あのほとんど物の無い無駄に広いとしか思えなかった部屋から飛び出したジョミーは、なるべく人と接触しないようにと気をつけて廊下を移動していた。 人影が見えると、慌てて引き返したり物陰に隠れたりしてやり過ごす。 実際は、ジョミーの隠すことのできない思念が溢れていて、近くにいた人々にはとっくに居場所など知られていたのだけど、そこは子供の思念。隠れなければ、見つからないようにしなくては、の意識に何かの遊びなのだろうと微笑ましく見ない振りをしていただけなのだが。 もしも漏らした思念にソルジャー・ブルーへの不審や疑念が混じっていれば即座に捕獲されたに違いないが、人の接近のたびにジョミーの思考は隠れることで一杯だったことが幸いした。 そうとは知らないジョミーは、ここまで誰にも見つからずに移動できたことにほっと胸を撫で下ろして廊下の分岐点で立ち止まった。 人の少ない方へ少ない方へと歩いていた。はたしてこのY字路の右と左、どちらのほうがより人の少ない場所に繋がっているだろう。 じっと通路の先を見据えて考える。あの飛び出してきた部屋が船のどの辺りに位置するかも、この船の構造も、すべて知らないのだから考えても仕方がないのはわかっているけれど。 窓のない、人工灯に照らされた廊下を見比べると、不思議なことに右からは楽しそうな声が聞こえた気がした。 子供の声だった。ちょうどジョミーくらいの子供だろうか。 もう一度耳を澄ましてみても、声など聞こえない。 気のせいだったのかと、左の道を行こうとしたジョミーは、一歩踏み出したところで考える。 優しいリオでも家に帰してくれないのなら、大人は信用できない。けれど子供なら、どうだろう。 アタラクシアの友人を思い浮かべる。公園の端に作った基地や内緒の話。大人には決して漏らさない秘密を共有できるのは、やはり同じ年頃の友人同士だけだ。 人気のないほうへと逃げ続けていたジョミーは、ここで初めて人の気配がした気がしたほうへ足を踏み出した。 気のせいなのか、本当に何かを感じているのか、自分でもよくわからないまま不安を抱えて廊下を歩いていたジョミーは、耳で捕らえた子供のはしゃぐ声に表情を輝かせた。 本当にいた。人だ。子供の声だ。 前方に見える大きな扉の向こうから聞こえる。 駆け出したジョミーは、けれど扉が近づくにつれて速度を落とした。 扉の向こうがどうなっているのはわからないけれど、子供がいるからといって子供だけとは限らない。大人もいるかもしれないことを失念していた。 引き返すべきだろうか。 進んできた廊下を振り返る。 けれど、扉の向こうから聞こえてくる楽しげな声に後ろ髪を惹かれそうになる。 「だめだ」 ジョミーはぎゅっと強く目を瞑って首を振った。 大人に見つかって、あのブルーの元に連れ戻されたら大変だ。せっかく優しいリオを騙してまで抜け出した意味が無い。 やっぱりあの分岐点まで戻って左の道を行こうと足を踏み出したときに、背後で扉が開いた。 「やっぱり誰かいるよー」 「あ、本当だ!」 ぎょっとして振り返ると、楽しげな声の聞こえていた部屋の扉が開いて、ジョミーと同じ年頃の子供が二人、ひょっこりと顔を出している。 見つかった! 逃げるべきか、それとも子供だけなら話をしてみるべきか。 迷って足が動かない間にも、二人の子供が駆け寄ってくる。 茶色の髪の優しそうな子と、金の髪の快活な笑顔の女の子が二人。 「ねえ、あなたどうしたの、なんだかとっても寂しそう」 「おかしな格好しているのね。とにかく一緒に行きましょうよ」 「え、あの……」 左右に回った女の子たちは、戸惑うジョミーの両手を取って出てきた大扉の方へと歩き出す。 「あなた、初めて見るけどもしかしてここには来たばかり?」 「ヒルマン先生から紹介されていないんだからそうでしょう?」 左右から同時に話し掛けられて、ジョミーは引きずられながら途方に暮れた。アタラクシアにいた女の子の友達は、こんなに強引だったことはない。 「まあ、失礼しちゃう!強引だなんて、寂しそうだったから声を掛けてあげたのに」 「そんなこと言ったら可哀想よ、ニナ。この子、とっても不安がってるわ」 ジョミーは眉を寄せて唇を噛み締める。 心の中を読まれることは初めてではないけれど、やはり慣れないし、気持ちのいいものではない。 不愉快ながらもどうしていいのかわからず、引きずられるようにして足を踏み入れた大扉の向こうの風景に、ジョミーは息を飲んで大きく目を見開いた。 一面に広がる青い芝生、並んだ幾つかの木。船の中のはずなのに。まるでアタラクシアの公園の一角のような風景。 唖然としてその光景を眺めるジョミーに、二人の女の子は楽しそうに顔を見合わせてそのままジョミーの手を引いて歩く。 中で遊んでいた他の子供たちが、仲間が連れている見たこともない子に気がついてわっと駆け寄ってきた。 「ニナ!カリナ!その子だれ?」 「知らないわ。廊下で一人で立っていたから連れてきたの。きっと新しい仲間よ」 「へえ……それにしてもそれ人間の服?変な格好!」 「おかしな格好!ぶかぶかね」 「ぶかぶかだ、おかしな格好だね」 次々と声を掛けられて、ジョミーは戸惑って周りを見渡した。 戸惑いながらも、公園のような室内に大人がいないことにほっとする。 「どうして大人がいると駄目なの?」 茶色の髪の、右手を掴んだ女の子が首を傾げて、ジョミーはかっとなってその手を振り払った。 「勝手に人の心を読むなよ!」 振り払われた女の子も、左手を掴んだままの女の子も、周りに集まってきた子供たちもみんな驚いたように目を丸める。 ジョミーははっと口を押さえて息を飲んだ。 この船から出て行く方法を聞かなくてはならないのに、そんな相手を邪険にしてどうする。 けれど子供たちは、気を悪くしたというより、ただ首を傾げた。 「だったら、思念を塞いじゃえばいいのに」 「勝手に聞かせておいてそれはないよなー」 「ねー?」 「なんだよ、それ!」 かっとなって叫んだジョミーは、思い出したくもないのに、ブルーのことを思い出す。 逃げ出す方法を探すジョミーの考えを口に出して披露して、かの少年は綺麗な顔にいっそ意地が悪いというほどの余裕の笑みを見せて、ジョミーに手を差し出した。 「見たくて見ているわけじゃない。君が勝手に流しているのさ」 そう、言って。 ぎゅっと唇を噛み締めて、悔しさを噛み砕こうとしたその瞬間、周りにいた子供たちがわっと歓声を上げた。 「ソルジャー・ブルーにもう会ったの!?」 「いいな、いいな!ソルジャーは忙しいから、なかなか会えないのに!」 ジョミーの記憶を読んではしゃぐ子供たちに、ジョミーは驚いて目を瞬いた。誘拐犯の男がここではとても人気者らしい。 あんなにひどいやつなのに、どうして。 「まっ!ソルジャーがひどいなんて、なんでそんなひどいこと言うの!」 ジョミーの左腕を抱きこんでいた金の髪の女の子が悲鳴のような声を上げて足を踏み鳴らす。一斉に、周りの雰囲気が険悪になって、気圧されそうになったジョミーは、それに負けじと同じように足を踏み鳴らした。 「ひどいからひどいって言ったんだ!だってあいつは無理やりぼくを……!」 ここまで連れてきた。 そう言おうとしたのに、その瞬間に言葉に詰る。 薄桃色の花びらがたくさん舞い散る中、綺麗な藤色が風に棚引いて、美しい赤い瞳が優しい色を宿して、まっすぐにジョミーに向けられた。 「大空へ散歩に行ってみるかい?」 差し出された手を握ったのは、ジョミーの意思だ。 「ほら!ソルジャーはひどくないじゃない!」 またもジョミーの記憶を見たらしい金の髪の女の子が勝ち誇って指を差したが、他の子供たちは顔を見合わせた。 「今の、どこ?……地上……公園……ソルジャーが下へ降りたの?」 切りそろえた前髪を揺らして茶色の髪の男の子が呆然としたように呟いて、勝ち誇ってジョミーを責めたはずの女の子もはっと口を押さえて息を飲む。 「どうして……ソルジャーは忙しいから、下には降りないって……」 騒がしかった場に、戸惑いの沈黙が下りたのはほんの僅かの間だった。その僅かな間が崩れる前に、大きな思念の声がジョミーの頭に直接響いた。 『ジョミー!』 知っている大人の声に、ジョミーはぎくりと肩を震わせる。 『ジョミー!やっと見つけましたよ!』 駆けて来る足音に振り返ることができなくて、ジョミーは前にいた男の子を突き飛ばす勢いで横に押しのけて走り出す。 どこをどう逃げるかなんて算段もつかないけれど、とにかくリオに捕まりたくない。 でたらめにでも走って、リオの手をすり抜けて逃げようと広間の奥へと走ったジョミーは、近づいた木の向こうに別の扉を見つけた。 「やった!あそこから出て―――」 扉のロックが掛かっていないかということだけが不安だったけれど、パネルに飛びついたジョミーは、何の抵抗も無く開いた扉にほっとして―――すぐに硬直した。 視界一杯に藤色が広がったと思うと、ふわりとその中に包み込まれる。 「やあ、ジョミー。逃げ出すなんて悪い子だ」 開いた扉の先に、一番会いたくない少年が立っていた。 リオに手を繋がれて、元の部屋へと連れ戻される道すがら、ジョミーは深く溜息をついた。 家まで帰り着くつもりだったのに、なんと短い逃走劇だったことか。 けれど溜息の原因はそればかりではない。 ジョミーを抱き留める形で捕獲したソルジャー・ブル―は、あっという間に歓声を上げた子供たちに囲まれた。 「ソルジャー!お仕事はいいの?」 「ソルジャー、その子ひどいんだよ、ソルジャーのこと悪く言うんだ!」 ソルジャー・ブルーの登場に喜ぶ声と、そのソルジャー・ブルーを悪く言ったジョミーを責める声が半々だ。 彼は笑って、子供たちと一緒に追いついたリオにジョミーを引き渡した。 「リオ、ジョミーを」 『はい』 そうしてジョミーは息を切らせたリオに手を引かれて広間から連れ出された。 広間を出る直前、振り返ったときに見た光景……子供たちに囲まれて優しい笑顔で小さな頭を撫でているブルーの姿が、ひどく印象的だった。 『ジョミー、あなたにも色々と思うところがあるでしょうけれど、もう誰にも何も言わずに一人で部屋を出てはいけませんよ』 約束できかねることだったので、ジョミーは頷くような角度で首を前に倒して無言を貫いた。けれど子供たちでもジョミーの心を読めるのだ。リオが読めないはずも無い。 頭上から大きな溜息が聞こえて、繋いでいた手が離れた。 ジョミーがリオを見上げるより早く、リオのほうがジョミーの正面に回ると膝を付いて目線の高さを同じくする。 その表情は、予想に反して怒りではなく悲しみに近い心配に満ちていて、ジョミーは驚いて息を詰める。 『このシャングリラには、危険な場所もたくさんあるんです。エンジン動力炉や、対空砲設備施設、他にも何でもないような部屋でも、子供が入ってくることを想定していない部屋には、子供には危険なものも放置されていることもあります』 誘拐犯の仲間なのに、リオの声にも表情にも、ジョミーの身を案じている様子は偽り無く。 頭ごなしに叱られるだけなら、形だけも頷いて心では舌を出せる。ここではその内心が知られてしまうのだとしても、とにかく反省なんてする気にもなれない。 けれどジョミーのことを心底心配したからこそ諌められると、途端に強く跳ね除けることができなくなる。おまけに、リオは騙して隙をついたことについては、一言も怒らなかった。 それを「ジョミーにも思うところがあるだろう」と言って。 「……ごめんなさい……」 抜け出さないとはどうしても約束できなくて、けれど口先だけのことをリオには言いたくなくて、俯いて小さく呟くようにせめて謝罪を告げる。 リオは少しだけ悲しそうに眉を下げたけれど、ジョミーの小さな身体を抱き寄せてその背中を軽く叩いた。 『約束して欲しかったのですけれどね………仕方ありません。あなたから決して目を離さないように努力しましょう』 監視体制が厳しくなるのは困るけど、何事も無理強いをしないリオの言葉は嬉しかったし、とても申し訳ない気持ちになった。 リオは、ずっとジョミーに優しかった。ハーレイと呼ばれた恐いおじさんや、ジョミーを騙してここまで連れてきたブルーとは違う。 ブルーとは違う。 ……本当に? リオの肩に手をついて、抱き寄せられた身体を離しながら先ほどの光景を思い出す。 優しい笑顔で、子供たちの頭を撫でていた。 騙されたことばかりに腹を立てていたけれど、この船に連れて来られたとき、まだ何も知らずにはしゃいでいたジョミーにあの少年は謝罪ばかり口にしてはいなかっただろうか。 いや、違う。謝罪なんて聞いたはずがない。 でも、どこかで覚えている。 「すまない、ジョミー……君を選んで」 聞いたはずは無い。なのに、心がブルーの声の謝罪を覚えている。 どうして。 リオに手を引かれて再び歩きながら、ジョミーは昨日の出来事を思い出そうと努力する。 けれど記憶のどこにも、そんなことを言われた覚えはない。忘れているだけなのだろうか。 いや、もし忘れているだけで謝られたからといって、ジョミーが家に帰れない事実にはなんの変わりもない。 変わりは、ないのに。 「………あいつ」 『はい?』 「あいつだよ……ソルジャー・ブルー。………一体、どんな奴なの?」 ジョミーが帰してもらえない事実に変わりはない。 同時に、まだ何も知らなかったジョミーを抱き締めたときの幸福そうなあの笑顔も、もっと穏やかな笑顔で子供たちの頭を撫でていた姿も、すべて彼のものだ。幻想ではない。 ジョミーは激しく首を振って、リオを見上げる。繋いだ手から、なぜかリオの嬉しそうな気持ちを感じた気がして、どうしてもそれを否定しておきたかった。 「か、勘違いしないでよ!ぼくが家に帰るには、あいつをどうにかしなくちゃいけないってわかったから、だから……っ」 『ソルジャーのことは、きちんとソルジャーとお話をして、ジョミーが判断するべきだと思いますよ?』 私が何を言っても、あなたはどうせ話半分にしか聞いてくれないでしょう?と微笑むリオに、リオからも子供たちのように、ブルーに関して誉め言葉しか聞けないのだろうことは十分にわかった。 |
思念で居場所がバレるので早々に捕獲されました。 子供たちとのファーストコンタクトはちょっと 険悪になってしまいましたが、 子供同士だからこそ挽回も早くにできるかと。 |