陸軍九七式戦闘機
陸軍九七式戦闘機
昭和10年、日本海軍は戦闘機近代化計画の一環で九六式艦上戦闘機の開発に成功しました。この当時、陸軍の戦闘機はまだ複葉機の時代であり、ライバルの海軍に単葉機のデビューで先を越されたことは陸軍にとっては大きなショックでした。
無論、次世代機開発も大きな目的だったはずですが、海軍への対抗意識も手伝い日本陸軍は複葉機脱出に乗り出すことになりました。当初、陸軍は海軍で採用されていた九六式艦戦を改修した機体(キ18)の運用を考えましたが、エンジンの不具合を理由に採用を断念し、新たに中島、三菱、川崎に対して競作を命じました。
その条件として
〇最大速度は時速450キロ
〇高度5000メートルまで6分以内という上昇力
〇運動性は従来の複葉機並み
という当時としては高性能機を求められました。次期主力戦闘機というビッグチャンスに各メーカーは最先端技術を駆使し、新型機開発に取り組みました。各メーカーの特徴を挙げると
<川崎>
唯一、水冷の高出力エンジンを搭載して高高度での最高速度を重視
<三菱>
陸軍の審査にパスできなかった九六式艦戦の性能向上機を開発
<中島>
陸軍の好みである格闘戦に重視して開発
昭和11年に入ってから軍の審査が始まり、3社とも次世代機にふさわしい試作機を仕上げましたが、川崎の試作機は当時まだ黎明期であった水冷エンジンが信頼性という面で仇になり不採用となりました。この後、三菱と中島の開発競争になるのですが、テスト飛行の結果、三菱が試作した試作機のほうが中島の試作機を上回っていました。
ここで素直に三菱の試作機を選択していれば、最精鋭機をすぐに量産配備できたのですが、陸軍は「何が何でも海軍より勝りたい」というメンツのために中島の試作機を選択しました。中島もキ18を研究し、さらなる軽量化と空気抵抗の減少に務め、ついには九六式艦戦を上回る究極の軽戦闘機が生まれました。
その特徴として
〇主翼を1枚構造にして、胴体はその上に乗せる方式(生産性の向上と軽量化対策)
〇胴体は前後に分割できて、ボルトで結合する構造(修理しやすさと貨物輸送のしやすさ)
〇不整地での着陸を考慮した固定脚
飛行試験の結果、中島の試作機はあらゆる面でキ18を上回り、文句なしの性能を持って九七式戦闘機として制式採用を勝ち取りました。三菱は陸軍のメンツのために当て馬にされた結果となり、これ以降、陸軍の主力機は中島、海軍の主力機は三菱という構造ができてしまいました。三菱は主力機の座を勝ち取ることはできませんでしたが、後に中島との競作の中で得られたノウハウを終結させた
零式艦上戦闘機という最高傑作を生み出すことにつながりました。
昭和13年、九七式戦闘機は中国大陸に送られ、日中戦争での最前線がデビュー戦となりました。さらにその後、昭和14年のノモンハン事件(事実上の日ソ間の軍事衝突)ではソ連軍の複葉戦闘機I-153や単葉戦闘機I-16と空中戦を行い、運動性の良さで敵を圧倒し大戦果を上げました。
複葉機を圧倒する運動性の高さとスピード、さらにはエンジンの信頼性の高さから現場パイロットからは圧倒的支持を受け、一時は海軍のパイロットもうらやましがった程の出来だったと伝えられています。
緒戦は日本側の圧倒的勝利でしたが、ソ連側が防弾装備の充実と一撃離脱戦法に切り替え始めた頃から、優位性は崩れてしまいます。多くのパイロットが戦死したにも関わらず、陸軍上層部は緒戦の無敵の活躍ぶりに酔いしれて軽戦万能主義が定着してしまい、後にデビューする
キ43や
キ44の開発にまで悪影響を及ぼしてしまいます。
太平洋戦争勃発後はさすがに航続距離、速度に優れるキ43に第一線を譲りましたが、操縦性・稼働率の高さから後方では練習機として活用され、戦争末期には特攻機として使われるまでのロングセラーとして記憶されています。
性能諸元
全長; 7.535m
全幅; 11.31m
全高; 3.25m
正規全備重量; 1783kg
エンジン; 中島九七式(ハ1乙)空冷星形9気筒 公称610馬力×1
最大速度; 460km/h
武装; 7.7mm機銃×2
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