思念という代物は実に便利だ。
情報を流す側と受け取る側の双方にその気があれば、必要な情報を、必要なときに、過不足なく相手に伝えることができる。言葉ではなく想いを交し合うゆえに、受け取り方の差異による行き違いというものも少ない。
ゆえにこのシャングリラがその名を付けるよりも以前の、まだ人類から船を奪取して逃亡生活を始めたばかりの頃、セクションごとの役割分担すらもはっきりと定められていなかったこともあって、情報は思念で交わすことが常識で報告書、あるいは連絡帳と呼ばれるものは存在しなかった。
言葉を使うより思念のほうが早いし間違いもない。
情報の交換に関してのみ言えばそれは正しい。
しかし思念は想いの力だ。記憶と記録は違う。
事変のどさくさで手に入れた船は手を入れるところが多く、問題が発生することも当初は少なくなかった。改造を施していくので余計にだ。
原因の究明に際して「記録」が残っていないことは非常に不便だということを、そのことで知った。それに思念は「記憶」であるから、主観が入る。客観性が足りないということが弊害になることもあるのだとも知った。
失敗から学んだ初代のミュウたちで、任務に関することは思念での連絡の他に、文字による記録を必ずつけることを取り決めた。


艦橋でシートに座り、端末画面に並ぶ文字を追いながらブルーはジョミーのことを思い浮かべた。
言葉ではなく思念を交わすことができれば、こんなにジョミーとの関係が抉れることはなかっただろう。ミュウの現状を伝えることも、彼がミュウであることを納得してもらうことも……いや、そもそもジョミーは思念を上手く操れないという問題があるから、余計に自分がミュウであるということに納得していないのだ。非常に無益な仮定に違いないことは、ブルー自身がよくわかっている。
それに、ジョミーのサイオンを無理やり抉じ開ける方法が、ないわけではなかった。
双方に思念を交わすことはミュウ同士でなければできないが、勝手に心を読むことは人間を相手にも可能だ。その方法でジョミーの心に入り込み、中からサイオンを引きずり出す。
手っ取り早い方法であることには間違いない。
だがなるべくならその方法は取りたくない。ブルーの力が衰えているとはいえ、今日明日にも危険だというほどのものではないし、それならジョミーの意思を無視するような形ではなく、少しでもジョミーから受け入れようとしてくれる形を取りたかった。
便利なものに頼りすぎると、時に人は退化する。
思念でのやり取りに慣れ過ぎた頃、ブルーや多くの仲間は「想い」を「言葉」に換える作業がひどく困難になった。
報告書という形で物事を言語化することを忘れてはいないつもりだった。けれど報告書はどこまでも事務的に客観性を保持しなくてはならないもので、「想い」という複雑なものを言語で伝えるということとは大きくかけ離れていた。
人間と対話をしたいのなら、彼らに理解を求め、彼らを理解したいのなら、思念だけで会話することに慣れてはいけない。
そのことをよく知っているからこそ、出来ればジョミーにも思念ではなく対話で……言語だけではなく、日々の触れ合いなどの簡単なやり取り、人間でもできる形での交流を図りたい。
ブルーがジョミーだけに掛かりきりになる時間ができたことで、長老たちがそれに焦れていることは百も承知の上だ。
それを涼しい顔で聞こえない振りをしているものの。
ブルーは額を押さえて目を閉じた。
「……僕まで焦れてどうする」
刺々しく嫌いだという気持ちを隠そうともしない、顔を背けたり、怒りを込めて睨み付けたり、この船に来てからのジョミーの様子は、見ていることがつらい。
それは冷たく当たられることにもだが、本来なら太陽のような輝く笑顔の似合う子供が、そんな感情ばかりを抱く事実が悲しいのだ。
つい、いっそリオのようにジョミーが意識しなくても聞こえる思念波に切り替えて、ジョミーからサイオンを引きずり出そうかとすら考えてしまう。
三百年も生きて来て、待つことには慣れたはずなのに、ジョミーのことではこんなにも我慢が利かない。
「……笑ってくれたら……どんなにいいことか」
僕に向けたものでなくていい。ジョミーが笑顔になれるのなら、どんな理由でも構いはしない。
……できれば、僕に笑いかけて欲しいけれど。
「……思念波を使ってしまおうか」
ふとそんなことを呟いて、ブルーは軽く首を振った。


「本日の報告は了解した。今日も問題はないようだな」
いつもより時間をかけて報告書を読み終えたブルーは、端末画面を消して艦長のシートに座るハーレイに声を掛ける。
「はい。大過なく……」
振り返ったハーレイは、ブルーではなくその後ろを見て目を瞬いた。
「どうした、リオ。当直でもないのにわざわざ艦橋で食事か?」
その名にぎくりとしたころで、冷え冷えとした思念波が聞こえてくる。
『はい、そうです。……ソルジャーが』
振り返らなくてもリオがどんな表情をしているのかはわかる。
食事は艦橋で取ると言って部屋を後にしたというのに、食堂に寄るどころか誰にも食事を運ぶようにも言っていなかったことは、もうとっくに知られているだろう。
ばつの悪さを押し込めて、トレイを手にシートの横に立ったリオにじろりと睨むような視線を向ける。
「リオ、ジョミーは」
『もう今日はお休みに。今しばらくは青の間から逃げ出す心配もないでしょう』
「そうか……眠っているのなら」
一人にしても問題はないかと頷くブルーに、リオは笑顔のままで首を振る。
『いいえ。ジョミーは優しい子なので、誰かを傷つけるかもしれないことを恐れていますから』
「…………それは僕のやり方に異を唱えているのか」
ハーレイがぎょっとした表情で席を立ったが、当のリオは首を傾げてどうでしょうと軽く返してトレイを差し出した。
トレイには様々な具を挟んだサンドイッチがいくつか並んでいる。
『どうぞ。ここでも食べ易いよう軽食を用意しました』
「……ありがとう。リオは気が利くな」
ブルーとリオの間に流れる妙な緊張感を察したのか、シートに手をかけて腰を浮かせた状態のまま、ハーレイはこちらに近寄ってこない。その様子も不愉快で、ブルーは足を組むとシートの背凭れに身体を預けた。
さらに両手の指を組んだことで、リオはトレイを置くための台をシートから引き出しながら呆れたような溜息をつく。
『あなたは、以前から食事にこだわりはありませんでしたが、身体の状態を維持するために栄養の摂取だけは怠りませんでした』
「報告書のチェックが終われば食べるつもりだった」
ブルー自身から聞いても白々しい嘘だ。当然リオには通じるはずもなく、手を拭けと言わんばかりに濡れたハンドタオルを目の前に突きつけられた。
「……リオ」
『食事も喉を通らないほどおつらいのでしたら、ジョミーは私の部屋で預かる方がいいかと思います』
「リオ!」
突然何を言い出すのだと思わずハンドタオルを押しのけると、ハーレイだけでなく他のクルーまで振り返って、ブルーは仕方なしにグローブを外してタオルを受け取り椅子に深々と座り直した。
「ジョミーのせいのように言うのはよせ。僕は食べないつもりだったわけではない」
『承知しているつもりです。ですが、結果的にあなたが食事を抜いてしまえば同じことです。ジョミーが青の間にいなければ、あのまま食事を取っておられたのではありませんか?』
「それは……」
言うまでもない。
今のジョミーがブルーと食卓を共にすることは、ジョミーにとって負担になる。せっかくなら食事くらいは楽しく取りたいだろうと聞いたのは本心だ。そしてブルーにとっても、つまらなさそうに食事をするジョミーと差し向かいで食べることはつらい。
『私はジョミーを大切にしたいと思います。ですがそのために、ソルジャーのご様子をすべて見ないことにするつもりはありません。そのことを忘れてもらっては困ります』
ジョミーを引き取ると言ったことが、ブルーの感情を引き出す方便ではなく本心なのだと伝えられて、ブルーは怒りや焦りよりも困惑でリオを見上げた。
「だがリオの部屋では、他の者の部屋が近すぎる」
『ジョミーが思念を零してしまうからといって、興奮していない状態なら壁の向こうに離れた相手にまで流したりはしません』
「移動のときはどうする。毎日僕の部屋までの道のりがあるだろう」
『会話でジョミーの気を引きましょう。幸いジョミーは私には少し心を開いてくれていますから、私と話していて負の感情を零すことはないと思います』
即座に返ってくる返答に、ブルーは今度こそ絶句した。
『一度、少し距離を取ってみてはいかがですか?』


まさかリオに言い包められる日が来るとは思わなかった。
救出されたばかりの頃のリオは、それは大層可愛らしく、大層痛々しかった。もっとも身近な守護者である親という存在に疎んじられていたのに、自分が歓迎される場所があるのだと初めて知った戸惑いで、しばらくは落ち着かなかった。
成長したリオは仲間のためにできることがあるのが嬉しいと笑って……その後、補佐の仕事を任されるようになってからはソルジャーの傍で仕事ができるなんてと緊張のあまり硬くなっていたり……。
「すべて遠い日の思い出だ」
艦橋での仕事を終えて、青の間へ戻ってきたブルーはよろよろとした足取りで、過日の可愛かったリオの姿を思い出しながらベッドを覆った薄い紗を払った。
「君もあんな風に逞しくなるのかな、ジョミー」
それはとても喜ばしいが、少し寂しい。
ベッドで眠るジョミーは、起きているときのようにブルーに敵意のある目を向けることはなかった。
すやすやと静かな寝息を立てて眠る愛し子は、天使のように愛らしい。
ベッドの端に腰掛けると、ジョミーを起こさないように気をつけてそっとその頬に手を伸ばした。
子供らしいふっくらとした頬は、滑らかな肌で掌に馴染む。
そのまま手を滑らせて、さらさらとした流れるような金の髪を梳いた。指の間を流れた金の糸のようなそれは、どこも引っ掛かることなく手の中から滑り落ちる。
艦橋でリオの説得に負けたものの、こうしてジョミーを間近に見るとやはりもう少し話し合ってみようかという気になってくる。
自分は連れ去られたのだと理解してからのジョミーからは、強い反発を込めた目で睨みつけられてばかりで、怒りであったり、不安だったり、悲しみにくれた表情しか見ることが出来なかったけれど、眠っている間だけでも穏やかな様子を見ることができてほっとする。
ジョミーを連れてきたその日も、スプーンを握り締めたまま眠ってしまったジョミーを起こさないように気をつけてベッドまで運び、こうして金の髪を優しく撫でた。
ジョミーの存在を感じたときから目覚めを待つ間の数年、時折思念体を飛ばしてその寝顔を眺めたことはあったけれど、こうやって直にこの目で見て、触れることが出来たのはあの日が初めてだった。
そして今日と同じように、ジョミーの寝顔に癒された。
「う……ん……」
小さな声に、起こしてしまったかと慌てて手を離す。
けれどジョミーは寝返りを打っただけで、瞼を開けることはなかった。
ほっと胸を撫で下ろすブルーのことなど知る由もなく、眠る子供は寝ぼけたように唸り声を上げる。
「うー……」
ぱたぱたとシーツの上を小さな掌が叩き、ベッドについていたブルーの手に行き着くとそれを握り締めた。
「ジョミー……っ」
小さな手に人差し指から薬指までをぎゅっと握られて、ブルーは驚いて目を開いた。
けれどジョミーの唇が動いて、声にならないほどの小さな寝言でジョミーが求めたのはブルーではない。
『マム……』
確かに、ジョミーはそう呟いた。
当然だ。あれほど嫌っているブルーを、寝惚けているからといって求めるはずもない。
閉じた瞼の下から透明な雫が一筋、零れ落ちた。
ジョミーに握られた手はそのままに、片手で器用にマントを外すと、ジョミーの傍に横たわる。触れた手は子供の体温が伝わってきて温かい。
「ジョミー」
そっと指で目尻を拭って優しく髪を払い、その額に口付けを贈る。
「僕が言えたことではないけれど……君の悲しみが少しでも早く癒えることを、願っているよ」
額と、頬と、瞼と、髪と、口付けを贈りその小さな身体を腕の中に抱き寄せた。
ジョミーの眠りを守りたいと、そう思ってのことなのに、ブルーを拒絶せずにむしろその温もりを求めるように擦り寄ってくる小さな身体。
この瞬間、癒されるのはブルーの方だ。
「おやすみ、僕の愛し子。せめて、夢の中でだけでも笑っておくれ」
もう一度、最後にそっと瞼に口付けを贈ると、ジョミーの表情が少し和らいだように見えた。







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原作のあの超強引な接触方法は時間がなかったゆえだろう、
ということで、このブルーのコンタクトは手ぬるいです。
アニメよりもさらに。
こっちが焦れる……!