『 そ、だね・・・・・・帰りたいな・・・・・・ 』






 そう呟いたには見えない角度で。盗み見るように、視線だけ持ち上げた。


 曇りない眼差しで月を見ている彼女の頬を、淡く発光した雫が伝う。
 蓮の花弁に残る露を思わせる涙は、後から後から零れ、拭う袖を濡らした。


 ・・・胸を締め付ける痛みは気のせいなんかじゃ、ない。喉が詰まり、自分の目頭も熱くなる。


 彼女の涙を拭ってあげたい、と思った。
 同時に・・・拭ったところで、何の意味があるのでしょう、とも思った。
 中途半端な優しさは、彼女の足枷になるだけ。
 帰りたいと願うを帰してやることこそ最大級の優しさであり、彼女を拾った私の務め。
 だけど今・・・その手を離すのを、躊躇っている自分がいる。
 涙を拭えば、惜しいと思う私の気持ちが露見してしまうような気がした。ならば、このままでいい。






 このまま目を閉じて、気づかないふりをする。
 それが一番お互いを傷つけない。悔いを残さずに・・・別れられる、はずだから・・・。






「 ・・・・・・・・・ 」


 むくり、と身体を起こす。半開きの瞼を擦り、御簾の隙間から差し込む光を眺めた。
 ・・・随分と深く眠っていたようだ。いつも起きる時間より陽射しが強い。太陽が高い証拠だった。
 堪え切れず欠伸を漏らして、肌蹴た夜着を軽く直す。牀榻から立ち上がると、誰か、と声をかけた。
 しばらくすると、しずしずと侍女が現れる。
 拱手した彼女が、机の端に何かを置いて、すぐにお茶を淹れてくれた。
 乾いた喉を潤して、ようやく心身共に落ち着くと、のことを尋ねる。


「 はもう起きているのですか?私がこれだけ眠っていたのですから、彼女もまだ床でしょうか 」


 酒宴から一夜明けた今日は、どの執務室でも休日に設定されていた。
 火急の用事がない限り休むようにと言いつかっている。城主である孫堅さまの計らいだ。
 ( その分、酒を飲まされる量も半端ではないのが、孫家流というか・・・ )
 出仕だと思っていたにも、帰り道にその話をしたので、今日はよく眠っているでしょうか。
 と、思ったのに、侍女はあっさりと首を振った。


「 さまは屋敷にはいらっしゃいません。甘将軍の遣いがいらして、ご一緒にお出かけになられました 」
「 ・・・甘寧殿の、遣い? 」


 予想外の答えに、眠気も一瞬で吹き飛ぶ。目を見開いた私に頷くと、彼女は茶器の置かれた机へ向かう。
 そして、入ってきた時に持ってきた竹簡を私へと差し出し、さまからです、と言った。


「 から、ですか? 」
「 左様でございます。陸遜さまがお目覚めになりましたらお渡しするように、と申し付かりました 」


 言葉と文字の類は苦労しない、という話だったし、文官として働くのにも慣れてきた頃だ。
 竹簡には言伝が記してあるのだろうけれど、それ以前に、こうして彼女から何かを貰うのは初めてだった。


「 ( 何が書いてあるのでしょう・・・ ) 」


 日頃の感謝の気持ち、とか?いやそんな殊勝な真似はしないでしょうね、ええ解ってます解ってますとも。
 でも・・・悪い気はしませんね。こういうことも、それなりに、楽しいかもしれません。


 思いがけない贈り物に、私はわくわくしながら・・・という姿を見せないように、くるりと反転する。
 さも光源を求める様子で窓際まで歩き、軽く咳ばらいをして冷静を装ってから竹簡を開く。
 そこにあったのは、意外にも丁寧な文字の羅列。けれど読み進めるうちに・・・眉間深く皺が寄った。


「 ・・・陸遜さま・・・? 」


 竹簡を持つ手が強く強張る。一瞬息が止まって、大きく深い溜息を吐いて・・・がくりと俯いた。
 急に不機嫌になって沈黙し続ける私の背を、侍女恐る恐る見つめているのが解った。


「 ・・・・・・・・・馬を 」
「 えっ? 」
「 すぐに馬を用意してください。甘寧殿の屋敷へ向かいます! 」


 かしこまりました、と慌てたように彼女が拱手し、背を向けた私の室から走り去る。
 私は手早く竹簡を巻いて、侍女が完全に遠ざかったのを確認してから・・・両手で顔を覆う。
 真っ赤になっているであろう頬に触れると、案の定、熱い。
 手だけじゃなく、吐き出した吐息も震えていた。鼓動も早い。気を抜くと倒れてしまいそうだった。
 だが、今はそんな場合ではない。糸が切れるのは、彼女に真相を確かめてからだ。
 おっちょこちょいの彼女のことだ。きっと・・・その『 意味 』も知らないはず。
 すうと息を吸って呼吸を整え、天井を仰ぐ。侍女が用意してくれていた私服に袖を通し、帯を締めた。


 馬が用意されたと報告を受けたのは、ちょうど支度が整った頃だった。












「 これは陸将軍!畜生、思ったより早え・・・じゃねえ、ようこそいらっしゃいましたぁ! 」
「 ・・・・・・・・・ 」


 教育不足が否めないところにも、いつの間にか慣れてしまいました。
 何度も訪れたことのある私の顔を知ってか、甘寧殿の屋敷の家人が頭を下げる。
 私はすぐに馬から降りて、その家人に詰め寄った。


「 こちらに私の部下がお邪魔しているようですね。という文官なのですが 」
「 はあ。確かに来ましたけど、今はいねえっすよ 」
「 どういうことです?私は、が甘寧殿に呼び出されたと聞いたのですが 」
「 まあ、そうなんですがねえ・・・? 」


 言葉遣いや態度云々よりも、歯切れの悪い返事に苛立ちを覚える。
 怒鳴りつけてさっさと答えを得ようとしたが・・・それよりも優先すべきことが出来てしまった。
 家人と話す自分を取り巻く他者の気配。口を閉じて、土を踏む複数の足音に神経を集中させる。
 一人や二人ではない。騒ぎを聞きつけて、自然と集まる人数ではなかった。
 あっという間に囲まれ、私は溜息交じりにそこに集まった男たちを見渡した。
 彼らの手には昆や鍬といった鈍器。腕っぷしに自信がある者は、両拳を合わせて当たりを確かめていた。
 ( そういえば、甘寧殿の家人たちは、主がそうであるように、ほぼ水族上がりだと聞いたことがあります )


 「 ・・・何の真似です?これが甘家の歓迎、とでも? 」


 異様な雰囲気を察してか、放していた馬が輪の外でぶるると唇を震わせていた。
 その嘶きにかき消されない声量で目の前の家人を睨みつけると、下卑た笑みを浮かべた。


「 頭から言われてるんでさぁ。陸将軍が来たら、何が何でも足止めしておけってな 」
「 足止めされる理由が見つからないのですが。私は、連れを取り戻しに来ただけです 」



 当然、正当な主張をしても、既に聞き入れてもらえる様子ではなかった。
 苛立っている上に隠そうともしない野蛮な殺気に触れて、自分にもぴりっとした緊迫した気が走った。
 ・・・その迸りに反応したのか。
 一人の男が跳びかかってきたのを皮切りに、わっと歓声にも似た声が上がった。
 中心にいた私を目掛けて振り下ろされる棍棒。左の籠手で受け止めて、払うように地面に流す。
 均衡を崩して前のめりになった男の背に肘を打ち落とすと、男は醜い悲鳴と共に地べたへと転げた。
 すると今度は、視界の端に棍棒が映った。
 横からきた追撃は上体を反らしてひらりと交わし、代わりに上がった右踵で男の横っ面を叩く。
 叩いた男は、今まさに襲ってこようとしていた輩を複数人巻き込んで、どっと倒れた。


「 つ、捕まえろ!武人とはいえ、相手は一人だ!! 」


 足元を覆う乾いた土埃の向こうで、最初に応対した家人が叫ぶ( 成程、彼が先導しているのですね )
 を迎えに行くだけだから、と双剣は屋敷に置いてきてしまったが、これで何とか凌いでみせましょう。
 懐から取り出した小剣を抜くと、周囲がざわめく。
 さざ波のように戦慄が伝染している隙に、私は軽く助走をつけて跳躍する。
 私の影を追おうとしたが太陽と重なったのか。眩しそうに顔を顰めた男の頭を踏み台にして、もう一度跳ぶ。
 狙いは唯一人。最後列にいた自分との距離が縮まるのを悟ってか、家人は蒼白な顔で踵を返した。


「 逃がしませんよ! 」


 皆、呆気に取られているのか。着地し、家人に向かって一直線に駆ける私を、誰も阻もうとしなかった。
 家人に追いつくと、逃げる彼の首根を掴んで力任せに引き寄せる。
 げえ!と蛙のような声が上がったが、問答無用で地面に押さえ込む。どしん、と足元が揺れた。


「 それで?はどこにいるのですか!? 」


 小剣を喉元につきつける。家人は身体を縮めたまま強張らせた。


「 さあ、白状しなさい!これ以上大事にすると、甘将軍の責任問題にも発展しますよ。
  貴方は主である甘寧殿にまで、迷惑をかけるつもりですか!? 」


 脅しではない、と刃を握る手に力を籠める。柄に巻かれた皮がぎり、と締まる音がした。
 ・・・だからこそ、真実味があったのか。
 状況を見守っていた周囲の男たちも顔を見合わせ始め、怯えきった家人がとうとう、河だ、と呟いた。


「 船に乗せてやると言っていた。南に向かったから、きっと・・・ 」
「 確か甘寧殿の私船は、南西にある河岸に停泊していましたね 」


 私は警戒を緩めて、こくこくと頷いた家人の背中を押して開放する。
 ・・・頭の中に地図を思い浮かべる。甘寧殿は、私がを探しにくることを予想していた。
 追っ手を振り切るのなら、一番近い停泊所からさっさと出航したいと思うはず。
 軍の船ではなく彼の私船であれば、停泊している場所も水路も限られるので追い易い。
 鞘に小剣を収め、放していた馬に駆け寄るとそのまま飛び乗って、腹を強く蹴った。
 騒ぎを聞きつけて、門の外には人だかりができていた。この分だと憲兵も来るかもしれない。
 早めに退散するに越したことはない。未だ収集のつかない甘寧殿の屋敷を、疾風の如く後にした。


「 ( まったく!私に手をかけさせることにおいて、彼女は天才ですね ) 」


 ・・・ついこの間も、こうして彼女の後を追った。放っておけない。見過ごすことなんてできない。
 あの夜、が他の屋敷・・・例えば凌統殿や甘寧殿の屋敷に降り立ったとしても。
 長い糸がいつかどこかで絡まるように、彼女と自分はきっと出逢えていたような予感がするのです。


 そう思えるくらい・・・いつのまにか、彼女の一挙一動から目が離せなくなっている。






「 ( 自分でも、本当はわかっているんです。でもそれを認めるには、まだ、早い・・・ ) 」


 の顔を見て、判断するとしましょう。未だ引き返せるのか、それとも・・・・・・。






 馬は街を抜け、荒野を走り抜け、一途一途に彼女の元へと向かう。ちょうど今の、逸る私の心のように。






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