2.

 そこは何もなかった。
 いや、何もないというのは正しくないかもしれない。人が生活するために必要なものから、魔術師しか必要としないものまでの様々な道具やら何やらが置かれていたのだから。 
 けれど、それらを使う者がない以上、全ては用を成さない。その中で、かつてのこの部屋の所有者が残していった「意味のある」ものが二つばかりあった。


 動脈を切断でもしなければ流れることのないほどの大量の血痕。そして、血の気のなくなった左腕。

「………よお……久しぶり、だな」 
 まるで、その血痕と左腕に挨拶をするようにしてランサーは室内へと入っていく。すでに意識は朦朧としていた。視界は深い霧に遮られ、鍛え上げられた筋肉はその重みで悲鳴をあげている。それでも、ランサーは口を開いて、侵入することを詫びるかのように可聴域すれすれの声で呟いた。
「…悪い…が、休ませて…くれ……」
 返事がないことを承知で、身体を引きずるようにして入口とした窓から壁に向かって歩を進める。壁にもたれかかったところで、酷使されてきた身体はその役割を放棄する。白い壁に真紅の跡を残しながら、ランサーは尻餅をつく形で身体を預けた。 
 無様だと思う思考もとうに失せた。ただこの喪われる魔力をどうにかしなければ、ランサーの頭の中にあったのはその一点だけ。止血の役割を果たそうとしない左手を口元に寄せて、口腔に含ませる。血の味に混じった、微かな魔力を取り込む。 
 光の御子と称えられた英雄が、生き血を啜る亡者の如き真似なぞと、そう言う奴には言わせておけばいい。自分の血から魔力を吸い上げることの何が悪いものか……これが現界するための糧のなるのであれば……ただそれだけを思い、ランサーは数回それを繰り返す。 
 けれど、所詮は自らの中の魔力を循環させるだけの行為。外へ流れ出てしまったものを取り返したわけではない。正確な回数なぞ覚えてはいなかったが、確実に数十回繰り返したところでランサーは首の付け根を押さえる左手に再び力を込めた。

「ったくよ…オマエがいたなら……オレは、こんな真似しなくて、済んだ、んだけどよ……」

 珍しく愚痴に近いぼやきが口をついて出る。そんな自分に苦笑しながら、ランサーは次第に重たくなってくる瞼を落とした。休んでもよい場所だ、と認識できたので。 
 かつてのこの部屋の主とランサーだけを判別するように編まれた結界がまだ生きていたことは、部屋に入る瞬間に感じ取れた。生前、魔術をも修めていた彼にとって、いくら消滅の危機に瀕していようとそれくらいのことは造作もなかった。
 本来であればこのような結界は術者の消滅に従って自然と消える。そんなことは理解しながらも、万が一の可能性に賭けてこの場所へとやってきたランサーだったが、結界は正常に作用していた。それも編み上げた当時の強度を保ったまま……。日頃の自分のツキの無さを考えれば僥倖だと言えた。
「役割を…果たすことのできなかった、サーヴァントに……ここまで尽くしてくれるマスターってのも、オマエくらいのものだよな……」
 言峰とはえらい違いだよ。
 口唇を歪ませて、ランサーはまるで目の前にいるかつての主に見せるかのように笑みを浮かべる。
 自らの、新しすぎる古傷を引っ掻くような行為……それどころかまだ癒えていない傷に塩を塗りこむようなこととわかっているから、ランサーは誤魔化すために笑んでみせるしかなかった。ついでに「ったく、周到すぎる割にはどこか抜けてんだからな……」などと邪気の無い悪態をついてみせる。
 悪気がなかろうと、バゼットに聞かれていたら、それこそ往復ビンタの3回や4回では済まないだろう。もしかしたら、決してありえないこととわかっていながらもランサーはその手の感触を確かめたかったのかもしれない。

 けれど、周囲に人はなく、聞こえるのはただランサーの熱い喘ぎにも似た呼吸音だけ。
 それをしばらくだまって聞いていたランサーだったが、いよいよ起きていられる限界が近づいてきたようだった。
 血痕と左腕に、覆い被さってくる瞼の下からやっとのことで視線を向けると、もう声も発しなくなった口唇をやっとのことで動かす。



 必ず、禁忌(ゲッシュ)は果たす―――だから、
 少しだけ休ませてくれ―――


 護ることのできなかった主に詫びつつ、ランサーは意識を沈めていった。 
 深い深い意識の海の底へ、生前から今に至るまで一度たりとも落ちたことのない眠りの深淵へ。




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