最早引き摺られるように宴会場の出口へと向かった。
 呂蒙さまが陸遜を呼ぶ声は続いていたが、酒宴の喧騒に掻き消える。


 引き摺られる間、何度も振り返ってみたが誰かが追いかけてきた気配はない。
 無言のまま、私と陸遜は灯の少ない城の廊下を歩いていた。


 ・・・どこへ向かっているのか解らなかったが、すれ違う人の数が圧倒的に減っていった。
 演技とはいえ、怒った陸遜と、顔を引き攣らせた女官姿の私じゃ目立っていたから内心ほっとする。
 幾つか角を曲がり、見慣れない回廊を進むと、ぽっかりと開けた場所に整備された庭園が広がっていた。


「 ・・・わあっ・・・ 」


 月の真下にあるような、そんな錯覚を覚える。
 庭園の中心には蓮の咲いた池。月光に照らされた波紋ひとつない水面には、夜空の月が映りこんでいた。
 こちらです、と彼に手を引かれる。随分力が抜けていて、握手と同じくらいの握力になっていた。
 だから・・・普通に、手を繋いだ状態で・・・私は彼と池を迂回して進む。
 城の廊下からは月光の照り返しで見えない位置。庭園の奥に、小さな東屋があった。
 畳6畳くらいの面積だけど、光り輝く水面を独り占めできる景色は圧巻だった。


「 ここは普段から人の立ち寄らない東屋ですから。しばらく身を隠すにはいいでしょう 」


 ぱ、と手が離れた。空気の触れる、ふとした冷たさを感じて、残念な気持ちになる( あ、れ・・・? )
 陸遜は後ろを向いたまま東屋の奥へと進むと、不機嫌そうな顔でようやく振り向いてくれた。
 思わずとてて、と気安く近寄る私を見て、陸遜がすうと息を吸い込む。


「 っ、貴女って人はッ!本当に、何て馬鹿な真似をしてくれたんですかっ!!! 」
「 ううっ・・・!ご・・・ごめんなさい・・・ 」


 抵抗も言い訳も出来る訳ない。怒鳴り声の突き抜けた両耳を押えて、私はただひたすら平謝り。
 呆気なく屈した私に、それ以上言う気を無くしたのか・・・彼もその後大きな溜息を吐くだけに止まった。
 陸遜にしては珍しく、どかりと長椅子に乱暴に腰を下ろして身体を休める。
 怒りんぼうの怒髪天を衝いてしまった・・・と怯えていた私を手招きし、じと目のまま自分の隣を指差す。
 ( ・・・と・・・隣に座っていい、ってことかな・・・ )
 おずおずと腰を下ろすと、目を顰めた彼が私をつま先から頭の天辺まで眺めて口を開いた。


「 ・・・それで?この装いは、尚香さまの悪戯ですか?? 」
「 凄い、どうして解ったの!?そ、そうなの。以前お逢いした時に、今日尋ねてくるように言われて 」
「 尚香さまが『 皆をあっと言わせたいの! 』とか言って、貴女を飾り立てたということですね。
  想像がつきます。最終的には、宴の最後に男だとばらして、皆の度胆を抜くつもりだったのでしょう。
  実現されれば、はあの宴会場で身ぐるみ剥がされて、男ではなく女だとばれてしまうところでした 」
「 ええええええっ!? 」
「 『 愛蘭=女性説 』は間違っていないのですけど、それだけで事態は収まらなかったはずです。
  男だと思っていた尚香さまも、只では済まない・・・危ないところでしたね、尚香さまも、貴女も 」


 ・・・そ・・・そんなことになるとは、露知らず・・・!( というか過激なお姫様だな! )


 私は陸遜付きの文官だから、当然彼の立場も悪くなる。
 知らなかったとはいえ、向こう見ずな行動で迷惑かけちゃった。隣に向き直ると、再度頭を下げた。


「 ごめんね、陸遜。でも・・・ありがとう。えっと、その・・・護ってくれて 」
「 ・・・気にする必要はありません。先日、護ると宣言したばかりじゃないですか。
  だから貴女は、黙って私に護られていればいいんですよ 」
「 陸遜・・・ 」


 ぷい、と顔を背けて池へと視線をやる。盛大に拗ねている様子なのに、耳まで赤い。
 もう・・・ほんと素直じゃないんだから。でも、子供みたいでちょっと可愛い( 口に出したら怒られるよね )
 こっそり忍び笑いをして、私も彼の見やる方向へと目を向けた。


 見える景色は幻想的で・・・映画を観ているみたいだった。
 こちら側は暗いのに、目の前に広がる景観は月の光に照らされて、水面に浮かぶ蓮花の縁が淡く光っていた。
 池は、こうして見ると思いの外広大で、あの騒がしい宴会場と同じ城の中だとは思えない程静謐な空間。
 見ているだけで時間を忘れてしまいそう。私たち2人、どちらも黙ったまま景観に魅入っていた。




 ・・・・・・と、思いがけない衣擦れが眼下から聞こえてきた。




「 ・・・陸遜・・・? 」


 ず、ずず、と音がしたかと思うと、膝に重みが増す。ぶすっとしたまま、陸遜は私の膝を枕に寝転んだ。
 いつも斜め上に見ていた濃茶色の髪が、紅い着物の上に広がる。
 ・・・具合でも悪いのかな?私が行った時には既に顔が赤かったし、結構呑んでいるのかも。
 そうだ、誰か呼んでこよう。腰を浮かしかけた私の手を、横になったまま陸遜が掴んだ。


「 少し酔っただけです・・・このまま、しばらく休ませてもらいますよ・・・ 」
「 わ、私は構わないけれど、本当に大丈夫??お水でも貰ってこようか 」
「 いえ、此処にいて下さい。、頼みます、お願いですから・・・ 」


 ・・・こんな風に懇願してくるなんて、珍しい。
 心配だったけれど、弱った陸遜を無碍にもできなくて、動かずに大人しく座っていることにした。
 ついでに、と、陸遜の頭を一度胸に抱えて、寝やすそうな位置に持っていく。
 ちょ、っ・・・っ!?と慌てたような声がしたので、ちゃんと膝枕するから、と言うと大人しくなった。


「 陸遜ってさ、完璧に見えるのにお酒には弱かったりする? 」
「 ・・・私は完璧なんかじゃありませんよ。第一、そんな人間、この世にいないでしょう?
  そこまで弱くないのですが、今夜は思いがけない美姫のせいで呑む量を計り間違えました 」
「 えっ、美姫?それって私のことだよね!?陸遜、見惚れちゃった?見惚れちゃったの?? 」
「 ・・・確実に、呑んだ状態で全力疾走したせいだと思いますが・・・ 」


 回答を無視して、ねえねえねえ!と興奮して膝を揺すったせいか、しつこく回答を求めたせいか。
 前髪に覆われていたはずの瞳がちらりと覗いて私を一瞥し、見惚れてません、と素っ気なく言った。
 口を尖らせた私にはもう目もくれず、怠そうに身体を横たわらせたまま・・・陸遜は動かなくなった。
 ( さっきからぶっきらぼうだったり、いつもより身体が重そうなのはお酒のせいだったか・・・ )


 ・・・これ以上邪魔するのは可哀想だと思い、私も静かにしていたのに。
 しばらくすると、眠っていたと思った陸遜が、、と私の名を呼んだ。
 なあに?と答えると、随分と間を空けて・・・顔を背けたまま、小さな声で彼が尋ねた。






「 貴女は・・・いずれ、元の世界に戻りたいですか? 」






 元の世界。


 その単語を聞いた時、瞬間、頭の中でたくさんの面影が弾け飛んだ。
 家族、友人、過ごしてきた場所の風景・・・止まってた『 時間 』の針が、かちりと動いた気がした。


 ・・・だから。






「 そ、だね・・・・・・帰りたいかな・・・・・・ 」






 目の前に広がる世界は、夢まぼろし。だから尚更・・・そう、思ってしまったのかもしれない。


 今まで郷愁に駆られたことなんてなかったのに。零れた涙が、どれほどの思いの丈かを物語っていた。
 彼は膝の上で蹲ったまま何も言わなかった。今度こそ・・・眠っちゃったかな。
 ・・・でもそれでいい、それでよかった。こんな姿、彼には見られたくないって本心からそう思っていたから。






 遥かなる月を仰ぐ。感傷に浸る私を、柔らかい光が癒してくれている気がした。






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