カーチス P-40 ウォーホーク
カーチス P-40 ウォーホーク
1930年代前半のアメリカ航空機の近代化を語るのに欠かせないのが、今回ご紹介するP-40「ウォーホーク」です。この時代はレシプロ(プロペラ動力)機の性能限界に至る時代であり、エンジン形状も水冷(エンジンの冷却機構に水冷ラジエーターを使う形式)か空冷(エンジンのシリンダーに空冷フィンを取り付けた形式)のどちらがよいかを議論した結果、様々な航空機が誕生しました。
P-40は設計段階から水冷式エンジンを装備しておらず、空冷式エンジンを装備したP-36からの発展改良機でした。前段階のP-36はアメリカ航空機メーカーの大手、カーチス社が開発したアメリカ陸軍航空隊最初の近代的戦闘機(全金属製片持ち単葉の主翼、引き込み脚などの採用)の1つでした。
P-36はマイナーな機体ですが、過去に紹介した
96式艦上戦闘機と比較すると、最大速度は時速500キロを超え、主脚は引き込み式機構を備え、武装は12.7mm機銃を2丁も備えたカタログデータで見れば優秀な戦闘機でした。しかし、アメリカ陸軍に正式採用されることはなく、性能向上を目指してエンジンの改装が図られました。
カーチス社は改造機用のエンジンとしてアリソンエンジンを選択しました。初飛行は1938年に行われ、このエンジンに換装したP-35は最大速度は70キロも早くなり、アメリカ陸軍から正式採用の座を勝ち取りました。ヨーロッパでは既に第二次世界大戦が勃発していましたが、この当時のアメリカは中立国の立場をとっていたため、連合国への武器援助としてイギリスやフランスへ送られることになりました。
P-40は日本と無関係ではありません。1940年手前といえば、中国大陸では日中戦争の真っ只中であり中華民国も武器供与を受けていました。日本軍と戦っていたのは中国空軍ではなく、「フライング・タイガース」と呼ばれたアメリカ出身の義勇軍でした。このフライングタイガースは当時の中華民国の指導者である蒋介石婦人のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官を勤めていたクレア・リー・シェンノートにより設立されたアメリカ「義勇兵」による戦闘機部隊でした。
彼らが運用したP-40は戦闘機として重要な要素である運動性においては
隼と比較すればはるかに劣っていました。これは供用されたイギリスからも指摘されていたことで、結論から言えば「旧式機」としての扱いを受けたことになります。シェンノートはこの機体を活かす手段として、防御力が低い日本機に対して一撃離脱戦法に特化させることで対抗しています。
(フライングタイガースは「義勇兵」で有名な反面、戦果の誇大報告でも悪評がつきまとった。というのも「1機撃墜すれば500ドル支給」という募集要件があったため。日本側の被撃墜数とフライングタイガースの発表との間に大きな乖離があり、松本零士の作品中では「フライングタイガースはホラ吹きの集まりだ」というパイロットのセリフが出てくる)
P-40は操縦に職人的な技量を必要としないため、新人パイロットでも運用しやすい戦闘機でした。また防弾装備も施されていたため生還率が高く、この機体で腕を磨いたパイロットが他の上位機種に移るということもよくあったことでしょう。エンジンをアリソンエンジンからさらに高性能のマーリンエンジンに換装したものも存在しましたが、時代はもはや
P-51「ムスタング」を求めており、大戦の中盤には徐々に退役が進んで行きました。
現在、アメリカ国内にはP-40は70機ほど現存しており、30機は飛行可能であるそうです。また2012年春、サハラ砂漠で保存の良い不時着機が発見され、ニュースになりました。
性能諸元
全長; 10.10m
全幅; 11.38m
全高; 3.70m
正規全備重量; 2810kg
エンジン; アリスン V-1710-81 液冷V型12気筒 1,200馬力×1
最大速度; 552km/h
武装; 12.7mm機銃×6
爆弾; 翼下に680kgまで装備可能
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