陸軍二式単座戦闘機 「鍾馗」

      陸軍二式単座戦闘機 「鍾

 

 昭和13年、陸軍は欧米で研究が進みつつある「重戦闘機」の開発を中島飛行機に命じました。重戦闘機とは高速・重武装を身の上にした機種であり、これまでの日本で使われてきた戦闘機とは一線を画するものでした。

 この鍾馗と同じ位置にあったのが、川崎航空機工業で勧められた試作機キ60ですが同時期に開発されていたキ61(後の3式戦飛燕)に性能競争に破れ日の目を見ることはありませんでした。陸軍が中島飛行機に求めた要求は最大速度が時速600㌔を超えること、日本機には珍しく火力に優れることでした。この当時の日本にとって、600㌔超の最大速度はあまりに過酷な条件でありました。これに対し、中島飛行機は1200馬力相当のエンジンを採用し、機体の設計も高速機特有のエンジンカウリングから尾翼までを絞った機体スタイルを考えました。

 陸軍最速の戦闘機はキ84(疾風)が時速620㌔を超えたことがあまりに有名ですが、実は「鍾馗」開発中、非武装のテスト機が時速620㌔をマークしているのはあまり知られていません。

 この日本最速の新型戦闘機はテスト飛行の際、ドイツから輸入されたメッサーシュミットBf109E-3と模擬空戦を行い、これに勝利します。テスト飛行に立ち会った陸軍関係者は小回りの利かない試作機が鈍重な爆撃機相手にしか役立たないと考えていたこともあり、大いに驚かされたといわれています。軽戦闘機至上主義の陸軍の反応は冷淡でしたが中島飛行機が独自に改良を進め、昭和17年3月に制式採用されました。用兵の失敗から、東アジア諸方面に配備されたせっかくの高速重戦闘機は古参パイロット達にとっては着陸速度の高い危険な新型機、現地整備員からは3式戦と肩を並べる整備の難しさと忌み嫌われました。


 鍾馗が本領を発揮しだしたのは皮肉にも、アメリカ空軍による本土爆撃が本格化してからのことでした。本土防空の為、東アジア各地から呼び戻された航空隊の中で、一際有名な一部隊がありました。関東の調布に本拠地を置いた独立第47飛行中隊でした。この部隊の素晴らしい所は陸軍一、機体の稼働率が高いところにありました。現在の旅客機の整備では、部品ごとに交換時期が定められており例え故障・破損がなくとも一定時間使用すればユニットごと新しいパーツに交換されます。この部隊では不時着した飛行機からも部品をストックしておき、現在の旅客機整備の要領でトラブルを先読みし稼働率を高めていったのです。「飛べなければ戦闘機ではない」との信念を持った名整備指揮官はメーカーの技術者からも技術の習得を図りました。この努力もあり、各地の航空隊から100%に近い稼働率を誇る整備の見学が訪れたというエピソードがあります。


 鍾馗は終戦までにいくらかマイナーチェンジが施され、徐々に搭載エンジン、武装の強化が図られていきました。特筆すべきはキ66Ⅱ型の特別仕様機です。この機には対B-29用装備として40㍉ロケット推進砲が二門装備され、日本機ではトップクラスの火力を有していました。数発も命中すれば、「超空の要塞」と呼ばれた大型爆撃機をも粉砕する威力でしたが初速の遅さ、さらには重量があるため装填できる弾数も限られる(1門につき9発まで)のが泣き所でした。

 やがて昭和20年春からB29直衛機としてP51が現れると、爆撃機専門に迎撃してきた鍾馗は手も足も出なくなります。もはや用途は戦闘機としてでなく、「震天制空隊」という空対空特攻機として使用されるという悲劇的な結果に終わりました。鍾馗は対爆撃機用重戦闘機という異色の戦闘機でありましたが、気概あふれる若手パイロット達からは支持され、鍾馗を乗りこなせることは一種のステータスのようなものであったという記録もあります。


性能諸元(キ44 Ⅱ型乙)

 全長; 8.84m
 全幅;  9.45m
 全高; 3.24m
 正規全備重量; 2106kg
 エンジン; ハ109(離昇出力:1400馬力)
 最大速度; 615km/h 
  武装;  12.7㎜機関砲×4 (特別装備機はホ103 40㍉ロケット推進砲2門が装備可)      
      爆弾:60㌔爆弾×2



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