声が、聞こえた。 『ジョミー!……ジョミー、ジョミー!!』 気がつけば闇の中だった。 正しくは、気がつけばとは言わないかもしれない。まるで闇に解けたように、前も後ろも、上も下も、右も左もない。 意識が暗闇に落ちていると自覚できたのは、揺り起こす声が響いたからだ。 『ジョミー!ジョミー!!目を開けてっ!息をしてくれっ』 その「声」は、ともすれば再び闇に落ちていきそうになるジョミーの意識を力強く……乱暴に言えば引きずるように引っ張り上げる。 耳で聞くのではなく、頭に直接響くような……胸を突き抜け、まるで物理的に心臓を掴まれたのかと、そう思うほどその「声」はジョミーの中に深く入り込む。 苦しい。 胸を、喉を、心臓を、肺を、掴まれたような息苦しさに、胴体を思い出した。 苦しい胸を押さえようとして、指先から遡るように手を思い出す。 それを見て、目があると気がついた。 少しずつ輪郭を確かめるように、ジョミーは闇の中で『ジョミー』を思い出して形作る。 闇に漂う己をジョミーが自覚した後も、ジョミーの中に直接触って強く掴むような何かの感覚は消えない。 不思議なのは、それが不快ではなかったことだ。 『駄目だ、ジョミー!戻っておいで、ここに戻って来るんだっ』 苦しいのも、痛いのも、悲しいのも、ジョミーのものではない。けれど混じり合ったそれは既にジョミーのものとも言える。 「声」は目に見えない。けれど痛み苦しい胸に手を当てたジョミーには、それが泣いているように感じた。駄々を捏ねる子供のように大粒の涙を零してジョミーの中で叫び続ける。 『君を失うことだけは駄目だ。それだけはあってはならない。ジョミー、どうか僕の願いを……僕を……』 何よりも痛いのは、この涙だ。何かをひどく恐れながら、ジョミージョミーとひたすら呼び続ける。いやだいやだと繰り返して、混じり合ったジョミーの中に涙を落とす。 頭痛がするほどの荒れ狂う声が弱まった。 ひどく取り乱した叫びは弱まったけれど、それに逆らうように声が恐れる何かが、ジョミーの中で急激に膨張して破裂しそうなほどに圧迫する。 最後に聞こえた声は、今までの張り裂けそう叫びから一転して、それがまるで真理だというように、低く、深く、ジョミーの中で囁く。 『僕を置いて行くなんて、決して許さない』 まるで呪いのような囁きが、酷く心地良かった。 『ジョミー!』 ぼんやりと虚ろに天井を見上げていたジョミーはその声にようやくパチリと目を開けた。 頭の中に直接響くような、心の中に直接触るようなその声は、けれど押し付けるような圧迫感はない。 語りかけてくる者の人柄を表したような、優しいリオの「声」。 ゆっくりと目を動かすより先に、リオがぬっと視界に現れ覗き込んできた。 『ああ、よかった。目が覚めたのですね。どこか痛いところはありませんか?苦しいところは?ドクター!ジョミーが目を覚ましましたっ』 心配そうな表情で、ジョミーの額に触れ、慈しむように頬を撫で、慌しく振り返って呼びかける。 こんなに落ち着きのない様子のリオは初めて見たかもしれない。 ジョミーがぽかんとそれを眺めていると、リオの向こうから呆れたような声が聞こえた。 「そんなに急かさんでも聞こえているさ。やあ、いたずら坊主。気分はどうだ。吐き気はしないか?」 現れたのは、数日前にリオの怪我を診てくれた医者だった。 ジョミーはまだ少しぼんやりとした頭で、ノルディーの目を見て頷く。 「平気だよ」 「そりゃあよかった。脳波や脈拍からいっても問題はなさそうだったし、しばらくここで様子をみて、なんともなければ部屋に戻ってもいいだろう」 『ああ……よかった……』 リオは胸に手を当てて、心底安堵したように深く息をついた。 「リオ……?」 「覚えてないか?お前さんは溺れて運ばれて来たんだぞ。いったいこの船のどこでなら溺れるような場所があるのやら……栽培室の貯水タンクにでも落ちたのか?あそこは子供は立ち入り禁止だぞ。リオも元気の有り余ったいたずら小僧はよく見ておけ」 そんなことをまで付け足してから、ドクターはやれやれと部屋の奥へ戻って行った。 首を巡らせてその背中を見送ったジョミーは、ベッドの中に潜って顔を半分隠しながらリオを見上げる。 「怒られちゃったね」 『ジョミー……』 まるで軽いいたずらを咎められたかのようなジョミーの口調に、リオは眩暈がした様子で額を押さえて溜息をついた。 『こうして無事だったからこそこんなことが言えますが、本当に冗談では済まないところだったんですよ』 「はぁい」 心の声が聞こえなくたって、リオが酷く心配していることはわかる。だから反省はした。 だがなぜだろう。溺れたことそのものは酷く遠い出来事のようで、まるで恐怖が湧かなかった。 水底から見上げた、仄暗い水面が最後の記憶で、水に落ちたことは覚えているのに、まるで他人事のようだ。 そんな感覚はやはりリオには伝わっているようで、リオには珍しい渋面を見せられて、誤魔化すように寝返りを打つ。肌がシーツに擦れる感覚に毛布を捲って初めてベッドの中の今の格好を知った。 「何も着てない!」 『水の中に落ちたんですから、脱がせたに決まっているでしょう。あとでドクターたちや、ソルジャーにお礼を言ってくださいね』 「ソルジャー?」 『水に落ちたあなたに気づいて、助けてくださったのはソルジャーですよ。とても心配しておられましたから、後で元気な姿を見せて差し上げてください』 溜息混じりの吐息をつきながら伝えられたことに、ジョミーの中で何かが揺れた。 「……………ふぅん……」 何かを忘れているような、けれど何を忘れているのかすらわからない、そんな気持ちの悪さにジョミーは眉を寄せて胸を抑えた。もう水の中ではないのに、どうしてだか息苦しい。 『いいですか、ジョミー。大人が傍にいないときに水辺で遊んではいけません。わかりましたね?』 「遊んでたわけじゃないよ。花びらを捜してたんだ」 『花?青の間でですか?』 花どころかほとんど何もない部屋でそんなものがどこにあるのか。これもまたリオの心を読めなくても言いたいことはよくわかる。 「あの部屋に花があるかなんて探さないよ。ぼく、ここに来る前に綺麗な花びらをもらったんだ。でもどこに置いたかわかんなくなっちゃって、ポケットの中を探していたら」 『服を探ることに夢中になって、足を滑らせたんですね……?』 リオは再び、頭痛がするとでもいうような様子で額を押さえた。 『……理由はともあれ、大人がいないときに水辺に近づいてはいけません。いいですね?』 「でもあの部屋、水だらけだよ?もうあの部屋に行かなくていいってこと?」 素朴な疑問で訊ねると、意地の悪いことを言ったつもりではなかったのに、リオは絶句してしまった。 すでに元気を取り戻していたジョミーにとって、ベッドに縛り付けられていることは酷く苦痛だった。 けれどドクターの目を盗んでベッドから逃げ出そうとすれば、すぐに看護士が飛んできて押し込められてしまう。考えが漏れるということは、本当に不便だ。 だが考えが読めるということは、暇だ暇だと口にする以上にうんざりしていることも伝わるようで、一旦席を外していたリオは帰って来るなり呆れ返って、ジョミーをベッドに押し込めておくことを早々に諦めた。 『では、ソルジャーにお礼を言いに行きましょう』 「やっぱりあの部屋に行くの?」 『危険については、ソルジャーと相談して対策を練りました。だからこれからも通ってもらいますよ。何より、それがあなたのためなんですから』 看護士が用意してくれていた着替えは、ようやく新しいものが手に入ったと、この船の子供たちが着ていたものと同じ意匠の服だった。抵抗がまったくなかったといえば嘘になるけれど、裸で歩き回るわけにもいかないし、溺れたことでリオをひどく心配させたという自覚はあるので、それ以上は駄々を捏ねずに袖を通す。 「あなたの服はちゃんと洗っているから、後で返してあげるわね」 ミュウの子供の服を着たジョミーに、看護士の女性はそう約束してくれた。 「うん、ありがとう」 気を失っている間にリオ以外の人の手でどこかへやられた服が確実に返ってくるのだと知って、ほっと安堵する。ジョミーがそれに安心したことに、女性は頬に手を当てて苦笑を漏らした。 「ソルジャーが、服を切っては可哀想だと仰ったの。怪我の措置のときには、手当てするために服は切ってしまうことも多いのよ。本当に大切なものだったのね」 ジョミーはそれ以上の返答に詰る。ジョミーにとって、ソルジャー・ブルーは本当に謎の人物だった。 『あなたが大切なだけですよ』 廊下を歩きながら首を捻るジョミーに、リオはにこにこと笑顔でブルーの気遣いをそう解説する。 『あなたが大切だから、あなたの大切に思うものがわかるのです』 「えー……?」 誘拐されて閉じ込められているジョミーとしては、そんなことを言われてもにわかには信じ難い。けれど今までと違って、頭から否定する気には、何故かなれなかった。 そうしてリオは、そんなジョミーに嬉しそうに笑うのだ。 『もっとたくさんソルジャーとお話してください。そうすれば、あの方がどんな人なのか、あなたにもきっとわかりますよ』 そうは言われても。 溺れたところを助けてくれた(らしい)し、切って捨てられそうになったジョミーの服を守ってもくれた(らしい)けれど、それだけで今の状況を水に流すなんてできるはずもない。 『追々とでいいんです』 ジョミーの困惑も承知しているからと微笑むリオに、どう返せばいいのか迷う。 結局、沈黙を選んだジョミーは、到着した青の間に踏み込んで、様変わりした部屋に目を瞬いた。 「なにこれ……?」 『あなたが再び水に落ちるようなことがないように、と』 入り口から通路に沿って、部屋の中央に位置する床に届くまで、紐で繋がれた緑色の目の粗いネットが水の床の上に張り巡らされていた。 景観を損ねるどころの話ではない。防護ネット以外は部屋の内装は何一つ変わっていないのに、まるきり別の場所に入り込んだかのような錯覚に、ジョミーは唖然として部屋を見渡す。 妙に実務的なネットが張り巡らされた先に、あまり現実的ではないくらいに綺麗な少年がいつものように立っていた。 酷くそぐわない。 「水を抜いてしまおうかとも思ったのだがね。それでは今度は落下の危険がある。そうなれば水に落ちるよりも危険だから、結局こういう形に落ち着いた」 リオと手を繋いだまま部屋の中央まで歩いて行くと、水槽の上のネットを不満そうに眺めるジョミーに、ブルーは淡々とありのままを述べましたというような説明をくれる。 『もうあんなことは、二度とあってはならない』 「え?」 淡々と説明したくせに、酷く苦悩したような声が聞こえてジョミーが振り返ると、ブルーは目を瞬いた。 「聞いていなかったのか?危ないからと言ったのだ」 それは聞いた。そうではなくて、さっきの声は……気のせいだろうか。 「元気が良いのは結構だが、怪我をして訓練の行程が遅れでもしたら、君自身が困るだろう」 腰に手を当て、片足に体重をかけて呆れたような視線を向けたブルーは、上から下までジョミーを眺めて溜息をつく。 『どうやら溺れたショックもないようだ……よかった』 表情と声色が一致していない。 いや、一致していないことよりも、問題は声色そのもののほうだ。 なぜか、胸の奥がむず痒い。 『ジョミー?』 急に恥ずかしくなって、繋いでいたリオの手を握り締めたら不思議そうにリオに声を掛けられた。目の前のブルーもジョミーの照れの理由がわからないらしく首を傾げる。 なんで!?そんなに恥ずかしい声を出すくせに、なんで平気なの! 『恥ずかしい声?』 リオが首を傾げ、ブルーを見て、もう一度ジョミーを見た。 ブルーもリオと同じような様子を見せていたが、ふと何かに気づいたように少し目を細めてジョミーを凝視する。 『僕の声が聞こえているのか?』 「そんなはっきりした声、聞こえないはずないだろ」 何を言っているのかと眉を潜めると、ブルーは軽く目を見張った。だが次の瞬間、あっと声を上げ、更にその声を禁じるように手で口を塞いだ。 『意識を繋げていたのか!』 「意識を繋げるって?」 難しいことを言われてもよくわからない。ことんと首を傾げて鸚鵡返しをするジョミーに、ブルーはぐっと言葉に詰る。 「い、いや、気にするな」 『とにかく繋いだ糸を切らなくては』 ブルーの声が二重にぶれて重なって聞こえて、ジョミーは驚いて飛び上がる。 「え、なに?どうやるの、それ!?」 「どうもこうもない。これは事故だ!」 『今更こんな初歩で躓くとは!』 『ジョミー?ソルジャー?』 会話のかみ合わない二人にリオが怪訝そうに声をかけると、ジョミーは輝く瞳でリオを見上げた。 「ねえ、意識を繋ぐってなに?どうやったらいっぺんに喋れるの?」 まるで副音声のようだと興奮するジョミーに、リオはしばしぽかんと口を開けた。ブルーは額を押さえて俯いている。 やがてリオは、ジョミーの質問には答えず、額を押さえて俯いたままのブルーの方へと視線を向けた。酷く呆れた意識を、隠そうともしない視線で。 『何をなさっているのですか』 「いや、違うリオ。これは事故だ。先ほどジョミーは呼吸を止めて意識が底に沈み続けていたから、揺り起こそうと……したつもりはなかったんだが……していたらしい……」 段々と小さくなっていく語尾は、様変わりした青の間に零れたように落とされた。 |
意識が落ちていたので、ジョミー感覚は曖昧な様子です。 フィシスに地球を見せてもらうような、視覚ごとの記憶の接触とは違い、 こちらは感情を含む感覚だけのものなので、ある意味より深く混じった ……ということで。剥き出しだったせいでより純度が高い接触でした。 |