『はい、ジョミー。両手を挙げて』
「一人で着替えられるよ」
シャツの裾に手を掛けたリオに促され、ジョミーは唇を尖らせたけれど素直に両手を挙げた。
『そうでした。すみません』
くすくすと笑いながら、それでもリオは手を引っ込めずにジョミーの着替えに手を出してくる。
着替えを手伝ってもらうなんて、久しぶりのことだ。
アタラクシアの自宅では、両親と同じベッドで眠っていた頃なら今のリオのように時折笑いながらマムがジョミーの着替えを手伝ってくることがあったけれど、去年一人部屋をもらってからはすべて自分でするようになっていた。
照れくさいような、少し嬉しいような、くすぐったいその感情は、しかし思い出した暖かな風景にすぐに曇る。
帰りたいと願って望んで、今はまだ叶わない想い。
リオは優しい。けれど彼はブルーの仲間だ。どれほどジョミーを気遣ってくれても、本当にしてほしいことだけは決して叶えてくれない。
ひょっとすると、本当にもう二度と家には帰れなくなってしまうかもしれない。
絶対に帰ってみせると、そのことだけを心に誓っていたジョミーはふいに浮かんだ想像にぞっとする。
もしもこのまま家に帰ることができないとなれば……二度と、マムともパパとも会えないなんてことになれば。
いやだ、そんなことは絶対にいやだっ!
『ジョミー』
唇を噛み締め、紙のように蒼白になったジョミーが握り締めた拳に、そっとリオの大きな手が重ねられる。
『ソルジャーは意地悪をしたくてあなたを閉じ込めているわけではありません。どうかそれだけは誤解しないでください』
「じゃあなんで………っ」
どうしてこんな目に遭うのか、それがわからない。
ジョミーがミュウだからと説明をされた。ミュウは人から見れば特殊な力を持っていて、だから人間からは受け入れられないのだとも言われた。人の心が読めるなんて、確かに特殊な力だ。
けれどジョミーはミュウなんかではない。現にミュウなら必ずあるはずだという力を持っていない。別の、何かおかしな現象は起きているけれど、あれはきっとブルーが何かしたからに違いない。
頑なにそう信じて滲む涙を堪えるジョミーに、リオはそっと息を吐いた。
椅子に掛けていた上着をジョミーに着せると、軽くベッドの端を叩く。
『ジョミー、ここに座って』
リオはジョミーに座るように促したその横に座って、立ったままのジョミーを見てもう一度隣を叩いた。
奥歯を噛み締めて、泣くもんかと堪えながらジョミーは不貞腐れたようにリオの隣に乱暴に腰を降ろした。俯いて、膝に置いた握った拳をじっと見つめる。
そんなジョミーに苦笑して、リオはポツリと呟くように言葉を伝えてきた。
『正直なところ……私はあなたを羨ましく思います』
こんな状況の、どこが!?
両親と無理やり引き離されて、おかしなことをされておかしな力を押し付けられて、傷つけたくもないのに人を傷つけたりもした。一体どこに羨む要素があるだろう。
ジョミーの心の声は勝手に流れるというのだから、この憤りも聞こえているに違いないのに、リオは柔らかな笑みのままでジョミーを見ずにまっすぐ部屋の扉を見ている。膝に肘をつき、両手の指を組んで少し背を丸めて。
『あなたの記憶のお母さんとお父さんは、とても優しくて温かい』
「そんなの」
当たり前の話のどこが羨ましいのだろう。今は家に帰れない話をしているはずなのに、その温かい両親に会えないことを嘆いているのに。
『今まで言っていませんでしたが、私もこの船に来るまではアタラクシアで暮らしていたのですよ』
ジョミーは驚いてリオを見上げた。リオは相変わらずジョミーを見てはいないけれど、その驚愕は伝わったに違いない。ジョミーが声を上げる前にくすりと笑う。
「リオも誘拐されてきたの!?」
『いいえ?私は誘拐なんてされていません』
「だってアタラクシアにいたって……!」
『私は、ソルジャーに救っていただいたのです』
リオが自分と同じ境遇だったのかと抱いた驚愕は、不可解な言葉で否定された。
『あなたはご両親に愛されていた。自分がミュウであるとは知らずに生きていました』
「ぼくはミュウなんかじゃない!」
即座に否定するジョミーの言葉を、珍しくリオは丸々聞こえなかったように無視をした。無視をして、そのまま語り続ける。
『育英都市で生まれたミュウは自らの孤独を抱えて生きなくてはなりません。異質なものを人は受け入れてはくれない』
当然だ。誰だって得体の知れないものは恐いに決まっている。
浮かんだ肯定を、ジョミーは口にはしなかった。それはリオを否定する言葉だから。
リオは小さく笑って目を閉じた。
『ジョミーは優しいですね。人間が皆、あなたのような人なら悲しい否定は生まれなかったのかもしれない。異質なものを恐れ忌み嫌いながら、それでもあなたは『私』を認めようとしてくれる』
ジョミーは情けなさに頬を染めて俯いた。シーツをぎゅっと握り締める。
優しいのはリオだ。今確かに、ジョミーが異質を受け入れられないと思った心を読んだのに、そんな風に良いように取ってくれる。例え口にしなくても、心で思えば同じことなのに。
『いいえ、同じではありません。あなたは自然とそのように思う心を持っているから疑問を抱かないのかもしれませんが、多くの人は異質を否定すればその存在のすべてを否定します。私の両親のように』
「リオの……マムとパパ?」
『マムとパパ……ええ、そうですね。私の養い親です。私はジョミーとは違って、育英都市にいた頃からミュウである兆候がありました。私の養い親はそれを肌で感じ取っていたのでしょう……私を恐れていました。あなたのように理解しようとはしてくれなかった。いいえ、あるいは最初は努力したのかもしれません』
首を振って、リオは軽く息を吐いた。それはどこか苦しそうな吐息で、リオが無理をして昔の話をしているのではないかと不安を覚えてジョミーは再び顔を上げる。
リオはドアを見つめたまま、心配は要らないというように、ジョミーの頭に掌を置いて優しく撫でる。
『私の記憶にはないだけで……養い子を受け入れようと努力したのかもしれません。けれど結果は駄目だった。少しも受け入れられなかった。私の記憶にある光景はそのことだけです。だからこのシャングリラに迎え入れられたとき、こんなに暖かい場所があることに驚き、そして感動しました』
リオは苦笑を滲ませた表情でようやくジョミーに目を向ける。
『帰りたいと願うだけの思い出があることを羨ましく思います。けれどそれだけに心苦しいこともある』
「え………」
『あなたは失う痛みに耐えなければいけない。それは私にはなかったことですから』
失う。
リオの一言は激しくジョミーの心臓を叩いた。
今までリオは、ブルーに比べれば随分消極的にジョミーの帰宅を否定していた。謝りながら、それでもできないのだと。それは帰さないと言い切るブルーよりもずっと優しい対応だった。
今、はっきりとリオからも、リオの考えでジョミーを帰す意思がないのだと伝えられたことになる。
言葉もなく浮かぶ涙を堪えるジョミーの頭を撫でる手は、とても優しいのに。
『……こんな風に無理に引き離すことは、ソルジャーにとっても初めてのことでしょう。傷ついたあなたのことを、あの方はとても心配しています』
リオは何度もそれを言う。ブルーはジョミーを心配しているのだと、何度も繰り返す。
けれどジョミーには、心配するくらいなら家に帰してくれとしか思えない。そうすれば、ジョミーも、本当に心配しているというのならブルーも、誰もが傷つかない。
ジョミーは多くのことを望んでいるのではない。たった一つ、家に帰りたいと、それだけだ。それだけなのに。
納得できないジョミーに、リオは緩やかな息を吐くと軽く首を振った。
『そうですね、いきなり理解しろと言っても難しいことだと思います。今日はもう眠りましょう』
説得を諦めたかのようなリオに、ジョミーもまた何かを諦めた気持ちで溜息をついた。



ブルーの部屋のように広いベッドではなかったから、リオの腕の中に抱えられるようにして眠ったこの日も夢を見た。
人肌の温もりを感じながらの眠りは、あの広い部屋での就寝よりずっと優しいものだったのに、夢は昨日よりも優しいと感じることはできなかった。
柔らかな温もりに包まれていることに変わりはないのに、ジョミーを抱き締めたマムは必ず帰るからねと涙ながらに訴えるジョミーの頬を、この日は拭ってはくれなかった。



翌朝ジョミーは、この船で初めて一人きりではない目覚めを体験した。
夢の優しさに包まれることが出来なかったせいか、恐らくいつもよりもずっと早い時間に目が覚めたのだろう。昨夜ジョミーを抱き寄せたままの体勢で、リオがまだ眠っている。
一人きりではないのに、涙を拭ってくれた手を夢に見ることができなかっただけで、胸が重い。
リオを起こさないように気をつけて自分の顔に触れたジョミーは、指を濡らした水に驚いて目を瞬いた。
涎ではない。涎は頬を遡って目の周囲まで濡らしはしないはずだ。
夢を見ながら泣いてしまっていたらしい。起きているときは涙を堪えることができても、眠っているときに意志を反映させることは難しいから仕方がない。
そう思いながらも夢で泣くなんてと少々気恥ずかしくなったジョミーは、自分を包む腕が動いたことにギクリと固まった。
『……―――おはようございます、ジョミー』
息を詰めるほどに気配を殺そうとしたのに、結局リオを起こしてしまった。
「おはよう……」
声を出さなくても、出来るだけ気配を殺そうとしても、ジョミーの思念が騒々しいと言われているのを寝起きでまだ少し惚けていた頭は忘れていた。リオはいつもジョミーの目覚めを思念で知るのだった。
『もう起きる時間だから、目が覚めただけです。あなたの思念は深く寝入った者を叩き起こすほどのものではないので、それは心配しないでください』
やっぱりブルーの言うように、リオにはうるさいのではないかと不安になった途端に否定された。ほっとするけれど、それはそれで少し複雑だ。
「本当に?」
気を遣ってない?
リオならそんな嘘でもつきそうで、ジョミーが眉を寄せるとリオの指がジョミーの目尻と頬の涙を拭いながら頷いた。
『ええ、本当に』
「あっ!」
リオが目覚め掛けたと気配を殺そうとしたばっかりに、眠りながら泣いていたことをリオに知られてしまった。
ジョミーはリオの手から逃れるように無理やり寝返りを打って背を向けると、自分の手でごしごしと目を擦る。
『あああ……ジョミー、そんな乱暴に……』
「お腹減った!」
リオの言葉は聞こえていないとでもいうように、わざとらしく主張したジョミーは背中を向けたまま起き上がって着替えに手を伸ばす。
「お腹減ったよ、リオ。早く着替えよう」
羞恥を隠す精一杯のこじつけに、背後のリオはそれ以上は手を出さずに頷いたようだった。
『そうですね。たくさん食べて、今日もソルジャーと頑張ってくださいね』
泣いたことを誤魔化すだけの言葉に重ねられた現実に、ジョミーは朝から憂鬱を覚えて肩を落とした。







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リオはジョミーの味方ですが、当然ブルーの味方でもあり。
今回はブルーがでなかった……。