師の一言に、一同は固まった。
月英は箸を落とし、姜維は飲んでいた酒を吹き出し、は皿をひっくり返して床に料理を零した。
そんな中、諸葛亮だけが平然と杯を傾ける。
山賊討伐からの無事の帰還を祝い、今夜だけはゆっくりして家族の絆を深めよう。
そう言った諸葛亮自身が・・・・・・今、何と言った?
「 ・・・あ・・・あの、じょ、丞相・・・ 」
「 おや、そこまで驚くことですか?いつかはこうなると、私は思っていたのですが 」
姜維に微笑んだ諸葛亮は、、酒を注いで下さい、と杯を彼女に向ける。
呆然としていた彼女が慌てて我に返ると、傍にあった銚子を持って立ち上がった。
彼の傍に膝をついて銚子を傾けるが、手が震えているのか、かたかたと器同士の当たる音がした。
くすり、と笑う気配がして、長い指がの顎を撫でた。
「 は嫌ですか?私の・・・妻の『 一人 』になるのは 」
注いでいた手が、止まる。そして、再び震えだしたと思えば・・・諸葛亮の杯の中に落ちた、雫。
「 ッ!! 」
銚子を放って広間を飛び出すを、姜維が後を追う。
退室の礼もせずに辞するなんて初めてかもしれない、とどこか冷静な自分がいた。
・・・というよりも、最早考えることさえ、自分は『 拒否 』している。
が・・・丞相の、側女になることなど!
恐らく自室に向かっているであろうの手を、寸でのところで捕まえ損ねる。
勢いよく閉めた扉を、姜維は力任せにドン!と叩いた。
「 、ッ!私だ、開けてください!! 」
「 嫌っ!姜維でも、嫌。お願い・・・放って、おいて・・・ 」
か細い声に、すすり泣きが混じる。
叩くのを止めると、がずるずると床に座り込む音がした。
姜維はしばらく考えてから・・・扉の向こう側にいる彼女に、優しく語りかける。
「 、頼むから扉を開けて。でないと、私は貴女を慰められないだろう? 」
「 ・・・姜維、私のことは放っておい・・・ 」
「 放っておけない。放って・・・おけるわけ、ないじゃないか 」
君という、愛しい存在を。
扉の向こうで動く気配。落ち着いたのを見計らって、姜維は扉に手をかける。
ぎ・・・と小さな音を立てて、それは呆気なく開いた。
装飾品は彼女自身があまり好まないため、女性の部屋にしてはとても質素だ。
机には、姜維の自室に咲いていた花と同じ花が挿してある。
花へと送った視線を、そのまま部屋の奥にある牀榻へと移動させる。
後ろ手で扉を閉め、姜維は寝具の中で震えるを・・・そっと背中から抱き締めた。
「 ・・・ 」
抱き締めた姜維の手に、はらはらと零れ落ちる涙。
・・・本当は、自分だって驚いた。
月英も、予め相談を受けているわけではない様子だった。珍しく動揺していたのが見て取れた。
けれど・・・彼女以上に衝撃を受けたものはいないだろう。
「 孔明さまが、嫌いなんじゃない 」
嗚咽の合間に、が訴える。
「 だけど・・・私は、ずっと二人の『 娘 』だと思ってきた。違う?姜維 」
「 違わないよ。私だって、今までそう思ってきた 」
「 いつかは誰かの元に嫁がされることくらい、此処で暮らしているうちに理解できたわ。
今の私がその適齢期であることも・・・でも、まさかその相手が・・・ 」
諸葛亮への敬愛こそあれど、それは恋愛感情ではない。
普通は相手の年齢も顔も知らないまま、親の決めた相手に嫁ぐことが多い。
は、世間からも『 諸葛亮孔明の娘 』という目で見られてきた。
本人も、家柄を強めるための『 道具 』となることは覚悟していたのかもしれない。
「 ( 私に・・・力が、あれば・・・! ) 」
『 諸葛亮孔明の娘 』である、を娶るにふさわしい地位と身分があれば。
自分がもっと早く、諸葛亮に請うことができたらなら・・・『 今 』の悲しみはなかったはずだ。
婿として認められなくても、少なくともこんな事態になるまでの時間稼ぎにはなっただろう。
「 姜維 」
涙に濡れた彼女が、振り向く。
兎のように真っ赤に腫れさせた瞳が、とても痛々しかった。
「 お願いが、あるの 」
「 何だい、・・・言ってごらん 」
「 姜維だけは、味方でいて。これから・・・月英さまにどんな顔したらいいのか、わからない。
せめて姜維だけは、傍にいて・・・私を、嫌いにならないで 」
「 ・・・嫌いになんか、なるもんか。今までだって、これからだってずっと。
それがの願いだというなら、私はいつでも傍に居るよ・・・約束する 」
「 うん・・・約束、ね。ありがとう、姜維・・・ありがとう・・・ 」
ようやく、彼女が少しだけ笑うように瞳を細めたのを見て、姜維もほっとする。
頬の涙筋を親指の腹で拭い、そっと抱き締めてやると、は大人しく姜維の胸に顔を埋めた。
まだ時々引き攣るように震えていた身体を、時折宥めるように撫でて。
「 ・・・? 」
動かなくなった、と気づいた時には、既に寝息を立てていた。
精神的疲労が、一気に放出されたのだろう。
ぐったりともたれかかったの意識は、その身体にひと欠片も残っていなかった。
姜維は、その身体をそっと牀榻に横たわらせる。
「 ・・・ん、・・・ 」
むにゃ、と口元を緩ませたの髪を撫でた。
「 約束、するよ 」
私を傍に、と臨んでくれるのならば『 約束 』なんかで縛らなくても・・・傍に、いるよ。
どんな時でも味方になってあげたいという思いは、私も同じなのだから。
姜維は静かに身体を折って、寄せた眉根にそっと口付ける。
窓から差し込むあの月の光のように、私は優しく彼女を見守っていこう。
そして、せめて今宵の夢だけは、を苦しませることがないようにと・・・心から、祈ろう。
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Material:"青柘榴"
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