戦前の航空機先進国で開発された急降下爆撃機で名だたるものは、日本の99式艦上爆撃機、アメリカのドーントレスがあります。日米の急降下爆撃機は海軍での使用が多く、奇襲によって空母の飛行甲板を破壊することで離発着を不能にすることが目的とされました。(イギリスでは雷撃が主なので急降下爆撃は余芸とされた)
一方、ヨーロッパではドイツ空軍が機甲師団と連携して戦車の突破口を開く目的で急降下爆撃機が使用されていました。軍用機ファンには「スツーカ」と記憶されているJu87です。
1935年、ドイツ陸軍は機甲師団の近接支援機の要求をドイツ空軍省に求めました。新型爆撃機の競争審査に名乗りを挙げたのはアラド社、ハインケル社、ブローム・ウント・フォス社そしてユンカース社の4つでした。
この審査に勝ち抜き、ユンカース社のJu87は制式採用となりました。1937年から初期生産型Ju87Aの生産がスタートし、スペイン内戦に投入されることになりました。使用部隊の名前はコンドル軍団。ピカソの名作「ゲルニカ」に描かれた地獄を産み出した張本人達でした。
スペイン内戦での急降下爆撃の有効性が確認された2年後の1939年、ついに運命の第2次世界大戦が勃発しました。当時の連合国の戦略は若干の進化はあったものの大部分は旧態化した塹壕戦を支持しており、
ドイツの打ち出した電撃戦に対応することはできませんでした。
Ju87を効果的に使用したこの戦いに圧倒的な勝利を収めたドイツは「急降下爆撃こそ至上の爆撃手段である」と慢心しました。この慢心が後継機開発を遅延させ、さらには後に開発される中型爆撃機にまで急降下爆撃能力を求めるなどの結果を招いています。
Ju87を語るのに外せないのが急降下時に発生する独特の風切り音です。それは「地獄のサイレン」もしくは 「悪魔のサイレン」と呼ばれ、ドイツ軍兵士には頼もしく連合国兵士には恐慌をもたらす音となりました。この音は急降下時に速度超過を防ぐダイブブレーキを風が通過するときに発生したと伝えられていますが、一部の機体にはさらにサイレン発生用のプロペラが装備されている写真が残っています。
「地獄のサイレン」とともにヨーロッパに戦争をもたらしたJu87は無敵の存在と思われましたが、急降下に耐えるための頑丈な主翼設計は高速飛行には全く向かず、また航続距離の短さから行動範囲は限定されました。制空権の無い作戦区域での使用が自殺行為であると証明されたのが、1940年の「バトル・オブ・ブリテン」でした。この戦いで多くの損害を出しましたが、機体特性からマイナーチェンジしか施されず、やがては爆撃そのものも戦闘機が兼任することとなりました。
一部の機体は改良の末、ダイブブレーキを撤去して襲撃機として使用したり、投弾装置の撤去後、そのスペースに対戦車砲を装備して急降下爆撃ではなく、大口径砲装備で地上部隊に戦いを挑む姿がありました。操縦性の良さはパイロット達から定評があり、それは「カノンフォーゲル(大砲鳥)」、「タンクバスター」とも呼ばれドイツ降伏まで戦い続けました。
<おまけ>
日米の急降下爆撃機パイロットに関連する逸話は次のように聞いています。
・日本海軍では「艦爆に乗れば命はない」と言われ、旧式化した99式艦上爆撃機は「99式棺桶」と呼ばれた。最初の特攻隊として出撃した、関行夫海軍大尉は艦爆乗りであった。
・アメリカ海軍では対空砲火の真っ只中に突っ込んでいくため急降下爆撃機パイロットは命知らずとの意味を込め、「ヘルダイバー」と呼ばれていた。(SB2Cの愛称はここからか?)
性能諸元
全長; 11.5m
全幅; 15.00m
全高; 3.84m
正規全備重量; 3900kg
エンジン; ユンカース「ユモ」211J-1液冷V型12気筒 (離昇1410馬力)
×1
最大速度; 410km/h
武装; 7.92mm機銃2挺(前方固定)、7.92mm機銃1挺(後方旋回式)
爆弾搭載量;最大1800kgまで