人ひとり分の体積など、脇を走る船に比べたら小さいもの。




 ぱしゃん、と縦に細く上がった水しぶきに、全神経が凍りつく。
 反射的に手綱を引いてしまったものだから、馬は嘶き、均衡を崩して横転した。
 当然、馬上から放り出された訳だが、それどころではなかった。
 受け身を取って道を転げ、すぐさま体勢を整えると、埃まみれのまま水に飛び込む。
 街道と交わる岸辺が近かったおかげで、崖から飛び込んだといっても大した高低差はない。


「 陸遜ッ!! 」


 それでも、危険なことに変わりはないと知っているから。
 落ちた場所に向かって泳ぐ私に向かって、甘寧殿の怒号にも似た声が飛んだ。


「 お前は岸に戻れ!!は俺らが助けるから・・・ 」
「 戻りません!! 」


 甘寧殿が心配してくれているのは解るが、素直に聞いて引き返すだけの心の余裕がなかった。


「 ( 水族である甘寧殿たちの方が、効率的に彼女を助けられる。それくらい解っています! ) 」


 でも、でも・・・頭で理解していても、心が追いつかない!
 彼女の小さな身体が船底に沈んでしまったら?息ができなくて苦しんでいたら?
 もしも・・・手遅れにでもなったら、私は自分の行動力の無さを一生後悔するでしょう。
 服を着たまま入水したこともあって、正気を失った泳ぎでは余計に体力を消費していた。
 あっという間に息が上がっていく。下唇を滑った水を誤って飲んでしまい、軽く咽た。


「 ( 苦しい・・・でも、確か、この辺だったはず ) 」


 目印にしていた位置まで来ると、一度深呼吸。
 ・・・それ以上の休息はとれない。目を見開くと同時に、肺いっぱいに空気を溜める。
 疲れて伸びきった身体をぎゅうううっと縮ませた後、上下反転させると水面を蹴った。


「 陸遜ッ、ま・・・ 」


 制止の声を振り払い、私は潜る。真下へ、真下へ。
 透明度の高い川とはいえない。それでも目を凝らしながら、一心不乱に水底へと進んでいく。


 「 ( !どこですか、!! ) 」


 時々、真下以外の、周囲へと目を向けても、水の中で何かが動いている気配はなかった。
 が落ちたのは船縁のすぐ脇。船体に当たって気を失ってしまった可能性も有り得る。
 だとしたら、身体は落下するだけだ。
 ・・・どこまで落ちてしまったのだろう。まさか、光の届かない深度まで落ちてしまったのでは・・・。


「 ( それよりも、打ち所が悪ければ・・・は・・・ ) 」


 最悪の展開が脳裏をよぎって、不安が心臓を鷲掴みにする。このままでは潰れてしまいそう。
 速度を上げる。どこか、どこかに僅かな手がかりでもあれば・・・!
 目の前のことに集中することで、身体を巡る狂気を必死に抑えていた、その時。


「 ( あれは! ) 」


 周囲の藻とは違う色の揺らぎを視界の端に捉える。
 水を大きくかき分けて泳ぎ寄り、それを掴む。帯だった。
 確かな重さを感じて引くと、たゆたう布間に・・・彼女を見つけた。
 やはり意識がないのか、は目を閉じたまま動かない。
 辛うじて届く太陽の淡い光に照らされた彼女の顔は、いつもより白かった。
 水の中だから、という訳ではない。正直、生きているのか・・・死んでいるのかもわからなかった。


「 ( 私が来たからには大丈夫です!しっかりしなさい!! ) 」


 そのまま帯を手繰り寄せ、頬を叩いたつもりだったが、水の抵抗力に遮られて全く効いていない。
 薄ら眉根を寄せたまま、意識のない彼女は、ひと呼吸遅れてことん、と私の手に頬を乗せる。
 その顔を再度叩く・・・のではなく。ひと撫ですると、私は自分の肩に彼女の腕を回した。
 しっかり身体を抱えこんだことを確認して、今度は上へ上へと泳いでいく。
 水の中では身体が軽いとはいえ、意識のない人間を連れて泳ぐのは存外辛かった。


「 ( 探している間は夢中で気づきませんでしたが、かなり深く潜っていたようですね ) 」


 復路を計算に入れるのを忘れた上に、肺いっぱいの空気もいつの間にか失せていた。
 食いしばった口の端から空気が漏れる。勿体ない、でもどうすることも出来ない。
 精神的にも肉体的にも限界だった。けれど、を救うまでは。彼女の無事を確認するまでは!


「 ( 絶対に諦めない!お願いです、死なないで、死なないでください! ) 」


 息苦しさに耐え切れず、がぼ、と最後の気泡が漏れた。苦痛が全身に広がり、痺れて、動きが鈍る。
 恨めしくその泡を目で追っていると、視界がふいに陰った。
 魚のようにゆらゆらと泳ぐ影。甘寧殿の船に乗っていた水夫たちだった。
 屈強な体つきだが水の抵抗などものともせず、噴いた気泡を頼りに私とを見つけたようだ。
 こちらへと一目散に泳いでくる姿に、少しだけ肩の力が抜ける。
 彼らは、私の負担を減らそうと思ってか、彼女を渡すように手を差し伸べられたが首を振って断った。
 苦笑されたのは恥ずかしいが・・・これだけは譲れない。
 すると私の腕に手をかけて、私ごとを引き上げた。
 何倍もの速さで光溢れる水面へと向かう。その光が弾ける瞬間、酸素を求めて大きく口を開けた。


「 ・・・ッは!! 」


 すうと喉を通って入ってくる空気に、溜まらず咳込んだ。
 潰れてしまうかと思った肺も、数回の呼吸で、何とか平静を取り戻す。


「 陸遜、、大丈夫かーっ!?」


 水面へと姿を現せた私に、甘寧殿が叫んでいる。
 が、またもやそれには応えずに、私は腕の中でぐったりとしているを見下ろした。


「 、しっかりしてください、ッ!!」
「 だいぶ水を飲んでるな。船に上げるより、岸に運んでしまおう 」


 年嵩の水夫がそう言って、隣にいた若い水夫に合図する。
 2人は私の両腕を掴んで、馬で着岸する予定だった岸辺へと泳いでいく。
 浅瀬まで来ると、水を吸った服の重さに足の動きが鈍くなり、更に疲れが重なって膝が落ちた。
 愕然とする私をよそに、水夫たちは腕の中からを奪うと、水のかからない場所へ駆け足で運んだ。


「 っ、!お願いです、目を開けてください!」


 唇の色は既になく、顔も青白く変化していた。
 生気の抜けた彼女を見ているだけで・・・胸が苦しく、熱いものがこみ上げてきた。
 一刻を争う事態。自分は何もできないのに、今、是が非でもの傍に寄り添いたかった。
 よろよろと重い足取りで近づくが、若い水夫に、処置を施すからと止められる。


「 !離してくださいッ・・・っ!! 」
「 陸遜さま、落ち着いてください! 」
「 ッ!! 」


 格好悪い、などと微塵も思わなかった。
 人目も憚らず、半狂乱になっての名を呼ぶ。髪を伝った滴が激しく舞って、土に染みた。
 年嵩の水夫は彼女の脈と呼吸を確認し、胸元のすぐ下に両手を当てて強く押した。
 2度、3度と押すうちに、の身体がふるるっと震え、口元から水を噴き零す。


「 ううッ!ぐ、げほ・・・ごほっ、ン、ごほッッ!! 」
「 ッ!っ・・・あ・・・ああ、 」


 ・・・よかった・・・。


 そう呟いたはずの言葉は、歓喜のあまり声にならなかった。
 が蘇生したのを見て、もう心配ないのか、若い水夫が身体から手を離す。
 私は一歩、二歩、と地を踏みしめ、ようやくの傍らへと腰を落とす。
 身体を折って、苦しそうに咽る彼女の背中を、そっと・・・そっとそっと何度も擦ってやる。
 背中のてのひらに気づいてか、腫らした瞼がゆっくりと持ち上がる。
 数度、瞬きを繰り返していたが、最後に驚いたように見開いて、陸遜、と私を呼んだ。


「 ・・・りく、そ・・・泣いて、るの・・・? 」


 身体を横たわらせたまま、彼女は震える手を伸ばして、労わるように私の頬に触れた。
 ・・・冷たい指先。先程まで死にそうだったのは貴女の方なのに。
 こんな時に、他人の心配なんかしなくていいんです。私のことより自分のことを考えてください。
 私が・・・私がどれだけ、貴女の無事を祈ったことか。泣きたくなるほど安堵したことか。
 いつも飄々としているくせに、そんなに気を遣われては、怒る気も失せるじゃないですか・・・。


 唇が震える。浴びせたい怒号や皮肉はたくさんあったのに、どれも言葉にならなかった。
 代わりに、彼女の手をとって、温めるように両手で包み込む。


「 ・・・私なら大丈夫です。、貴女さえ無事であれば、それで良いのです 」


 貴女を失うことに比べたら、このくらい何ともありません。どれも・・・些細なことです。
 柔らかく微笑めば、それだけで安心したのか、ぐったりしていた彼女もにへらと弱々しく笑った。


「 ( これを機に、はっきり気づいてしまいました・・・ ) 」






 私は・・・心穏やかに、貴女を元の世界に還してやることなどできないのだと。






 心は晴れていた。覆っていた霞は霧散し、背けていた気持ちに真正面から向かい合えたから。
 あとは私自身の問題。でも今は・・・彼女が生きて傍に居てくれる幸せに浸るとしましょう。




 水夫たちがいるのも忘れて、と私はしばらくの間、見つめ合っていた。






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