楽しくて幸せな日々は瞬く間のうちに過ぎ去って行った。
一年が過ぎる頃にはジョミーはすっかり家に馴染み、ブルーの傍にも照れずにいてくれるようになった。
相変わらずジョミーはシロエと過ごす時間は長いけれど、どこへ遊びに行っても、どんなときでも、ブルーとふたりで分け合った小鳥の青い羽を忍ばせていると知って、いちいち苛立つようなことはなくなった。ジョミーも、ブルーが羽根を小さな袋に入れて常に持ち歩いていると知ったときには、花が綻ぶように柔らかに微笑んで喜んだ。
更に月日を重ねるうちに、勉強をあまり好かないジョミーが、時折だが教授やブルーを驚かせるような鋭い指摘をすることを知った。特に労働階級や貧困層の話題に強い興味があるように見える。
そんなジョミーを、父は出自に近い者たちが気に掛かるのだろうと言うだけだったが、ジョミーはこの家に来る前から文字は読めたし、嫌いであっても教養は十分に備えていたように思う。恐らく裕福な家に育ったはずだが、身分にこだわる父にとっては貴族でなければ豪商でも市民でも大した違いはないらしい。
人という存在に置いて、違いがないという意見はブルーも賛成だ。父と違うのは、そこに貴族も含めていることだろう。
ジョミーは父のことを一度も悪く言うことも、そんな素振りも見せなかったが、自分が爵位と家業を継いだ暁にはもう少し労働者たちと歩み寄る努力をしたいと、ブルーがこっそり打ち明けたときは強く賛同してくれた。
ジョミーはいずれ自立して出て行くと母は言っていた。けれどブルーが語ったことに熱心に頷くジョミーを見ていると、ずっと一緒にいてくれるかもしれないというあの時の自分の願いが叶うような気がしてくる。
引退した父の後をブルーが継ぎ、その傍でジョミーが片腕として共に難題と戦ってくれる。
それは苦労を思い遣っても、なお夢馳せる光景だった。
ジョミーの笑顔を、いつまでも見ることができるのならば。


そんな先を夢見ることのできる温かな生活は、すべて庇護されていたから続いていたのだということを、否応もなくブルーに思い知らせたのは、ブルーたちを守ってくれた優しい手が失われたときだった。
「母上が……?」
呆然と呟いたブルーの腕に、先ほどまで元気にはしゃいでいた弟の小さな手が震えながらしがみつく。
街からの報せを伝えに来た家人は頷いてそのままうな垂れる。
「はい。暴走した馬車の事故に巻き込まれて……手の施しようがなかった、と」
突然の悲報に、実感が湧かない。恐らく震えているシロエも同じだろう。恐ろしい報せに怯えてはいる。だが事実が本当に牙を剥いて襲ってくるのは、このあとだ。
頭のどこかが麻痺したようにそう冷静に分析するブルーの耳に、息を飲む声と、陶器の割れる音が聞えた。
振り返ると紙の様に白い顔で、テーブルのカップを落としたジョミーが今にも倒れそうな様子で立ち尽くしている。
「ジョミー……」
左手はシロエに抱きつかれたまま、右手を伸ばそうとする。
だがジョミーはまるでそれに怯えたかのように大きく震えて、後ろに下がった。
「ぼくのせいだ………」
「ジョミー?」
ジョミーは今日ずっとブルーやシロエと共に邸にいて、一歩も外へ出ていないのに何を言っているのだろう。
「ぼくが………夫人に甘えて………ここにいたから……」
「ジョミー、何を」
首を傾げるブルーに、ジョミーは握り締めた拳を胸元に引き寄せ、痛みを堪えるように顔を歪めてまた後ろに下がる。
「ごめん……ごめんなさいっ」
「ジョミー!」
身を翻したジョミーを追いかけようとして、後ろに腕を引かれて膝が崩れた。シロエが腕にしがみついたままだ。
「シロエ!」
硬直し青褪めた顔で、それでもシロエはすぐに両手を離す。
「行って兄さん!ジョミーの様子が変だ!」
「わかってる!」
ブルーが部屋を飛び出すと、すでに階段に消えようとしているジョミーの背中が一瞬だけ見えた。
「相変わらず足が早いっ」
いつもは活動的なジョミーが眩しくて好ましく思っているが、こういうときには厄介だ。
このまま追いかけても追いつけないと部屋に駆け戻って、シロエを驚かせる。
「兄さん!?ジョミーは……」
「今捕まえる!」
そのまま窓に突進するとガラス戸を大きく開いて、窓枠の桟に足を掛けた。
「兄さん!」
「ブルー様!」
シロエと家人の悲鳴が聞えた。飛び出した背後の部屋から。
すぐに聞えなくなったのは、部屋の近くに植えられていた木の枝を巻き込みへし折る激しい音と、枝や葉が顔や身体を叩く痛みの中で、ジョミーのことだけしか考えられなかったからだろうか。
木の枝がある程度のクッションになっているとはいえ、近付きすぎて折れないほど太い枝にぶつかれば危険だし、このまま地面まで落ちても大怪我をする。
枝に叩かれながらの短い落下中に慎重に見極める余裕などあるはずもなく、密集する最後の枝を掴めたのは奇跡に近い。
枝を巻き込んで落下速度が落ちていても、全体重が落下の衝撃を加えて右腕に掛かり、肘と肩に激痛が走る。激しい負荷と痛みにすぐに枝を掴んだ手は離れていた。だがそれで地面までに体勢を整えるのは十分だ。
着地した両足も、右腕も全身も激しく痛んだが、ブルーはそのまま通用門に続く裏の方へ回り込むために走り出す。
こんなことができるなんて、するなんて、ジョミーが傍にいなければ考えもしなかった。
ブルーはジョミーほどには活動的ではないのに、地面に叩きつけられなかったこと、木に激突して体勢を崩したまま落下しなかったこと。どちらも運命がジョミーを捕まえろと言っているとしか思えない。
邸の裏手口にブルーがたどり着いたとき、果たして扉が開いた。
ジョミーだと寸分も疑わず両手を広げたブルーの腕の中に、飛び出した勢いのまま飛び込んできたのは、眩しい金色。
「ジョミー!捕まえた……」
「ブ、ブルー!?」
後ろから追いつかれるならともかく、先回りされているなんて予想もしなかっただろう。
目を白黒させたジョミーは、強く抱き締められたそのシャツに血が染みていることに驚いて抱き締められたまま顔を上げる。
「ブルー……っ怪我、どうして!」
「三年前とは違う。君はこの周辺のことも理解しているし、本気で逃げられたら……捕まえることができないとは言わないけれど、難しい。だったらここで捕まえておかないと」
「そんなこと言ってるんじゃないよ!」
震える手が伸びてきて、ブルーの頬に触れる。痺れるような痛みが走り、どうやら枝で頬を切ったことを知った。身体中が痛くてどこを怪我したかなんて分かりはしない。ただジョミーをここで捕まえることができて安堵した以外には、なにも。
「どうして………ぼくなんかのために……こんな……」
「僕の方こそ不思議だ。どうしてジョミーは『ぼくなんか』と言うんだ。僕がどれほど君を必要としているか、こんなに伝えているのにわかってくれない」
涙を滲ませるその頬を両手で優しく包む。綺麗な白い肌を赤い色が汚し、最後に枝を掴んだ右手の掌の皮が捲れていることに気づいた。
頬についた血は、当然ジョミーもすぐに気づく。はっと驚いたようにブルーの右手を掴み、掌を見て自分が怪我をしたかのように顔を歪めた。
「っ……馬鹿だ、あなた!ぼくの……ぼくのせいなのに!」
「さっきもそんなことを言っていたね。ジョミー、事故だよ。母は」
思い出した影に肺腑が焼け付くように痛み、一瞬だけ息を詰めた。今日は邸を出て行くときには会っていない。最後に顔を合わせたのはどこだったか。最後に交わした言葉はなんだっただろうか。
「……事故で亡くなった。君のせいであるはずがない」
「違うよ、ぼくを引き取ったからだ!父さんも母さんもぼくを生かすために死んでしまった!リオだって……ぼくを……っ」
ジョミーはブルーを押しのけようと両手を胸について思いきり突っぱねる。
「行かなくちゃ。ぼくがこのままここにいたら、きっとブルーもシロエも傷つける。父さんや母さんやリオや夫人みたいに、みんな……みんな……っ!」
「ジョミー!落ち着けっ」
逃げ出そうとするジョミーの両手を掴んで後ろに押して強く壁に押し付けた。捩ろうとする手首を握力だけで掴むには、右手の踏ん張りが利かない。ジョミーが逃げようとするので捲れた皮は更に広がり、血がぬめる。
ジョミーの両親と、恐らくその頃の友人か家人か、ともかくジョミーに近しかったのだろう人物の死と、母の死が、ジョミーの中で勝手に結び付けられている。
ジョミーの両親は一体どんな状況で亡くなったのだろうか、母に詳しく聞いておかなかったことが今になって悔やまれた。
いや、過去がどうあろうと、今このとき傍にいるのがブルーであること。ジョミーの心を強く捉えるものを拭い去るために、ブルーに必要なのはそれだけのはずだ。
「ジョミー!頼むから聞いてくれっ」
「いやだ!放して……放せ!」
肩を掴んで揺さぶっても、ジョミーはそれすら跳ね付けようとする。
「聞くんだ!ジョミー!」
頬を掴むように両手で押さえ込み、無理やり上を向かせてその瞳を強く睨みつけた。
ブルーと正面から目を合わせて、ジョミーは硬直したように目を大きく開いて喉を鳴らす。
強い目に射竦められたのか、それともただ驚いているだけなのか、ともかくジョミーが激しい抵抗を止めたことに息をつきながら、ブルーはその瞳を覗きこんだまま目を逸らさない。
「頼むから、母の死を君のせいだというのはやめてくれ」
「でもっ」
「人の死を!」
頬を掴んだ指先に力を込めた。頸部に掛かったそれに、ジョミーの身体が反射のように震える。
「他人の死を、すべて自分の責任だと捉えるのは、傲慢だ」
ある意味では手厳しいことを言うのは少し気が引けた。思ったとおりジョミーの瞳に涙が滲む。
「違う……」
喉が震えたのは嗚咽を堪えたからだ。その震えは首にも回り、ブルーの指先にも伝えた。
「違う……ブルー……そうじゃな……」
「僕は君のご両親や、昔の君の知人のことは知らない。だけど母のことは知っている。母はその死を、君が自分のせいだと嘆くことを善しとはしないだろう。そういう人だ」
「そうじゃない……そうじゃないんだ!」
「ではどういう意味だ!?」
ジョミーの身体が大きく震えた。翡翠色の瞳はこれ以上ないくらいに揺らぎ、色を無くした唇が噛み締められる。
「……そうじゃ……ない……」
顔は掴まれて俯けないけれど、そっと伏せられた瞳がジョミーの心を表しているようだった。
どうしてそんなに頑なに。
ジョミーがそう思い込む理由はわからない。
わからないけれど、ジョミーが出て行くことも、悲しむこともいやだ。
頬を掴むように包んでいた手をそのまま落とし、細い身体を強く抱き締めた。
「どんな意味でもいい。君がいなくなるのはいやだ」
その肩に額を落とすと、息を飲む声が耳に直接伝わる。
「いやだ。君を失うことだけはいやだ。傍にいてくれ、ジョミー……僕の傍にいてくれ……」
「……ブルー」
「君にも僕を傍に置きたいと思ってくれなんて、言わない。君の苦しみを、僕はきっと理解できていないのだろう」
ジョミーを理解できていない、と。自ら認めることは胸が痛む。だがそんなことは、ジョミーをこのまま失うことに比べたらなんてことはない。
「我侭だと軽蔑してくれていい。だがそんな傷ついた顔をしたまま、ひとりになろうとしないでくれ」
わかっていないと思われようと、我侭だと眉をひそめられようと。
ぱたりと布を叩く湿った微かな音。
額を埋めていた肩から顔を起こすと、ジョミーの瞳に大粒の涙が湛えられ、頬を一筋伝い落ちる。ジョミーの服に、ぱたりと音を立てて涙が染み込んだ。
「ジョミー……」
血に濡れた手で掴んだせいで、頬を伝い落ちる涙が途中から赤く滲む。まるで血の涙だ。
両手で頬を拭ってあげたいのに、この手ではますます血を広げてしまう。
ジョミーの頬を両手で包み、吸い寄せられるようにしてその目尻に唇を寄せた。
「ジョミー……」
ただ名前を囁いて、唇で涙を受け止めて拭う。泣き止んで欲しいのと同じくらい、このまま思う存分この腕の中で泣かせたい。
両の目尻を何度も唇で食むように涙を拭いながら、何度も何度もジョミーの名前だけを繰り返した。
「……ブルー……」
ジョミーはそれ以上、出て行くとも残るとも言わなかった。
ただ目を閉じて柔らかな慰めを受け入れ、その手が縋るようにブルーの背中に回り、強くシャツを握り締める。
それで十分だった。






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