リオが着替えを取りに部屋を出て、ブルーと二人きりになったジョミーは、律儀にリオの言い付けを守って、ブランケットに包まったままじっとベッドに座っていた。
ブルーの存在は考慮に入れないというでもいうように、まったく無視をして口も利かないし視線も向けない。
けれど目を向けなくても、ブルーがこちらを見ている視線は感じていた。ベッドの支柱に軽く背中を預け、腕を組んでジョミーを見ているだけで、ブルーからも何も言ってこない。
いっそ出て行けばいいのに。背中を丸め膝を抱えて小さくなって緩く前後に揺れて手持ち無沙汰な気まずさを誤魔化した。
リオ、早く帰ってこないかな……。
抱えた膝に顎を乗せ、拗ねたように唇を尖らせて出て行ったばかりの青年の帰りを心待ちにしていると、ジョミーの腹が盛大な音を立てて空腹を主張した。
静寂な部屋なだけにこんな音もよく響く。一拍の間を置いて、ジョミーの頬がかっと赤く染まる。
昨夜はろくに食べておらず、今朝も何も口する前に医務室に駆け込んだ。空腹なのは仕方ない。それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
せめてこれで一緒にいる人がリオだったら、笑って済ませて食事にできたけれど、今この部屋にいるのはブルーだけだ。大したことではなくても、弱みを見せたような気になって唇を噛み締めて抱えた膝に顔を埋める。
「……ジョミー。リオを待っている間に食事を取っておくかい?」
膝に顔を埋めたまま、返事を返さない。
衣擦れの音が聞こえて、ベッドのスプリングが僅かに沈んだ。近くに感じる人の気配と相まって、すぐ傍にブルーが腰掛けたのだとわかる。
「リオが用意してくれている。すぐにでも食べてしまいなさい」
「………いい」
「空腹を我慢することはよくない。しっかり食べないと大きくなれないよ?」
「……お前が何を言ったって、ここから出るなってリオが言ってた」
「それは君が風邪を引くといけないからだ。トレイをこちらに運んであげるから……」
「いらないって言ってるだろ!」
根気強く声を掛けてくるブルーに、ジョミーは癇癪を起こしたように俯けていた顔を上げてブルーを睨み付けた。
思ったよりもすぐ傍に腰掛けていたブルーとの距離は、大人の拳の二つ分くらいしか離れていなかった。おまけに少し腰を屈めて、俯いたジョミーの表情を少しでも伺おうとしていたので余計に近い。
すぐ傍で、ブルーの赤い瞳が僅かに傷ついて揺れたように見えて、ジョミーも動揺してしまう。
だがその瞳が揺れたのはほんの一瞬のできごとで、一度瞬きするとその瞳からはもう何の感情も読み取れなかった。
「………そうか」
ブルーが一言呟くと、それっきり再び沈黙が降りる。
皺の寄ったシーツを睨み付けるようにブルーから視線を逸らしたジョミーは、その一層居心地の悪くなった空間に、ブランケットの下で身じろぎした。
優しい笑顔の青年を思い浮かべて、早く帰ってこないかなと再び思うのとほぼ同時に、回廊の先の部屋の扉が開いた。
『ジョミー、お待たせしま……した?』
丸くなって俯いたジョミーと、その傍に腰を降ろしていながら半ば背を向けるようにして床に視線を落としていたブルーに、リオは首を傾げながら水に挟まれた回廊を降りてくる。
それと入れ替わるようにブルーが立ち上がった。
「リオが戻ってきたから、もう行くよ」
ジョミーに声を掛けたようで、けれどこちらを見てはいなかった。だからジョミーも何の返答もしない。
実際には聞こえなかったはずの溜息を聞いた気がして顔を上げたけれど、ブルーは既に藤色のマントを翻して扉の方へ歩き出していた。
『ソルジャー』
「長老たちを待たせている。ジョミーのことを、くれぐれも頼む」
静かな靴音だけを残して部屋を後にしたブルーの背中を見送って、リオは困ったような表情でベッドの傍まで近づいた。
『ソルジャーと喧嘩でもしましたか?』
「喧嘩なんて!」
リオは叱っている口調ではなかったけれど、怒られたような気になってジョミーはふいと顔を逸らした。
「喧嘩なんてしてない」
嘘ではない。ブルーが一方的に何かを話してきて、ジョミーはそれを退けた。
それだけ。
あんなものは喧嘩とも呼べない。もっと不愉快な、別の何かだ。
一瞬だけ、傷ついたような様子を浮かべた赤い瞳。
そうだ、あの赤い色のせいでまるで泣いた後のように見えて、それで驚いてしまったんだ。
「……大体ぼくは騙されて連れてこられたんだ。ぼくの何が悪いって言うんだ」
ぶつぶつと小さく呟いて悪態をついていると、再び腹の虫が盛大に鳴った。
赤面したジョミーの耳に、リオの小さな苦笑が聞こえる。
『話は後にして、食事にしましょう。まずは着替えですね。大きいでしょうけれどこれを着て』
リオは深草色のセーターをベッドの端に置いて、ジョミーを包んでいたブランケットを剥いだ。
『はい、両手を上げて』
言われるままに両手を上げると、そのセーターをすっぽりと被せられる。
袖を通して襟元からから顔を出したジョミーは、僅かに頬を膨らませた。
「ぼく一人でも着替えられるよ」
『おや、そうですか?すみません、つい』
にこにこと笑顔で楽しそうなリオを見ていると、小さな子供扱いをされた不満を持っていることが馬鹿馬鹿しくなって、ジョミーは軽く息を吐いた。


リオのセーターはやはりかなり大きくて、袖は折ってもらってどうにか手を出すことができたものの、肩が落ちてしまうのはどうしようもない。
ずり下がるセーターの肩口を上げながらテーブルについて、ジョミーはようやく食事にありつくことができた。起きてから間を開けたせいでシリアルでは物足りないくらいだ。
リオはくすくすと笑いながらグラスにミルクを注ぐ。
『足りなければ、もう少し何かもらってきますよ?』
恐らく心を読まれたのだとは思うけれど、ブルーに心を読まれたと思ったときのような不快感はなかった。それが少し不思議でジョミーはスプーンを咥えたままリオを振り仰ぐ。
印象の深いブルーの赤い瞳の強い視線と比べて、リオの胡桃色の瞳はどこまでも柔らかく優しい。
『ジョミー?』
首を傾げたリオに不思議そうに呼び掛けられて、じっと凝視していたことにようやく気づいたジョミーは慌てて瞬きをして脳裡に浮かんだ赤い瞳を思考の端に追いやった。
「リオは?リオは朝ごはん食べないの?」
『私はこちらに来る前に先にいただきましたので』
「……そう……」
咄嗟に言ったことだったけれど、一度口にしてみると一人きりの食卓が急に味気なく感じた。
ジョミー、早く食べちゃいなさい。学校に遅れるわよ。お野菜を残しちゃだめよ、大きくなれないわ。
平日は一人で慌てた朝食になることも多かったけれど、休日ならパパも揃っていることも多かった。
テーブルの向こうに、大好きな人の面影を追ってしまうと、じわりと涙が滲む。
『ジョミー!?』
スプーンを手にしたまま、はらはらと落涙するジョミーに、リオが慌てて上擦った声を上げる。
『どうしました、どこか痛むのですか?』
ジョミーはスプーンを握った手で涙を拭いながら、首を振ってもう一方の手でリオの服を掴んだ。
「リオ………ぼ…ぼく………か、かえ……」
帰りたい。
泣いたって仕方がない、自分で帰り着かなくてはと思っていたのに、一度泣き出すと涙が止まらない。
ブルーの前では意地でも泣くものかと思っていたのに、決意は簡単に崩れてしまう。ほんの少し、優しいあの空間を思い出すだけで、こんなにも容易く。
「うちに、かえ………帰り、た……」
『ジョミー……』
ジョミーの座る椅子の傍らに膝をついたリオは、止まらない涙を拭うジョミーを下から覗き込む。
俯いたその手を掴んで、乱暴に涙を拭うことを止めさせると、小さな肩に手を回してそっと抱き寄せた。
『涙を堪えなくても、いいんですよ』
抱き寄せられて、背中に暖かな手を添えられる。そっと優しく宥めるように、促すように背中を緩やかに撫でられて、涙がますます零れた。
「う………ふ…ぇ………マム……パパ……っ」
リオの肩に涙が染み込むことはわかったけれど、涙が止まらない。
『すみません、ジョミー…………すみません』
リオは何度も謝りながら、ジョミーの涙が止まるまで優しく背中を撫でる手を止めることはなかった。


「……ごめんなさい、リオ。肩がびしょびしょになっちゃった……」
鼻をすすりながら、真っ赤になった目を擦ろうとした手はやっぱりリオに止められた。
ジョミーの手首を掴んで擦ることを阻止したリオは、そっと指の腹で優しくその目元を拭って微笑んで首を振る。
『気にしなくてもいいんですよ。涙を堪えなくていいと言ったのは私です』
「うん……ありがとう。でも、ごめん」
どうしても謝らずにいられない心情を察してか、リオは苦笑してジョミーの頭を撫でた。
「……ごめんね……リオ……着替えてきた方がいいんじゃない?」
濡れた肩を軽く摘んで言ったジョミーに、リオは笑って首を振った。
『大丈夫ですよ。私たちの服は通気性にも撥水製にも優れてしますから、これくらいなら軽く拭って置けばすぐに乾きます。だから気にしないで』
頭を撫でる大きな手が温かくて、ジョミーは泣いたばかりではなく頬を赤くして俯いた。
『ほら、顔を上げてジョミー。朝食はどうします?少し間を空けますか?』
リオはジョミーの両手を取って、膝の上に乗せながら下から覗き込んで首を傾げる。
泣いたばかりでは食べる気になれないかという気遣いなのはわかったけれど、ちょうどそのときジョミーの腹がまた鳴った。
ジョミーとリオは顔を見合わせて、そして同時に小さく吹き出す。
「ううん、食べる」
『そうですね。しっかり食べて力をつけないといけませんね』
膝に揃えた小さな手の甲を軽く撫でてリオが手を離すと、ジョミーはテーブルに向き直ってスプーンを握った。
「そうだ、リオ。ぼく何かデザートも食べたい。フルーツでもケーキでもいいから」
『わかりました。食欲が出るのはいいことですね。では何かデザートをもらってきますから、あなたは食事を続けていてください』
床についていた膝を伸ばして立ち上がると、リオは嬉しそうに微笑んでジョミーの頭を撫でてから食堂に向かうべく踵を返す。
ジョミーは撫でられたところを自分の手でもう一度撫でて、リオの優しい暖かさに目を閉じた。
帰りたいと泣いたとき、リオはジョミーの背中を撫でながら何度も謝っていた。
泣き止ませるためにですら、帰してあげるとは一度も言ってくれなかった。
ならばリオに訊ねても、帰り方を教えてはくれないだろう。
部屋の扉が閉まってリオが出て行くと、ジョミーは急いでシリアルをすべて口の中に掻き込んだ。泣いていた名残でシリアルはお世辞にも美味しいとはいえない味になってしまったけれど、しっかりと噛み締める。
この部屋から食堂とやらまでの距離がどれほどあるかはわからないけれど、今出て行ったばかりなら少しは時間があるだろう。
グラスのミルクも一気に飲み干して、口の中をすっかり空にすると椅子から飛び降りたジョミーは扉に向かって走り出す。
リオが帰ってくる前に、この部屋を出てできるだけ遠くに離れる。
リオは優しくしてくれたけれど、それでもジョミーを帰してくれるとは言ってくれない。
だとしたら、この船で他にジョミーを助けてくれる人がいるとは思えない。
「ぼくはうちに帰るんだ」
部屋の外に出れば、あの恐いおじさんがいるかもしれない。そう思うと竦みそうになる足も、脳裡に浮かぶ両親の姿に勇気付けられる。
どうにかして帰り方を自力で見つけなければと決意を新たにジョミーは、大きなセーターに足を取られながらも廊下へ飛び出した。







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ジョミー、脱走。
ハーレイ効果も一日と持たず(^^;)