リオの部屋からブルーのいる部屋へ。
この船の廊下を往復することに随分と慣れてきた。
ジョミーにとっては一種、奇妙な状況だった。
うちに帰りたい、マムに、パパに会いたいという気持ちはもちろん消えることも衰えることもない。
けれどただ嫌な奴だと思っていたブルーが本当にジョミーのことを心配していると知ってしまってからは、むやみに嫌うことができなくなってしまった。
ブルーの部屋へ行くたびに、どうしても部屋にそぐわない防護ネットが目に入る。ブルーはまるで気にしてない。けれどあれは、ブルーがジョミーのためにと張った物だ。
ただ、どうしても家に帰れないことだけは納得が出来ない。
ブルーもリオも、ジョミーが家に帰れないのは、ジョミーがミュウだからだという。
けれどジョミーはミュウではない。ブルーやリオのように人の心を読むなんてこと、ジョミーにはできない。
ジョミーがミュウであるという誤解を解く。そうすれば家に帰れるはずだ。
そうやってブルーを頭から拒絶するのではない方法をやっと考えたというのに、口にしなくてもジョミーの考えを読んでしまうブルーは、それに呆れたような溜息をついた。
「君が何と否定しようと、君はミュウなんだよ」
「思い込みだ」
「だとすれば、あの暴走したサイオンは一体どう説明するんだい?君を心配する僕が、君に何かをしたなんてありえない。そうは思わないかい?」
同じような会話を以前にもした。
ジョミーを心から心配しているだというあの想いにまだ触れていなかったあのときは、そんな言葉も頭から否定した。
けれどブルーの心に触れてしまった今では、ジョミーのことを心配しているという気持ちが本物だということを知ってしまっている。あんな危険な力をジョミーに植え付けるなんて真似を、この人がするはずはないとわかってしまうくらいには。
そうして、ジョミーがブルーの言葉を信じたのだということが、ブルーにも伝わっているということも、その笑顔から嫌でも思い知らされる。
「読むな!」
「読んでいない。聞こえるんだと言っているだろう」
そうして、この綺麗な人の笑顔が自分のために向けられた、自分のことを想ってのものだと、それがわかってしまうのがどうにも気恥ずかしい。
それなのに、ブルーはジョミーの反発が弱くなったのをいいことに、何かあれば嬉しそうに頭を撫でたり、すぐに抱き上げようとしてくる。
そんなブルーのことを思い出して、反発とは違うところで溜息をついての大人びた疲れを見せるジョミーの様子に、手を繋いでいたリオが苦笑を漏らした。
『ソルジャーは本当にあなたに夢中ですね』
「知らないよ、そんなこと」
いい迷惑だ。いっそジョミーのことなんて飽きてしまって、やっぱり勘違いだったとアタラクシアに帰してくれたらいいのに。
そう頬を膨らませたジョミーの思念に重ねるように、後ろから女性の声が上がった。
「本当に、勝手な方だと思いますわ」
ぎょっとして振り返ると、手を繋いでいたリオも驚いた様子で思念の声を上げる。
『フィシス様!』
「フィシス様?」
後ろに立っていたのは一人の女性だった。
ジョミーよりも、少し色の濃い金の髪は床に届くほどに長く、来ている服もリオや他のミュウたちとは違い、ゆったりとした長衣。筋の通った鼻先や、厚手の唇、ほっそりとした顎、それらの調和に両の瞼を下ろしたままだが、その顔は見とれるほどに美しい。
神秘的とはこんな人に使う言葉なんだろうと、口を開けたままぽかんと見上げるジョミーに、女性は小さく笑った。
「まあ、ありがとう。あなたがジョミーね?」
「え?う、うん」
何がありがとうなのかと戸惑いながら、とにかく名前を呼ばれたことに頷く。それから、この船にいるということは、彼女もミュウなのだと思い出して心の中で思ったことを読まれたのだと理解した。
フィシス様と呼ばれた女性は、静かな足取りでジョミーに近付くと胸に手を当てながら腰を屈めてジョミーと視線の高さを同じくする。
「私はフィシス。嬉しいわ。あなたにずっと会いたかったのです」
「ぼくに?」
「ええ、あなたに」
勝手に心を読まれることはやっぱり気持ちがいいものではないが、あまりにも率直に好意を向けられて、毒気を抜かれてしまった。
視線の高さを同じくしても、フィシスは瞼を上げない。どうしてだろうと首を傾げるジョミーに、フィシスはそっと手を伸ばした。
「私の盲いた目はあなたの顔を知ることができないの。思念でそれを補うことはできるけれど……顔に触ってもいいかしら?」
目が見えないという可能性を考えてもみなかったジョミーは目を瞬いて、急いで頷いた。
「うん、いいよ。どうぞ」
そう言って、自分から顔を突き出すようにするジョミーにフィシスは、まあと微笑んだ。
手首に嵌めていた金の輪がしゃらりと音を立てて伸ばされた手は、壊れ物を扱うようにそっと、まずジョミーの頬に触れた。
美しい白魚のようなほっそりとした指がジョミーの顔を滑る。
「柔らかい頬。お鼻も唇も、とっても可愛い。少しだけ、ごめんなさい」
額に触れていた掌が降りてきて、ジョミーは素直に目を閉じた。
「あなたの宝石のような瞳……瞼に隠れていても、強い意志を感じる」
顔に触れていた両手が離れると、ジョミーが目を開ける前にふわりと柔らかく抱き寄せられた。
「素晴らしいわ、ジョミー。もっと早くにお会いしたかった」
「え……え、え!?」
目を開けると、フィシスの細い肩が目に入る。他のミュウたちとは違い、フィシスの長衣は白い肌の肩を剥き出しにしていて、ジョミーは思わず顔を赤らめた。
知らない女の人に、いきなり抱き締められた。
「あら、ごめんなさい。嬉しくてつい」
目を白黒させて両手を閉じたり開いたり、どうしたらいいのかわからなくて混乱するジョミーに、フィシスは笑いながら手を離す。
「リ、リオ!」
混乱したまま、ジョミーはとにかく後ろに居たリオに助けを求めてその足に、ひしと抱きついた。
リオは落ち着くようにとジョミーの背中を撫でながら、視線をフィシスに向ける。
『フィシス様、一体どうしてこんなところに……それもお一人で』
「だって、いくら待っていてもソルジャーはジョミーに会わせてくれないのですもの。天体の間で待っていてはいつになるかわからないので、私からこうして会いにきたのです」
『それは……別にソルジャーはフィシス様に意地悪をしたわけでは』
「ええ、わかります。ジョミーの思念が筒抜けになってしまっているから、私の負担を思ったのでしょう。私は盲いた目を補うために、思念に対して敏感だから。けれどジョミーのことを待っていたのは、ソルジャーだけではありません」
きっぱりとした口調で言い切ったフィシスは、リオに抱きつくジョミーにそっと手を差し出して優しく微笑んだ。
「驚かせてしまってごめんなさい。でも私はあなたにとても会いたかったの。今日は私とお話をしていただけないかしら?」
「え?」
お話って、初めて会った大人の女の人と、しかもこんな綺麗な人と?
緊張すると漏れた思念に、フィシスは緩く首を傾げて少し声の調子を落とした。
「だめかしら?」
「う、ううん。そんなことないよ」
女の人を泣かしちゃいけない。女性には優しくとマムに言われていた言葉を思い出して、ジョミーは即座に首を振ってフィシスの手を取った。
『ジョミー、ソルジャーがお待ちですよ。フィシス様も、ジョミーにはまだやらなければならないことが……』
「今日までソルジャーがジョミーを独占したのですから、今日くらいは譲っていただきます。ジョミーも、たまにはソルジャー以外の人から思念について教わっても悪くはないでしょう。ねえ、ジョミー?」
「え……?」
ねえと訊ねられても。
思念なんて最初から使えないと思っているジョミーにとって、講師が換わろうと特に意味がないように思える。
「誰であろうと一緒なら、私でも構わないはずです。ではリオ、ソルジャーに伝えていただけますか?」
神話の本で見た女神のように神秘的で美しい女性は、花の顔を綻ばせてリオに伝言を託した。
「ジョミーは私が預かりました。返して欲しければ少しは反省なさってください、と」
笑顔とは対照的な冷たい声にどこの誘拐犯の言葉かと頬を引きつらせたリオを見上げて、幼くしてジョミーは女性の恐さを学ぶはめになった。



「ブルーは何か悪いことをしたの?」
廊下でリオと別れて、細い手を引きながら歩くジョミーは振り返ってフィシスを見上げる。
反省しろというからには、何か怒られるようなことをしたのだろうと思えば、フィシスの答えは何とも意外なことだった。
「あなたをずっと独占したことです。私もあなたにお会いしたかったのに」
「ぼく?」
さっきもそんなことを言われたけれど、ジョミーは自分が初対面の相手にそんなに会いたいと思われる理由がよくわからない。
しかも独占と言っても、ジョミーがブルーに対する態度なんて、全身で嫌いだと拒絶するような刺々しいものでしかなかった。独占しなくていいものなら、ブルーだって独占なんてしたくなかったと思う。
「ブルーはぼくの心配をしてるだけだよ。……それだって余計なお世話だけど」
心配するくらいなら家に帰してくれれば解決するのに。
「そんなことはありません。あなたと過ごすことが嫌だというのなら、思念の初歩を教えることはリオに任せても問題はなかったはずです。リオも忙しい身ですが、ソルジャーも決して時間を持て余しているわけではありません」
ブルーは忙しい人だからと、確かにそう何度も聞いた。ジョミーとの授業の時もときどき抜けて行くし、ブルーの部屋で寝起きをしていたときは、就寝と起床を共にしたこともない。
「もっと言えば、私に任せてくださればよかったのです。私はあなたにお会いしたかったのですし、カードをめくり未来を読み解くことは、あなたの先を思うことと同じなのですから」
握った手を、軽く右に振られた。
ここは右に曲がるのかとフィシスの手を引いて右の道へ向かう。
フィシスは声の出せないリオと同じように、思念で見えない目を補っているという。リオが思念で過不足なく過ごしているとわかっていても、目が見えない人に対しては、つい先に立ってその手伝いをしようとしてしまう。
フィシスはそれに、優しいジョミーと喜びはしても嫌がることはなかったので、ジョミーはそのまま手を引いて歩き続けた。
この人は、ここにいる以上ブルーの仲間だ。
それはわかっているけれど、優しくジョミーを見守るような温かさを感じる。繋いだ柔らかい手がマムを思い出すせいかもしれない。
「未来と、ぼくが一緒って?」
未来を読み解くとか、ジョミーの先は一緒だとか、言われた意味がよくわからずに首を傾げると、フィシスはあらと口元に手を当てる。
「ソルジャーはまだあなたに伝えてはいないのですね。……そうね、まだ少し早いかもしれませんわ」
「まだ早いって……」
小さく呟かれた言葉に、ジョミーは眉を寄せて顔をしかめた。
「ぼくは家に帰るんだよ。ブルーはぼくがミュウだって決め付けてるけど、ぼくは人の心なんて読めない。きっと勘違いしているんだよ」
「まあ、ジョミー」
フィシスは軽く頬に手を当てて、少し何かを考える仕草をしたものの、それには何も言わずにジョミーの先を指差した。
「もうすぐ天体の間です。まずはゆっくりとお茶にいたしましょうね。美味しいお菓子も用意してありますよ」
美味しいお菓子と聞いて、ついジョミーが背を伸ばすとフィシスは楽しそうに笑みを零した。







BACK お話TOP NEXT



ジョミーがフィシスに拉致されました(ブルー視点)
ジョミー……お菓子にも釣られちゃいけません!(笑)