ペンを手に集中するように唸る幼子を、ブルーは腕を組んで椅子の背凭れに身体を預けながら眺めていた。
本当に、くるくるとよく表情が変わる子だ。これでは思念を遮蔽する術を覚えても、顔で内心の動きを知らせてしまいそうだな、と苦笑を噛み殺す。
ジョミーはまだ幼い。今から覚える必要はないし覚えさせたくもないけれど、いずれポーカーフェイスという名の仮面の付け方も教えた方がよさそうだ。そんなもの、必要としないままでいさせてあげたいものだけど。
お菓子を目の前にして、少し心を動かされたり。
提示された条件をこなしていないのに差し出されたものに、反発を覚えながら心を惹かれたり。
不承不承といった態を見せているのに、いざお菓子を口にするとほんのりと頬を緩ませる。
ああ、可愛い。なんて可愛い。
そんなことを考えているだなんて、口には出さない。微笑ましく眺めているだなんて、表情にも出さない。そんなことをすれば、ジョミーはすぐに不機嫌になってしまう。だから心の中だけで、可愛いと愛でる。思念は特に遮断はしていない。ジョミーには聞こえないはずだし、聞こえて不機嫌になればそれはそれでブルーの思念を欠片でも受け取ったという目安になる。
聞こえて欲しいような、欲しくないような、そんなブルーの複雑な心境を他所にジョミーは表面上は不機嫌に、けれど上機嫌でお菓子を食べ終えた。
やはりジョミーには最後まで聞こえなかったらしい。幸いだ。残念だ。
ジョミーがまだ聞き取る力がないというはずはない。時々とはいえ、母親の思いは聞こえていたのだから、あとは慣れだ。……それと心理的な作用の問題だろう。
お菓子がなくなり次の課題を出したところで、シールドを張った青の間にも連絡できるよう、通信用にと繋げている神経の一部にハーレイの思念が届いた。
『申し訳ありません、ソルジャー。哨戒機が近づいています。ステルスデバイスは正常に作動していますが、一応艦橋に上がっていただけますか』
『ああ、わかった。今行く』
哨戒機といっても「敵」の存在などほぼ認知していないユニヴァーサルの哨戒は、単なる訓練の場合がほとんどだ。ミュウの隠れ場所が上空を漂う船であるということすら、彼らは知らないのだから。
問題が起こることのほうが滅多にないとはいえ、もしもの際は事故に見せかけて墜落させるか、パイロットの記憶を改ざんするか、どちらにするかの判断もその対応も、ブルーが立ち会う必要がある。
「……ジョミー、すまないが少し席を外すよ」
「え?」
「呼び出しだ。僕は行くけれど、逃げても無駄だからこの部屋から出ないように」
ジョミーは不満そうに頬を膨らませて不貞腐れた返事をする。
それに苦笑を噛み殺して、本当は一日の終わりに渡すつもりだった飴を渡して艦橋へと一瞬で移動した。
「ハーレイ、哨戒機は」
「まだ少し距離があります。ご足労をおかけして申し訳ありません」
ユニヴァーサルの哨戒機を映した正面のモニターを見ながら、シートに座らずハーレイの座るシートの横に立つ。長居するつもりはないのだと見て取ったらしいハーレイが溜息をついた。
「ジョミーはどうですか」
「うん、可愛いよ」
間髪入れずに返答すると、見なくともハーレイが呆れた表情で見上げてきたことがわかる。
「いえ……そうではなく」
律儀に訂正を入れようとするハーレイに、ブルーは笑ってシートに手を掛け腰を屈めた。
「もう少し時間が掛かりそうだな」
モニターから目を離さないままに声を潜めると、ハーレイはやはりと頷いた。
「それならば長期戦を覚悟して、ヒルマン教授にジョミーを預けた方が良いのではありませんか。あなたの……その、させたい役目は、まずミュウとしての基本たることすら出来ない現状では教えることもありますまい」
「思念を遮蔽する術を覚えるまではだめだ」
「ですから、そういった基本こそわざわざあなたが指導するようなことではないでしょう」
「僕が指導する必要がないからと言って、僕がしてはいけないという理由にもならない」
「そういう屁理屈を……」
「哨戒機、本船の上空を通過します」
レーダーを担当しているヤエの報告に、ハーレイも一旦口を閉ざしてモニターに視線を戻す。
「どうやら何事もなく終わりそうですね」
「そうだな。面倒がなくてよかっ……」
安堵したように軽く息をついたハーレイに同意しようとした一瞬、小さな悲鳴を聞いた気がした。
消え入りそうな、細い細い助けを求める小さな声。
「ジョミー?」
顔をあげて振り返る。同時に思念を青の間へ飛ばした。青の間をシールドしているのはブルーなので、ブルー自身にはシールドも意味を成さない。するりと入り込んだ先で、いるはずの姿が見つけられない。
間違いなく部屋からは出ていない。そう約束したからではなくて、部屋の外にジョミーの意識が見当たらないのだ。
「哨戒機は」
「本船上空を通過中です」
「ソルジャー?」
催促してもどうにもならない報告を求めるなんて、ブルーにしては珍しいことにハーレイが問い掛けるように声を掛けてきたのと同時に、ブルーは軽くシートの肘掛けを叩いた。
「すまない、部屋に戻る。何かあれば呼んでくれ」
「は?あ、ソルジャー!」
ハーレイの間の抜けた声を聞きながら、ブルーは今度は青の間へと一瞬で移動した。


「ジョミー、どこにいる。隠れていないで出てきなさい」
ジョミーの残り香とでもいうべきか、そんな消えかけの思念を探りながらまずベッドのシーツを捲くってみた。ここにいるとは思わなかったけれどやはり姿は見当たらない。
元々隠れる場所などない部屋なので、次の間にでも入ったのかと足を向けようとした方向とは逆の、廊下へと続く扉の方にジョミーの思念を微かに感じた。
「ジョミー?」
振り返る先には、やはり小さな子供の姿は見えない。けれど、視線を僅かにずらした先、水面に普段は見ない波紋を見つけた。
『ソルジャー!一体どうなさったのですか!』
『問題が起こったのでないのなら、しばらく静かにしていてくれっ』
常にはないブルーからの叱責に、ハーレイが言葉に詰ったようだった。ハーレイに罪はないので少々申し訳ないがそれどころではない。
もしやと思い水の中へと意識を向けながら足早に歩み寄る。ゆらゆらと揺れる視界の中で、水底へと落ちていく小さな身体を見つけた。
「ジョミーっ!」
どうして、まさか、なぜそんなところに。
駆け寄りながら、水中からジョミーの身体をサイオンで掬い上げる。少しでも早くと伸ばした両手に引き寄せた小さな身体は、意識がないせいかぐったりとしてブルーの腕に収まった。
「ジョミー!ジョミーっ!」
顔に張り付いた髪を払い、そのふっくらとした本来なら健康的なバラ色をしているはずの、青白い頬を軽く叩く。
この身体が冷たいのは、水に落ちていたせいだ。間違ってもそれ以外の理由でなどありえない。あっていいはずがない。
「ジョミー!」
呼吸を確かめ、停止したそれにブルーは慌ててジョミーを床に横たえてその腹を、正確には横隔膜の近くを三本の指で強く押した。
サイオンを込めて微妙な力を調節したその刺激に、ジョミーの小さな身体が痙攣したように一度大きく跳ねて喉が震えた。苦しそうに僅かに仰け反り、ごぼりと水を吐き出す。
「よし、いい子だジョミー、今度は呼吸を取り戻して」
触れた胸からは、今にも消えそうだったが鼓動を感じた。水を飲んで一時的に呼吸は止まっていたが、心臓は活動を停止してない。あとは身体に呼吸を思い出させればひとまずは安心できる。
気道の確保に首の下に差し入れた手で喉を反らせると、青白く色を失っていた唇に息を吹き込んだ。
子供と大人では肺活量が違う。相手が子供でも、人工呼吸は思い切り息を吹き込んでよかっただろうか。
当たり前のように知っていたはずの応急処置すらも、焦った心では正確に思い出すことが出来ない。手当ての方法を間違えてジョミーを寄り危険に晒すなんてことになりでもしたら、悔やんでも悔やみきれないというのに。
『ジョミー!目を開けてくれ、ジョミー!息をしてくれっ』
呼びかけは、無意識だった。無意識に、ジョミーの途切れているはずの意識に触れる。
君を失うことだけは駄目だ。それだけは嫌だ。あってはならない。呼吸をして、目を開けて、声を聞かせてくれ。ジョミー、どうか僕の願いを……どうか僕を。
すべてを覆うように包み込んで触れた意識が、僅かに震えた。
何度目かの息を吹き込んでいた唇をすぐに外すと、薄く開いた口からひゅっと息を吸う音が聞こえた。小さなそれに続いて、抱えていたジョミーの身体が大きく震えて、咳き込むように水の混じった息を吐き出す。
「ジョミー!」
閉じていた瞼が震えて薄く開く。翡翠色が、僅かに覗いた。
「ああ、ジョミー!よかった!」
濡れた髪を後ろに払い、頬擦りをするように小さな身体をぎゅっと強く抱き寄せる。消え入りそうだった鼓動が、はっきりと確かに伝わった。
ぎゅうぎゅうと痛いくらいだろうに強く抱き締めても、目を開けたばかりのジョミーはだらりと力の抜けた様子でなすがままだ。
「…………で……」
歓喜の声を上げて抱き寄せたジョミーの、微かな声をすぐ傍の補聴器が拾う。朦朧としているのか、ジョミーの意識ははっきりとは掴めなかったが、声は確かに聞こえた。
小さな、悲しそうなその声を。


「ノルディー、ジョミーを見てやってくれ」
医務室にテレポートで現れたソルジャーに、ドクターノルディーも看護士もぎょっとしたように顔を上げたが、その腕の中の全身ずぶ濡れの力のない小さな身体を確認した途端に表情が変わる。
「その子を処置ベッドに乗せてください。呼吸や脈拍は?」
「脈は問題ない。呼吸は一時停止していたが、水を吐かせてすぐに人工呼吸を施した」
横たえられたジョミーを全身ざっと調べて、ノルディーはすぐに安堵を息をつく。
「ああ、さすがソルジャーです。素早い処置だ。問題はない様子です。鼓動が止まっていなかったのなら、呼吸を止めていたのもほんの僅かな時間でしょう。脳へのダメージは心配ないと思われます」
恐らくはそうだろうと思っていた答えを聞いて、ジョミーを診るノルディーと看護士に気づかれないようにブルーはほっと息をついた。自分で思う以上に切羽詰っていたのか、ついた息は思いの他大きな溜息となったが処置中の二人は気づかなかったようだ。
「しかしまあ、この短期間で二度もここにくるとは、少々元気が良すぎるようですな、この子は」
「確かに、それには一言もないな」
ブルーは苦笑を滲ませて、今度は少し丁寧にジョミーを診察するノルディーの横、はさみを持った看護士に気づいて手を上げる。
「待て、服は切らないでやってくれ。怪我ではないのだから、そこまで急いで脱がせる必要はないだろう」
濡れた服は脱がせにくいので切ってしまおうとした看護士は、意外なことに口を挟んだブルーに軽く目を瞬く。
あの服は、ジョミーにとっては両親に買ってもらった大切な品だ。溺れたのはジョミーの自業自得だとしても、それを切られてしまえばジョミーが悲しむだろう。一刻を争うような処置でないのなら、できれば脱がせるという形にしておきたい。
「面倒なら僕がやろう」
「そんな!まさかソルジャーにそんなことをさせるわけにはいきませんっ」
看護士はきっぱりとブルーの手出しを断って、ブルーの希望通り脱がせ難い濡れた服を切ることなく脱がせて、濡れた身体を手早く拭いて身体が冷えないようにタオルで包んでベッドへ落ち着けた。
「しかし……このシャングリラの一体どこで子供が溺れるような場所があったのかな」
子供がこんな風にはまるような場所があっただろうかと首を傾げるノルディーの疑問に、ブルーは肩を竦めるだけでどこだとは言わなかった。
子供に危険な場所があるなら通達をして改善するべきだろうが、青の間には子供たちが入ってくることはない。
ジョミーを除いては。
瞑想に適した空間にするために、静寂と循環の水を湛えた部屋にしたことに、こんな弊害が起こるとは考えもしなかった。
「……ジョミーのために水は抜いておくべきかな」
まさかそこでジョミーが溺れるとは夢にも思わなかった。
まず水に落ちるなんて考えもしなかったし、アタラクシアではジョミーはもうすでに泳ぎを覚えていた。恐らく水に落ちたというパニックと、着衣のままだったということが災いしたのだろうけれど。
それにしても。
「『泣かないで』か……」
意識を取り戻した直後、ジョミーは確かにそう囁いた。
そんなこと、初めて言われたような気がする。少なくともざっと見渡したブルーの記憶の中には覚えがない。
それに、今だって心配して安堵して、喜びはしたけど泣いてなどはいない。
意識が混濁していたから、きっと何かと間違えて呟いたのだろう。抱きかかえた相手がブルーだと認識していたかどうかも怪しい。
「リオを迎えに遣すから、後は頼んだ」
「承知しました」
ノルディーの返答に頷いて、ブルーは再びテレポートで艦橋へ戻った。
「ハーレイ、哨戒機は」
振り返ったハーレイは同じセリフで二度目の登場をしたブルーに、眉間に皺を寄せた表情で胡乱な目を向ける。
「問題なく通過し、当該機の索敵圏内からも外れました……またジョミーですか?」
「そう、またジョミーだ。けれどもう心配はない。医務室に預けてきた」
「心配なのは別のこと……医務室!?どこか怪我をしたのですか?それともさせたのですか!?」
「あまり失礼なことを言うものではないよ、ハーレイ。ジョミーは故意に誰かを怪我させるような子ではない」
誰もそんな言い方はしていない……と思う。
不機嫌そうに睨みつけられたハーレイは、心の中で小さくそう呟いた。







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人工呼吸、ちみっ子が相手なので普通に救助活動でした。
(大人相手でも少年相手でも救助活動だよ……)
溺れた場合の処置の仕方の記憶が曖昧です。なんて適当な。