「いいこと、ジョミー。知らない人に声をかけられてもついて行ってはだめよ」
広く長い廊下を走りながら、ジョミーは母からの教えを思い出して涙を滲ませた。
マムはいつも正しい。
綺麗な人だった。優しい声で誘ってくれた。
空を飛ぶなんて素晴らしいことができる人に憧れた。それもある。
だがジョミーがあのとき、あの手を取ったのは、少年に促されて見上げた空の青に魅入られたからだ。見ていると何故か涙が零れそうになる、突き抜けるような青。
「どうしよう」
必死に廊下を走りながら、ジョミーは後ろを返り見た。
あの少年が後を追ってきているという、心配していたような事態にはなっていない。
だが、代わりに見たことも来たこともない知らない場所で、ただ一人きりだ。
「どうしよう、どうしようマム」
どうやったこの空飛ぶ船から逃げ出すことができるのか、答えの出ない深刻な悩みに泣きたくなって、ぎゅっと唇を噛み締める。
ひたすらに走っていた足は、早歩きのように、それから歩く速度に、足を引きずるようにと段々と速度を落としていき、とうとう立ち止まったときには顔を上げることすらできなくなっていた。
「マム……」
我慢しようとしていた涙が滲み、ぽたりと一粒廊下に零れ落ちた。床に当たって弾けた雫に、耐え切れなくて膝を抱えてしゃがみ込んだ。
「マム……パパ……どこ……?帰りたい、帰りたいよ……」
疲れと空腹と、知らない場所で一人ぼっちの恐怖に、涙はひたすら流れ続ける。
あの少年と歩いている間は何人かとすれ違ったはずなのに、今は長く広い廊下に一人きり。
しゃくり上げる声が金属で作られた廊下に反射して、ジョミーはますます声をくぐもらせた。
そうして、泣きながらそれでも立ち上がってとぼとぼと歩き出す。
泣いてうずくまっていても誰も迎えにきてはくれないのだとわかっているから。
ここがアタラクシアだったら、必ず誰か大人が助けてくれる。それは母であったり、学校の教師であったり、とにかく泣いている子供は大人が保護してくれる。
だがここは空飛ぶ船の上で、いくらジョミーのマムでもこんなところにまでは迎えに来れない。
鼻をすすりあげ、両の拳で後から後から流れ出る涙を拭いながら、重い足を引きずるように前へ進める。その先に帰る手段があるかどうか、そんなことを考えるほどの余裕は無い。ただ、うずくまって泣いていても何一つ解決しないとだけ、それだけだ。
だが足は重い。
歩いては立ち止まり、また歩き出して立ち止まり、それを繰り返しながら廊下の端までたどり着いたジョミーは、突き当たりの大きな扉の前に出てそれを見上げた。
ごしごしと拳で涙を拭い、濡れた掌を扉につける。
「ここから帰れるのかな」
この大きな扉を開けることができたなら、うちに帰れるかもしれない。
何の確信でもなくただの願望にすぎない思いのまま、扉を開けるパネルを探して扉の周りをうろうろと右往左往する。
「帰りたい、帰るんだ」
扉のパネルは見つけた。見つけたけれど操作の方法がわからない。
アタラクシアの自宅のパスキーは反応するはずもないし、精一杯背伸びをしてパネルに手をつけても何の反応も無い。
「何かパスワードがいるのかな」
だとしたら絶望的だ。知らない場所で知らない人しかいない船で決められたパスワードなんて想像しようもない。
それでもどうにかしようとデタラメにパネル横のキーを押し続ける。
「ジョミー」
背後から聞こえた声に、ジョミーは鋭く振り返った。


いつの間に追いついたのか、ジョミーをここまで連れ去った銀色の髪と赤い瞳の少年が、右手を差し出してくる。
追いつかれたと思うとゾッとするほど恐ろしいのに、心のどこかで少しだけ安心している。
少年から逃げ出して今まで、誰一人として会えなかった。
まるでそれまですれ違った人たちなんて、本当は存在しなかったかのように。
あの少年までも、幻だったかのように。
少年が現れて、それはただの恐れからくる空想だったのだと、ほっとしてしまう。
「もう疲れただろう。部屋へ行こう。君の部屋はまだ用意していないから、しばらくは僕と一緒に暮らすことになるけど……」
「いやだ!ぼく帰る!」
「……すまないジョミー。だけど君は帰れない。もう帰れないんだ」
「うそだ!ぼくは帰る!ここから帰るんだっ」
後ろの扉を叩いて叫ぶジョミーに少年は困ったように微笑んだ。
「ジョミー、そこはただの記憶再生装置がおいてあるだけの部屋だよ。開けても外に通じる場所は無い」
「そ……」
元よりなんの確証があったわけではないが、今の唯一の希望としてすがり付いていた扉の向こうを否定されて、ジョミーは青褪めて後退りした。すぐに背中が扉にぶつかる。
「そんなの、うそだ!」
「確かめてみるかい?」
少年が一歩踏み出しながら手を伸ばして、ジョミーはぎゅっと目を閉じて身を縮めた。
その手は恐れていたようにジョミーを捕まえようとはせず、少年が言ったとおりに扉の操作パネルに触れた。
顔を上げたジョミーがパスワードを覚えておこうと指とパネルを見つめていると、少年は小さく笑って頷いた。
「なるほど、ジョミーは賢い」
気づかれたかとギクリとしたジョミーに、それを気にした風もなく少年はキーを押して扉のロックを外した。
後ろの扉が人の接近を察知してすぐに開く。
ジョミーは一縷の望みに掛けるように振り返って、暗い室内に愕然として廊下に膝を付いた。
明かりをつけていない室内には、なにか大きな機械が置かれているだけだった。そのどこにも、開いたこの扉以外の扉は見えない。
「……納得したかい?」
絶望にただ呆然とするしかないジョミーは上から聞こえた声に、ゆっくりと首を巡らせた。
少年は困ったような表情で、またジョミーに手を差し出している。
「さあ、もう行こうジョミー」
「うるさいっ!」
差し出された手を弾いて、勢い良く立ち上がると赤い瞳をまっすぐに睨み付ける。
「ぼくは帰るんだっ」
「君のミュウとしての力は、もう目覚めつつあった。あのままアタラクシアにいては君が危険なんだ」
「知らない!そんなの知らない!マムのところに帰して!」
攻撃的な意識をそのままに、少年を怒鳴りつけた。
怒鳴りつけただけだ。それなのに、少年との間に強い反発が起こったかような衝撃があって、ジョミーは後ろに弾かれて尻餅をつく。
「な……」
「今のは思念波による、君の攻撃。君の力を僕が弾いた。それだけだ」
「な……なんだよそれ!」
手で触れなくても突き飛ばせるなんて反則だ!
座り込んだ床から跳ねるように立ち上がったジョミーに、少年は楽しそうに笑う。
「反則と言われても。そもそも攻撃を仕掛けたのは君で、僕は弾いただけだと言っただろう?」
「え……!」
今、ぼくは口に出して言った?
「いいや。今も君は心の中で疑問を持っただけだよ」
ジョミーは慌てて両手で口を塞いだ。そうだ、最初にあったときも少年はジョミーが頭の中で考えただけの疑問に答えたではないか。
「口を塞いでも、心の声は漏れてしまうよ。おいで、ジョミー。力の制御を覚えよう」
「い……」
「嫌ならそれでも構わない。僕を右足で蹴って、脇を通り抜けて逃げるつもりだね?」
右足を振り上げかけていたジョミーはぎょっとして少年を見上げた。
やっぱり考えをすべて読まれている……だとすると。
「そう。君に逃げ出す術などない」
「か……勝手に見るな!」
「見たくて見ているわけじゃない。君が流しているのさ」
少年はゆったりとした余裕の笑みを見せている。その笑みのまま、再び右手を差し出した。
「おいでジョミー」
優しい人だと思っていたのに。
「さあ僕の部屋へ行こう。僕はブルー。ソルジャー・ブルーだ。よろしくジョミー」
少年の右手を払いのけて、ジョミーは悔しさに浮かびそうになった涙を堪えながら少年を睨み付ける。
「ジョミー・マーキス・シン」
誰がよろしくなどするものか。
すでにジョミーの名前を知っているとわかっているけれど、そんな人の心を覗く力になんて負けるものかと意志を込めて名前だけを名乗り返したのに、ブルーは楽しそうに笑った。







BACK お話TOP NEXT



とりあえず出会い編終了。
ジョミーは必死ですが、ブルーも必死。
この先の二人が家族的触れ合いになるか、
光源氏作戦になるかまだ未定です。
(それ以前にまだ険悪すぎる……)