麻酔、という技術を生み出したのは、その昔曹操に仕える医師だった。


 扱えるものはまだごく一部の者であったが、戦のない時期であったのが幸運だったのか。
 軍医の手が空いていたようで、諸葛亮がすぐさま呼び寄せ、姜維の治療にあたらせた。
 部屋の外で待っている月英とには、どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。
 ただ、時折聞こえてくる悲鳴や治療の音に、何度も肩を竦めて泣いていた。


「 、大丈夫ですよ。姜維は何度も死線をくぐりぬけてきた武将です。
  これしきの傷で倒れるなんてこと、絶対にありませんから 」


 そう言い聞かせても、抱き締めた彼女はさめざめと涙を零すばかりだ。
 どうしようどうしよう、私のせいだ・・・と呟いては頭を抱えている。


「 私が戻らなければ・・・孔明さまと避難していれば・・・ 」
「 ・・・そう、自分を追いつめては 」
「 でも、月英さま、事実なんです!私・・・私・・・ 」


 月英が、何とか彼女を元気付けるような慰めの言葉はないかと考えているうちに、扉が開いた。
 が弾かれたように顔を上げ、月英が止める前に治療室から出てきた諸葛亮へと駆け寄った。
 泣き腫らした顔で、医師と同じ服を纏っていた彼の胸元にしがみつく。


「 孔明さま、姜維は!?姜維は・・・ 」
「 大丈夫ですよ、一命は取り留めました。騒いでは傷に触りますから、まずは静かになさい 」
「 ・・・よかった・・・ 」


 後ろに控えていた月英も、ほっと胸を撫で下ろす。


「 ですが、油断は出来ません。傷が思った以上に深い・・・そこで、 」
「 はい! 」
「 貴女が看病なさい。姜維は、貴女のせいで傷ついたのですから 」
「 孔明さま、のせいでは・・・ 」
「 いいえ、月英さま。至極当然のことです 」


 はにっこりと微笑んで、ありがとうございます、と月英に頭を下げた。
 無表情の諸葛亮をすり抜けて、最低限の灯に留めている姜維の枕元へと駆け寄った。
 月英の立ち位置からは見えないが、手術後でよく眠っているのだろう。
 が横になった彼のすぐ傍に座り込んだのを見届けると、諸葛亮は扉を閉めた。
 自分もひと目見舞いたいが、これ以上誰も入ってはいけない、ということなのだろう。
 無言で部屋を離れる夫の後を、月英はついていく・・・けれど、耐えかねて口を開こうとすると。


「 ・・・当然、わざとですよ 」


 2人から十分に距離をとったと判断したのか、落ち着いた口調でそう言った。
 彼の言葉に目を剥いた月英は、諸葛亮の正面に回り込んで声を荒げる。


「 孔明さま、からかうのも大概になさませ! 」
「 確かにのせいではありますが、かばいきれなかった姜維にも落ち度があります 」
「 なら何故、2人を焚きつける様なことを・・・ 」
「 ような、じゃなく、焚きつけているのですよ・・・月英 」


 まあ、と更に驚いた月英を見て、諸葛亮はくすくすと笑って・・・何故か、溜め息。
 疲労というより辛苦を背負ったようなその姿に、憤っていた彼女もひとまず怒りを沈下させた。


「 一体、何をお考えなのです?もうそろそろお話くださってもよいでしょう 」


 この人は、自分が育ててきたや、後継者である姜維を愛しいと思っている。
 だからこそ愛弟子である彼らに嫌われることをとても恐れているし、2人が傷つけば自分も傷ついている。
 いつかその『 愛 』を勘違いされて、本気で見捨てられることだって考えられるのに・・・。
 それでも、こうした行動に至る『 理由 』は彼らに嫌われることよりも重要なのだろうか。


 まっすぐ見つめる月英に、諸葛亮は伏せていた重たい瞼を持ち上げて向き合った。






「 ・・・そうですね、貴女になら頃合かもしれません 」






 長年、自分を支え続けてくれた月英・・・最愛の存在。
 貴女を悲しませたくない。それは、彼らのことも同様に思っている。
 自分が英雄たちと駆け抜け、築いてきた歴史を引き継ぐのは・・・私の可愛い子供たちなのだから。






 諸葛亮は、手を伸ばす。月英は伸ばされた手を見つめ、それから諸葛亮へと視線を上げた。
 窓から差し込む月光に照らされた彼は、少しだけ青白い顔をしていた。
 それは長時間の手術に立ち会った疲れのせいなのか、それとも別の理由なのか・・・。
 どれも心配ではあるが彼女の行動はただひとつ。月英は迷わずにその手を取った。
 すると、どうしたことか。諸葛亮の瞳が、淡い光の中でもわかるくらい・・・揺れる。


「 ・・・孔明、さま・・・ 」


 先に、月英の瞳から涙が溢れた。
 どうしてだろう・・・泣くつもりなどないのに。泣きそうだったのは、むしろ彼の方だったのに。


 彼女の涙を見た諸葛亮が、酷く優しく、微笑んだ。


「 いらっしゃい、月英 」
「 はい、孔明さま 」


 涙を拭いた月英は、手を引かれるままに彼についていく。
 婚姻した時から・・・ずっと、そう。私は、この人についていくと決めたのだから。
 何があろうと、信じて、信じて、信じて。






 月明かりを逃れるように、2人は闇に溶けた。










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Material:"青柘榴"