常よりも重い瞼を上げたジョミーは、一人きりのベッドの中で寝返りを打って仰向けに体勢を変えた。
いい夢を見たような気がする。マムに会いたいと泣いているジョミーの涙を拭って、そっと抱き締めてくれた、優しく暖かな手。
マムのものではない、パパのものでもないそれは、柔らかな規則正しい音でジョミーを守るように包み込んでくれた。
けれど目覚めるとこうだ。
数日を過ごしたとはいえ、まだまだ見慣れない一人で眠るには大きすぎるベッドの中に、一人きり。
本来の部屋の持ち主も一緒に眠っているということは聞いているし、それらしい痕跡もあるものの、彼がベッドに入ってきた光景をジョミーは見たことがない。
忙しい人だとかいうことで、夜は眠るまでリオが傍にいるだけで本人はいないし、朝目覚めれば既にベッドにその姿はない。本当に一緒に眠っているのか疑わしくなるほどだが、違うなら違うで、ジョミーにはまったく問題はない。むしろその方がいいとさえ思う。
『ジョミー、お目覚めですか?』
いつものようにジョミーが起きるとほぼ同時にリオがベッドのカーテンを引く。よくもそんなに敏感にジョミーの目覚めに気付くものだと最初は感心したけれど、なんてことはない、これもまたジョミーが思念を零している効果のひとつだという。
目が覚めると、途端にジョミーの思念が聞こえるようになるらしい。
大きく欠伸をしながらリオに朝の挨拶をしようとしたジョミーは、珍しいことに問題の部屋主がテーブルについている姿を見て目を丸めた。
やはり忙しい人だからという話で、朝もジョミーが目を覚ます頃にはいつもいなくなっていたのに。
『おはようございます』
「おはよう、リオ」
ここは彼の部屋だ。本人がいても何もおかしくないと気を取り直したジョミーは、リオに挨拶を返して、着替えに取り掛かる。
寝間着代わりに来ていたリオのシャツのボタンを外すことに苦心していると、リオの大きな手が代わってボタンを外してくれた。
枕もとに畳んで置いてあった服に着替えてベッドから降りると、これまた珍しいことにテーブルには二人分の朝食が並んでいた。しかもジョミーを待っていたかのように、ブルーはまったく手をつけていない。
「おはよう、ジョミー」
「………おはよう」
挨拶ひとつでこれほど逡巡することもないだろうというくらい、考えてから返礼をした。
無視しようかとも思ったけれど、さすがにそれは憚られる。
思えば夜寝る前も朝起きたときもブルーがいないので、こんな挨拶ひとつ、今までしたことも、しようかどうかと迷うこともなかったのかと少々呆れてしまった。
リオに引いてもらった椅子に登ってきちんと座り直すと、ブルーとジョミーは互いに無言のままで食事を始める。
傍に立っていたリオが溜息をつきながら額を押さえる。何かあるのかと振り仰ぐと、リオは何でもないですよとすぐに微笑んだ。
首を傾げながら正面を向き直ると、こちらもリオを見ていたらしいブルーがすぐに視線を逸らしてロールパンを優雅な動作で千切った。
そう、ブルーの仕草はいちいち目を惹く。たかがパンを千切るだけのその動作さえも。
ブルーはふと気づいたように顔を上げて、ジョミーと視線を交わして小さく笑みを漏らす。
「そう誉められると少々気恥ずかしいな。君からだと思うと嬉しくもあるが……」
考えを、しかも相当恥ずかしい気持ちを知られたとジョミーはかっと頬を染めると、テーブルを叩いて椅子から腰を浮かす。
「読むな!」
「だから君が勝手に主張しているのだと何度も説明しているだろう」
「……それでも!」
最悪だ。こんな奴嫌いなのに、惚けて見てしまうなんて、絶対に反則だ!
何がどう反則なのか、ジョミー自身でさえわからないままとにかく反則だと心の中で繰り返しながらロールパンを掴んで、そのまま噛み付いた。
怒りで荒れたような食事をするジョミーに目を丸めたブルーは、やがて苦笑しながらフォークでサラダを突いた。
「そんなに僕の顔が見たくないのなら、リオからひとつ提案があったのだが」
「リオから?」
リオの名前には即座に素直な反応で食事の手を止めたジョミーに、ブルーはそっと息を吐いて頷く。
「リオが君を自分の部屋に引き取りたいと。もちろん、その場合でもサイオンの調整訓練のためにこの部屋には通ってもらう。それでも、何かの折に触れて僕と顔を合わせるという機会は減るかもしれない。……どうする?」
「どうって」
「リオの部屋で寝起きするほうがいいかと聞いているのだよ」
隣に立つリオを仰ぎ見ると、手にした水差しからジョミーのグラスへと水を注ぎながらにっこりと微笑んで頷いてくれる。
『こちらよりもずっと狭い部屋とベッドですから、一緒に眠ると窮屈かと思います。それでもよければ』
ジョミーはぱっと表情を輝かせた。
「ううん!別にそんなのぼくは気にならないよ。でもリオは……」
『私が提案したのですから、私も問題はありませんよ。……ジョミー?』
話を聞いたときは素直に喜びの思念を零したジョミーが、すぐに表情を曇らせた。
そのことにブルーとリオが首を傾げたけれど、ジョミーは力なくゆるゆると首を振る。
「……ううん……やっぱり……いい……」
昨日、ブルーから言われたことを思い出した。
ジョミーは心の声をぽろぽろと零すから、リオはさぞかしうるさい思いをしているだろう、と。
リオは日中、ずっとジョミーについているのだから、夜くらいは静かに過ごしたいだろうとうな垂れたジョミーの心の声はやはり外に漏れていて、リオはブルーに冷たい視線を向ける。
『ソルジャー』
「いや、待てリオ。あれは言葉の綾……」
『ジョミー、あなたの思念をうるさいだなんて思ったことはありませんよ』
言い訳をしようとするブルーに皆まで言わせずに、リオは腰を屈めて項垂れたジョミーを下から覗き込もうとする。
「でも……」
リオに怪我をさせたこともある。もしもあのときのように、またリオを傷つけでもしたら……。
『ソルジャーが仰ったでしょう?私から申し上げた話です。あなたと過ごすことが嫌なら、初めからこんな提案はしませんよ』
不安げな様子を隠しきれない目で見上げると、リオは優しく微笑んでジョミーの手にそっと手を重ねた。
『ね、こうして触れても、あなたは私を傷つけてなんていません。そんなことは考えないで、こちらで過ごすか、部屋を移るか、あなたが選んでいいんですよ』
せめて、これくらいは。
微かに聞こえた気がした言葉は、けれどいつも聞こえるほどにはっきりとした音として頭に響いてくることはなかった。気のせいかもしれない。
けれどその言葉に後押しをされるように、ジョミーはおずおずと頷いた。


今日も一日、日中はあのままブルーの部屋で過ごした。リオの部屋に行くのはあくまで寝起きのためであって、思念波の訓練とやらはあの部屋で行うからだ。
ブルーとの訓練は、相変わらず訓練と言うより喧嘩、喧嘩と言うよりジョミーが一方的に突っかかるだけのものだったけれど、少々の違和感もあった。
リオと手を繋いで廊下を歩きながら、ジョミーはその違和感をリオに訊ねてみた。
「あいつ……ソルジャーって、今日はなにか怒ってた?」
『おや、何か怒っておられましたか?』
聞き返されると返答に詰る。なんとなくそう感じただけで、はっきりと機嫌悪いという態度だったわけではない。
ほんの少し、口数が少なかっただけ。
ほんの少し、いつもより目が合わなかっただけ。
様子が少し違ったといっても、それくらいのものだ。いつもと言ってもジョミーがブルーと過ごすようになってからまだ数日しか経っていない。何を以って日常と呼ぶのかさえ定かではないのだから、気のせいだったのかもしれない。
そう考えて頷いたジョミーに、どうやらまた今日の記憶が流れたのか、ブルーがジョミーの傍にいる間は席を外しているリオが、溜息をついて苦笑を零した。
『ソルジャーは怒っているというより、拗ねていただけだと思います……』
「すねる?」
ジョミーは自分が拗ねたときの態度を思い起こして、それをブルーに当てはめてみる。
頬を膨らませてマムから顔を逸らす。悔しくて地団駄を踏んで喚く。マムに背を向けて、膝を抱えて小さくうずくまる。ブランケットを頭まで被ってベッドに潜り込む……その他諸々。
想像には限界があることを、幼いながらもジョミーは今はっきりと思い知った。
その仕草が似合う、似合わないではなく、あの麗人がそんな様子を見せるところを想像すること自体が難しい。
頭上から急に吹き出した声が聞こえて振り仰ぐと、ジョミーと繋いだ手はそのままに、もう一方の手で口を押さえて顔を背けたリオが肩を震わせていた。
「リオ?」
『す……すみません……今のは不意打ちです……』
頑張って想像しようとして挫折した、「拗ねたソルジャー・ブルー」の図がリオにも見えたらしい。
『ジョミーだったら、可愛らしい仕草ですけれどね』
「可愛いくないよ!ぼくは男の子だっ」
『そうでした、ジョミーは強い男の子ですよね』
にこにこと笑顔で返されて、どこか上手くあしらわれたような気もしたけれど、リオが訂正したのでとりあえず納得しておくことにする。
『けれどソルジャーがそんなことをしたら、おかしいというよりはいっそ何の冗談かと思いますよ。いい歳をして』
「いい歳って?」
ときどきマムやパパでも拗ねているときがあると両親を思い起こしたジョミーは、それよりもずっと若いブルーが……ジョミーのような拗ね方はともかく……拗ねてもおかしくはない気がしたけれど、それに気づいたようにリオは悪戯っぽく笑う。
『そうでした、ジョミーは知らないのでしたね。……私たちミュウは、人よりずっと長命なんですよ』
「長命?」
『ええ。私はこう見えても、ジョミーのご両親より年上ですし』
リオがマムやパパより年上?
そんな馬鹿な。
リオを見上げて、ジョミーはしばし目を瞬いて思考を止めた。
何の冗談だろう。冗談だとしても、随分と下手な嘘だ。
混乱するジョミーに、リオはおやと肩を竦めて首を振る。
『嘘ではありませんよ。それにソルジャーはもっとお年を召しています。あなたも会った、あのハーレイ艦長や、ドクターたちよりずっと……おっと』
急に何かに気づいたように天井を見上げて首を竦めたリオの動作も、唖然としたジョミーには気にもならなかった。
あの少年が、見上げるほど大きなおじさんや、リオの治療をしてくれたあの医者よりも年上?そんな馬鹿な。あの二人はジョミーのパパと同じくらいにしか見えなかった、それよりも更に?
ブルーは成人検査を終えて少しあとくらいの年齢にしか見えない。
『あまり余計なことを言うなと怒られてしまいましたが、でもいいですよね、あなたにはソルジャーのことを良く知っていてもらないといけないのですから』
楽しそうに笑うリオを見上げながら、ジョミーはパパのこととブルーのことを考えた。
パパより年上というのなら、四十歳くらいだろうか。リオが。
そのリオよりもブルーが年上。
おかしい、そんなことありえない。
産まれて六年、記憶にある年月で言えばさらに短いジョミーでも、毎日色々なことがあって随分たくさんの時間を過ごしてきたと思うのに、四十年なんて時間は想像もつかない。
なのにブルーはそれよりももっと生きている?
『ユニヴァーサルの常識で考えると信じられないのも無理はありません。ですが、我々ミュウが持つサイオンは想いの力であると説明されましたよね?その力で成長を止めることができるのです。意識して、あるいは無意識で止めてしまう者もいます。ソルジャーは意識して止めたようですが』
「どうして?」
信じられないながらも、それは少し不思議だった。
思い起こせば確かにあのハーレイよりも、ブルーのほうが偉そうにしていたように思う。
ハーレイがいても、僕がいれば恐くないと包み込んでくれた手はとても頼りになった。
年上なのだと思えば納得だけど、けれど見た目でどうしても納得できない。
『………あの方は、ソルジャーは、「戦士」だから』
それまでくすくすと楽しそうに笑っていたリオの笑顔が、少しだけ寂しそうに見えた。笑顔は笑顔のままなのに。それとも気のせいなのだろうか。
『私たちを守るために、あの方はあの姿をお選びになったのです』
「よくわからない」
守るって何を?何から?どうして?
リオの説明も、その理由もさっぱりわからない。
『いずれあなたにもわかるときが来るでしょう……さあジョミー、着きましたよ。私の部屋です』
いくつも同じドアが並ぶ廊下の先の一角を指差して、リオは話を打ち切ってしまった。
それを責めて話の続きを聞きたがったジョミーは、けれど扉が開くと今度は興味が部屋へと移ってしまう。
リオの部屋というそこは、確かにブルーの部屋とは比べものにならないくらいに普通の部屋だった。ジョミーの自宅の部屋より、さらに狭いくらいだ。
ベッドとサイドテーブルと、機械を置いたデスクとクローゼット。目に付くのはそれくらいの簡素な長方形の何の変哲もない部屋。
『ソルジャーのお部屋に比べると狭いでしょう?ベッドもシングルサイズですし、窮屈になると思います。ここでもいいですか?』
ジョミーとブルーがいても、さらに二、三人は寝転べそうなあの部屋のベッドと比べれば、ずっと狭いのは確かだ。けれどジョミーはそんなことは気にはならない。
「ぼくはいいよ。リオはいいの?」
一人で使えていたものをジョミーにスペースを譲るのは構わないのかと、手を繋いだ青年を振り仰げば嘘のない笑顔で返される。
『言ったでしょう。あなたのことは、私がお誘いしたんですよ?』
ようこそジョミー。ゆっくり休んでくださいね。
ジョミーの手を引いてそんな言葉をくれたリオは、部屋の扉が閉まるとまた何かに気づいたように顔を上げる。
『……少々過保護ですよ』
小さく呟かれるように聞こえた言葉を聞き返しても、リオは何でもないですよと微笑むだけだった。







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あっさりリオを選択されて、結果がわかっていても拗ねるブルー。
色々と大人げないことをやっているようです(笑)