鍛錬場に、一際大きな音が響き渡った。


 すぐ傍に植えられていた樹から鳥の飛び立つ羽音と鳴き声が、倒れた姜維の耳を突いた。
 いてて・・・という呻きに重なる足音。


「 どうしたんだい、姜維殿。ここ最近、まるで集中力がないじゃないか 」
「 ・・・申し訳、ありません、馬岱殿 」


 いやー、謝って欲しいわけじゃないんだけどねえ・・・と馬岱がぼやいた。
 倒れこんだ姜維の傍に腰を下ろした彼は頭をかいて、姜維が立ち上がるのを助ける。
 伸ばされた手を借りて立つと、馬岱が顔を覗き込んできた。


「 そろそろ信用されても良いと思うんだけど・・・俺に相談とか、ない?何でも聞くよ 」


 にこにこ顔の馬岱を見つめると、不思議と口が緩みそうになる。
 ・・・それは、自分の心が揺れているからだろうか。
 相談すれば、この辛い思いは緩和されるのだろうか。
 開きかけた口を閉じ、奥歯をかみ締める。ふるふると首を振って、姜維は微笑んだ。


「 お心遣いありがとうございます。大丈夫です 」
「 うーん・・・本当に?何か思いつめていないかい?? 」
「 はい。時間があるときで結構なので、ぜひまたお手合わせ願えますでしょうか 」
「 それはもちろん構わないよ 」


 姜維がそれ以上何も言わないことを、馬岱は追求しなかった。
 ようやく2人の顔に笑顔が戻った時、鍛錬場の入り口で戸を叩く者の姿があった。


「 じゃないか、久しぶりだねえ! 」


 馬岱がそう声を上げると、がはにかんで拱手する。
 彼女の手にある大きな籠を見つけて、ああ、と彼は納得するように頷いた。


「 そうか・・・姜維も孔明殿もしばらく留守だったもんね。
  諸葛亮家のお弁当係であるに逢うのが久しぶりで、当然なワケだ 」
「 放っておくと、2人とも執務に熱中しすぎて寝食を忘れるので・・・困っちゃいます 」


 わざと怒った口調でが姜維を軽く睨む。
 馬岱が同意するように肩を竦めてしまえば、当の本人は苦笑するしかない。
 そのうち、堪えきれずに彼女が吹き出し、3人で声を上げて笑った。
 ひとしきり笑った後、馬岱はやれやれ・・・と一息吐くと、の頭を撫でた。


「 ・・・・・・? 」
「 いやね、嬉しいんだよ。諸葛亮殿がを引き取ると聞いた時は、どうなることかと思ったけどさ。
  言葉が通じることが相互理解の全てではないけど、通じれば伝わる気持ちもお互いに増えるしね 」
「 馬岱さま・・・ 」
「 今更、俺が言うことじゃないと思うけど、やっぱり諸葛亮殿には感謝しないとね、うんうん。
  何故かはわからないが、がこの世界にやってきて、こうして話して笑い合える『 現実 』にね 」


 眉尻を下げてにこにこと笑った馬岱に、一瞬戸惑いを見せたものの・・・も曖昧にだが微笑み返す。
 彼は後ろに控えていた姜維に、手合わせありがとうね、と告げてから鍛練場を後にした。
 その背中が消えたのを見計らってから、彼女の口から溜め息が出た。
 心底、といった大きな溜め息に、姜維は心配そうにを覗きこむ。
 沈んだ気持ちを振り払うかのように、平気、と彼女は気丈な顔で首を振った。


「 ご飯、先に孔明さまの執務室に届けなきゃ。姜維にも後で届けるから、自分の執務室に戻ってて 」
「 わかった。でも・・・折角だから、一緒に丞相の執務室に行こう。お弁当の籠は私が持つよ、貸して 」
「 え、いいよ・・・だって、 」
「 時間が経ったとはいえ、まだ一人で丞相に対面するのは・・・気が張るだろう?だから 」
「 ・・・・・・うん 」


 姜維を見つめていた瞳が一瞬潤んだが、それを隠すようには俯いた。
 右手には得物を持ち、籠を持った左手の着物の端を彼女が無意識に掴んだ。
 見下ろした姜維と目が合って、は慌てて離そうとするが・・・その手を捕まえて、引き寄せる。
 掴まっていていいんだよ、と姜維は自分の左手に、彼女の手を添えた。
 照れたように、ようやく微笑んだと寄り添って、2人は諸葛亮のいる執務室へと足を向けた。
 執務室までの道のりには緑に囲まれた庭園側を通る。は庭園の樹々へ、眩しそうに視線を投げた。






 ・・・あの夜の宣言から、2ヶ月以上が過ぎた。
 諸葛亮も月英も、何事も無かったかのように『 いつも通り 』の毎日を送っている。
 この平穏は仮初のものなのか・・・姜維は、月英の言う通り思考を巡らせている。
 何の考えも無しに、丞相が発言するなんてことはまずあり得ない。
 一見何も変わっていない『 日常 』の中で、彼は動く『 時 』を待っているように思える。


 その『 時 』とやらに見当がつけば・・・自分にも打つ手があるかもしれないのに。
 ( 知略が敵うはずなくとも、何かしらの対策は講じられるはずだ )






「 姜維はさ、鳥の生態って詳しい? 」


 唐突なの質問に、姜維は頭の中に疑問符を浮かべた。


「 いんぷり・・・何て言ったっけ、英語だったんだけど。
  あのね私、学校で飼育係だったんだけど・・・飼ってた鳥を卵から孵したことがあるの 」


 学校という単語に、が前の世界の話をしているということはわかった。


「 鳥ってね、卵から孵って最初に見たものを親だと思うんだって。それも半永久的に。
  目の前にいたそれが本当の親かどうかなんて、生まれたばかりの子供にはわからないのに・・・ 」


 袖を握っていた拳が、きゅっと締まった。姜維は立ち止まって、を見つめる。
 さわさわと庭園の葉を鳴らす風の音よりも小さな音で、は震えていた。
 持っていた荷物を足元へと置いて、片膝を追った姜維は彼女の顔を伺うように覗きこんだ。


「 月英さまと姜維が私の味方になってくれるのは、すごく嬉しい。
  でもその前に・・・私は私の『 意志 』で、孔明さまに逆らうことが出来ない。
  拾ってもらったあの夜から、孔明さまは私の『 絶対 』なの・・・それが、どんなに納得できないことても 」
「 ・・・ 」
「 怖いの、自分のことなのに・・・どうして思い通りに身体が動かない?意志のない操り人形のようだわ 」
「 操り人形なんかじゃないさ。だっては『  』だろう? 」
「 じゃあ何故、孔明さまはあんなことを言ったの?私の意志は?私は・・・私は・・・ッ 」


 は『 納得できない 』気持ちを言葉にしようとするが、喉元でつかえるのか、背を丸めた。
 何度か挑戦するが、それは全く音になる気配はない。苦しそうに彼女が顔を歪める。
 ・・・疑いたくなる光景だが、彼女は嘘を吐くために演技するようなそんな器用な子ではない。
 反論も抗議も、諸葛亮に逆らうような意見は、吐き出したくても吐けない、のというのだろうか。
 だとしたら本当に・・・彼女は鳥と同じ、半永久的な『 魔法 』にかかっているのか・・・。


 もういい、無理するんじゃない、と見兼ねた姜維が言う。
 すると、言葉の代わりに涙が一粒・・・呟きと共に、の頬を零れた。










「 ・・・姜維だったら、よかったのに 」










 私を最初に見つけてくれたのが、姜維だったらよかったのに。










 はっとして、は口に手を当てるが驚いたのは姜維の方だ。
 確かめるように覗き込もうとが、彼女は絶対にこちらを見ようとはしなかった。
 袖口で目を数度擦ると、自分で籠を持って歩き出す。


「 、待ってくれ。ちゃんと話を・・・ 」
「 話なんかない。ない、もの 」


 聞く耳など持たない、と足早に廊下を進んでいく
 こうなるとしばらく手がつけられないのは、長年の経験からわかっている。
 鎮火するまで答えてくれないだろうが・・・いずれ、問いたださねば。


「 ( どうして私なら、と言ってくれたの?教えてくれ・・・私は、ずっとのことを・・・ ) 」


 そう思った瞬間、姜維の中に僅かな期待が生まれる。僅かに頬が緩みそうになった。
 が、慌てて蓋を押さえて閉じ込める。頭を振って、固まりかけた考えを散らした。


 ・・・は、諸葛亮の妻になる人だ。奪ってしまいたい、なんて想いは大罪だ。






 溜め息を吐いて得物を拾うと、姜維はの背中を追いかけた。










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Material:"青柘榴"