零式水上偵察機
  
         零式水上偵察機 
 
  
 第一次大戦終結後、新兵器である戦車や航空機、潜水艦は新技術の導入により、恐竜的進化を遂げましたが、古参の兵器である戦艦もその一つでした。現代でこそ海上兵力の要は空母ですが、第二次大戦前夜までは強大な大砲を積んだ戦艦こそが国ごとの海軍力の指標とされました。

 1920年代までは、戦艦が主砲で敵を攻撃しても目標は肉眼で確認できる距離でした。しかし1930年代に入ると、各国の新型戦艦の主砲の射程距離は30キロを越えるレベルになり、攻撃しても命中しているのかどうかの確認は困難になっていました。そこで各国海軍は戦艦それぞれに飛行機を数機程度搭載し、いざ主砲での海戦が始まれば敵の上空にこの観測機を飛ばして主砲射撃の誘導をさせる方法が取られるようになりました。今回ご紹介するのは日本海軍が艦隊の目として敗戦まで使い続けた偵察機です。

 昭和12年、日本海軍は愛知飛行機と川西航空機に対して新型の水上偵察機の開発指示を出しました。その要件には艦船、水上基地のどちらでも運用可能な長距離偵察機であり、最大速度は時速370km/hとされました。
 この当時は予想される対米戦争のための新型機開発が各航空機メーカーで繰り広げられており、愛知飛行機では99式艦上爆撃機、川西航空機ならば二式大艇の開発に忙殺されていました。試作機の納品は昭和13年9月とされていましたが、愛知はこの期日に間に合わせることができず、審査を受けることができたのは川西の試作機のみでした。

 しかし、愛知飛行機はせっかく開発したものであるし、完成させれば後継機の研究資料となるのは間違いないと製作を進めました。完成したのは海軍の定めた期日の4ヶ月後である昭和14年1月のことでした。競作した川西航空機の試作機が制式採用されれば、実験機としてその生涯を閉じるはずでしたが、思いがけないことが発生しました。昭和14年6月、海軍でテスト飛行していた川西の試作機が事故で突然失われてしまったため、愛知飛行機が独自で実験機として開発していたこの機体にスポットが当たったのです。
 海軍が機体を受領してテストした結果、飛行性能は優秀であったため、翌年の昭和15年12月に零式水上偵察機の制式採用が決定しました。


 零式水上偵察機は開戦前には駆逐艦を除くほとんど全ての艦船や水上機地に広く配備され、海軍の目として大いに活躍しました。前機種であった九四式水上偵察機(川西航空機製)よりも130キロも速い上に、航続距離は1000km以上伸び、何よりエンジンの信頼性は抜群でした。緒戦では優秀なパイロットに支えられていましたが、水上機の性能にも限界があった上に、アメリカも迎撃体制をしっかりと整えると生還できる機も次第に減る傾向が見られました。

 本来であれば、高速の艦上偵察機に切り替えられるべきだったのですが、名機「彩雲」が登場するのは昭和18年末期。不利であると分かりながらも、水上偵察機の出番はなくならず、連合艦隊が壊滅した後も本土近海の哨戒任務や輸送船団の上空援護に運用され続けました。



性能諸元     

 全長; 11.49m
 全幅;  14.50m
 全高;  4.70m
 正規全備重量; 3650kg
 エンジン; 三菱金星43型空冷複列星形14気筒 公称1080馬力×1
 最大速度; 367km/h 
  武装;  
7.7 mm 機関銃 × 1 60 kg 爆弾 × 4 または 250kg 爆弾 × 1

           



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