「おー、ジョミー。どうした、そんなに慌てて。まだ昼休み時間あるぞ」
「へ、へ、へ……変な男が……」
「え、なに?」
息を切らせて教室に駆け込んできたジョミーに、着替えの途中だったサムが振り返る。
ジョミーは自分の後ろを指差しながら、変な男が出たと言いかけたところで、はたと止まった。
一体、なんと言えばいいのだろう。監視者だとかシンマだとか訳のわからないことを言われて、襲われそうになった相手の武器は、爪。
男の爪が伸びて刃物のようになったところを見たジョミーは信じるも信じないもないが、話だけ聞かされてあんなことを信じられるはずもない。
「………帰る」
「はあ?」
「ごめん、早退する。先生に言っといて」
「え、ちょ、おいジョミー!」
ジョミーは自分の鞄を掴むと、その中に制服を詰め込んで着替えもせずに教室を飛び出した。
あのまま教室にいて、もしもあの男が飛び込んできたらどうすればいいのか分からない。
見た目は人間だったけれど、爪が伸びたことも、あの一瞬でジョミーの前に回り込んだ速さも、到底人間とは思えない。あんなのに人前で襲われたら、なんと言い訳をすればいいのか、それにサムたちを巻き込むわけにもいかない。
「家に帰って……いいのかな………でもどこかに行く当てがあるわけじゃないし……そうだ、目覚めがどうとか……ぼくが14歳になったら何かあるのか?」
だとすれば、明日だ。明日まで時間を稼げばいい。それで事態が良くなるという保証はどこにもなかったが、悪くなるとも限らない。
はっきりしているのは、今のままでは何の対応もできないということだけだった。何しろあの黒ずくめの男の動きはさっぱりジョミーには見えなかった。
「一日くらいなら……鍵を掛けて家に閉じ篭ればどうにかなるかな」


家路の間、途中であの男に襲われることが気がかりだったけれど、家までは何事もなく帰り着くことができた。
「ママ!ママ!」
何をどう説明すればいいのか分からないけれど、家にいたら危険かもしれない。両親にはどこかへ避難してもらいたくて、言い訳の言葉も考えていないのに、家にいるはずの母を捜して駆け回る。だが見つけたのはリビングのテーブルにあった書置きだった。
「『出かけてきます。パパもママも帰りは遅くなるから、先に寝ていてください』。……ママ……遅くなるなら帰らないほうがいいのに」
慌てて携帯電話に連絡を入れてみると、すぐ近くで呼び出し音が鳴る。
「マ、ママ……携帯忘れてる……」
父親の携帯電話に連絡をいれても、空しくコールが鳴るだけで通話にはならない。
「留守電にすらならないよ。どうなってるの?」
イライラと携帯電話をテーブルに置くと、何か武器になるものはと家の中を探してみる。
「包丁……は、逆に危ないかな……あとは、パパのゴルフクラブくらいか……」
考えた末に結局ゴルフクラブだけを手に、手早くシャワーを浴びて汗を流すと、それを抱いて部屋に戻った。
「二人とも……帰りが明日になればいいんだけど……」
不思議なことに、ジョミーは一度も両親に助けてもらおうとは考えなかった。ただ、二人を巻き込むことだけを恐れている。
ベッドに座り、頭からブランケットを被ってクラブを抱き締めた。
「……こんなもんで対抗……できるわけ、ないよな」
溜息が零れるけれど、何も持っていないよりはましだ。
とにかく明日、それが日付を越えてすぐなのかそれとも明日が終わるまでなのか、それどころか本当に明日になればどうにかなるか。
まんじりもせずにベッドの上で、クラブを抱き締めて過ごした。


携帯から流れる着信音で目が覚めた。
目が……覚めた?
「うわ!寝てた!?」
ゴルフクラブを抱き締めて、前のめりに船を漕いでいたジョミーは、こんなときに眠っていた事実に驚いて飛び上がる。その拍子に被っていたシーツがベッドへと落ちた。
慌てて明かりをつけて部屋を見回し、時計に目を留める。
「明日まであと5分……か。これと言って特に何もないよな……そうだ!ママとパパは……っ」
帰っているのだろうかとベッドから足を降ろしたジョミーの後ろから、白い手が伸びて頬を掠める。
「うわーっ!?」
誰もいないはずの部屋で後ろから抱き込まれれば、何もないときにだって悲鳴を上げるだろう。まして、今はよく理解できないことに巻き込まれている。
またあの男かとゴルフクラブを握っていた手を振り回すと、白い手がそれを軽く止めた。
「ジョミー」
「え……あ……」
聞えたのは、あの男の声ではない。
もう一人の、ジョミーを助けてくれたと思われる、銀の髪の青年のものだ。
そろりと肩越しに振り返ると、やはりジョミーを後ろから抱き締めていたのはあの青年だった。
「ど、どこから……っ……って………なんかすごく無意味な質問っぽい……」
「そうだね。僕ら神魔には、人の造りし物への干渉は何の障害でもない」
「し……しんまって、何……?」
後ろから抱き締める手を軽く叩いて、放して欲しいと意思を示してみると、青年はすぐに腕を解いてくれた。やはり、彼はジョミーを助けてくれるつもりなのだろうかと、つい少しだけ安心して吐息を漏らす。
「神魔とは、神であり魔とも呼ばれるもの。人にとっては、ね。人が呼び名を変えるだけで、本来僕らに神聖だとか邪悪などと違いはない。この世界を人に譲り、闇に住まうと決めた人ならざる者たちのことだ」
「え、えっと……?」
分かるような、分からないような、とにかく人間ではないことだけは理解できた。それはもうとっくに理解していたけれど。
だがこの青年が人間ではないというのは、爪が伸びたあの男とは違うところで酷くジョミーを納得させた。
透き通るような白い肌や、美のための計算し尽くされた高い鼻梁を持つ美貌。月の光を集めて染め上げたような銀の髪も、ルビーを溶かしたような赤い瞳も、すべて人ではないと言われたほうが自然なほどだ。
ベッドに手をついて青年と向かい合うように座り直すと、握っていたゴルフクラブは横へと置いた。
青年がそれを見て、目を細める。
「君はその監視者の血を引く」
「ぼく?で、でも、ぼくはそんな大それた事なんて」
「目覚めていないだけだよ。神魔をみな、闇に沈め、僕らが人の世に出てこぬようにと見張りをする」
そんなことを急に言われても。
眉を潜めて、ジョミーは恐る恐ると青年を伺った。
「人違いじゃ……なくて?」
「……そうだったら、どんなによかったか」
青年の目が時計に向いた。
「もうすぐ君は14歳になる」
「う、うん……そう、だけど」
「この世界に存在してよい神魔は、君たちの一族と、門番としてこの世と闇の狭間にいる長だけだ」
「じゃ、じゃああなたはその長なの?」
だから助けてくれたのかと、青年ににじり寄ると、悲しげな笑みを返された。
「違うよ」
「え、だって……」
「それ」
青年は白いグローブを外しながら、ジョミーが傍らに置いたゴルフクラブを指差した。
「君の武器ではなかったのかい?」
「う……こ、こんなので昼間のあいつに対抗できるとは思わないけど、でも何もないよりはマシかなって」
「どうして手放したんだい?」
グローブを外した手が、ついとジョミーの首に掛かった。
「え……?」
ひやりと冷たい指がジョミーの首に絡みつく。
「たとえどれほど無力なものでも、狩人の前で武器を手放すのは愚かなことだ」
「ど………いう……こ……」
喉に掛かった指に、力が篭る。
「初めに会ったときに、こうしておくべきだった。……こうするつもりだったんだ」
「待っ………」
赤い瞳は、痛みに耐えるように細く歪められた。
「滅びよ、監視者の血」






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