目を閉じると、ぼんやりと見える風景。それは、私が前にいた『 世界 』だ・・・。
たくさんのビル。コンクリート造りの学校。通学路だった横断歩道。
近所の犬に手を振って、ただいま、と玄関をくぐると笑顔で迎えてくれたお母さん。
黙っていることが多かったけど、お酒に酔っ払うと陽気になるお父さん。
学校に行けばいつでも逢えると思っていた友達。怒ってばかりの先生。
それが幼かったの『 全て 』で、毎日繰り返されると思ってた日々。
当たり前だと思っていた『 世界 』から・・・彼女は『 堕ちた 』のだ・・・。
いつものように目を覚ますと、そこはもうの知っている場所ではなかった。
最初はわからなかった。異変に気づくまでには時間が要って、小さなは周囲を見渡した。
買ってもらった自分の机も、ランドセルも、明日学校に着て行こうと用意していた服も無い。
ちゃんと着て寝たのに、パジャマも着ていなかった。肌で何かを感じて、火がついたように泣き叫ぶ。
「 おかあさん・・・おかあぁさぁあん・・・!! 」
泣きじゃくったを、驚いた眼差しで見つめる見知らぬ面々。
・・・それもそのはず。今だからわかるけれども、話す『 言葉 』がまず違ったのだから。
次々と集まる見知らぬ顔に泣き、あやそうとしてくれた手も拒んで。
枯れ果てることを知らない涙で頬を濡らして、その日は牀榻の上で泣き疲れて寝てしまった。
もう一度寝て起きれば、帰れると信じていたのに・・・現実は、残酷だった。
再び泣き出した彼女に、一人の男の人が微笑んで、自分のことを指差してこう言った。
「 孔明 」
そして、を指で示す。
最初は何のことか解らず泣き続けたが、やがて、それが名前であることに気づいた。
「 ・・・・・・ 」
初めて意思疎通できた、瞬間だった。
小学生だったは、それから必死にこの国の『 言葉 』を覚えた。
子供だったからこそ、逆に良かったのかもしれない。学んだことはあっという間に身についた。
今もわからないことは多くて、月英さまに叱られることもあるけれど・・・とは苦笑する。
どうして、この『 世界 』にやってきたのかは・・・本人でさえわからない。
幼かったからか記憶はあやふやで、前の世界の知識ももうあまり覚えていない。
それだけ此処に順応した証拠なのでしょう。そう、諸葛亮は言った。
ただ覚えているのは・・・衣服からするりと腕を抜くような、何かを脱ぎ捨てる『 感覚 』・・・。
この『 世界 』に『 堕ちた 』のは、己の身体だけだった。
言葉も過去の記憶も、あの日脱ぎ捨てた自分にとっては、今や記憶の彼方で霧散しようとしている。
それでも、構わないと思う。だって・・・もう、寂しいと思わないから。
この6年間を共にに歩んでくれた、家族がいるから。
孔明さまがいて、月英さまがいて、姜維がいてくれる。
此処に居て良い、と受け入れてくれた彼らには言葉では言い表せないほどの感謝と、尊敬の念がある。
だからこそ・・・逆らうことが出来ない。逆らおうと思うことも無い。
特に、孔明さまの仰ることに間違いは無いと、当たり前のように信じていたから。
「 ・・・・・・・・・ 」
ああ・・・あの頃は、この見慣れた天井がとっても嫌だったっけ。
そんなことをふと思い出して、唇が緩む。ふと外へと目を向ければ、明るい。
どのくらい眠ってしまったのかわからない。が、いつもより遅く起きてしまったのは確かだった。
がばっと牀榻から身体を起こして、は身支度にかかる。
帯で腰元を結びながら、廊下を走り、慌てて厨房へと向かった。
「 げ・・・月英さま!遅くなってすみませんッ!! 」
「 おはようございます・・・まあ、女の子なのにはしたない。、いけませんよ 」
「 ・・・す、みません・・・ 」
急いで帯を結んでいると、月英の手が触れて、きゅっと形良く結びなおしてくれた。
結び目を見つめる彼女を、は上から見つめている。
・・・昨日、あんなことがあったのに、月英は普段通りだ。まるで何事も無かったかのように。
の、不安そうに揺れる視線に気づいたかのか。
月英はにこりと笑うと、寝起きのままぼさぼさになっている彼女の頭を撫でた。
「 ・・・もっとゆっくり寝ていてもよかったのに。良いのですか、 」
「 は・・・はい・・・あの、月英さま、昨日は・・・ 」
撫でる手を止めて、濃色の瞳が優しくを見つめる。
「 姜維にも言いましたが、私は孔明さまを信じます。孔明さまの意思に従います。
・・・孔明さまが、本当に貴女を娶ることになったとしても、です 」
「 月英さま・・・でも、私 」
「 貴女の気持ちはわかります。これでも6年間・・・『 母親 』のつもりでしたから。
だけどきっと孔明さまには、何かお考えがあるはず。いたずらに疑うものではありませんよ。
誰よりも貴女を大切に思っている方です。きっと、これも貴女の幸せを一番に願っての行動でしょう 」
「 そう、でしょうか 」
「 ええ、もちろんです。でもそれは、孔明さまだけでなく、私や姜維も、ですけれど・・・ね 」
月英はそう言って、優しく笑った。も少しだけ、無理矢理だったけれど、笑う。
瞬間、涙がぽろりと頬を伝うと、月英の手が伸びての身体を抱き締めた。
・・・何も心配することはない、不安になることもない。
そう月英は諭してくれているのだ。孔明という『 家族 』を信じなさい、と。
月英に甘えるように、は積もった不安を洗い流すように声を上げて泣き出した。
皆の朝食が遅くなってしまっても、今日だけは・・・今日だけは、許してもらおう。
子供のように声を上げて泣くの背中を宥めながら、月英はこっそり吐息を吐いた。
・・・こうして抱き締めれば、この6年で彼女は本当に大きくなったものだ。
堕ちてきた時は何も解らず、手を繋いで導いてきたは、今やその手を離れ、巣立とうとしている。
彼女を見守ってきた者として、内心複雑な部分もあるが、その巣立ちを大いに祝福せねば・・・。
年月の重さをしみじみと感じながら、月英は黙ったまま『 娘 』を抱き締めていた。
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Material:"青柘榴"
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