フィシスと共にやってきた天体の間という場所も、ブルーの部屋に劣らず変わった場所だった。
見上げる天井は高く、部屋に入った先には緩やかな曲線を描く階段が二手に分かれて高台となっている場所にそれぞれ続いている。階段を登らずにまっすぐに進めば、大きな球体と球体を繋ぐ筒のような大きな機械がある。
ジョミーはフィシスと手を繋いだまま、物珍しげにきょろきょろと部屋全体を見回した。
ブルーの部屋も広いし何も物がなかったけれど、この部屋もやはり家具などのものが少ない。
フィシスに導かれて階段を登った先に、円形のテーブルがあるくらいだ。
そのテーブルの上には、フィシスが言った通りにいくつものお菓子が載った大皿が中央に置いてある。
フィシスはジョミーに椅子を勧めると、テーブルの傍らに用意してあったワゴンからポットを手にした。
「ジョミーは温かいミルクのほうがいいかしら?」
「ううん、なんでもいいよ」
背の高い椅子によじ登り、行儀良く座ったジョミーの前に、ミルクをたっぷりと入れた紅茶が差し出された。何かあれば手伝うつもりでじっと見ていたけれど、その手つきはまるで見えているかと思うほどに迷いも淀みも無い。
「どうぞ好きなだけ食べてくださいね」
瞼を下ろし、目が見えないはずなのにお菓子を前にジョミーの目が輝いたことが分かっているようにフィシスは微笑みを浮かべる。
「うん。いただきます」
その微笑みに、僅かに頬を赤く染めながらジョミーはぺこりと頭を下げた。
「まあ、愛らしい……」
ただの食事の前の挨拶に、フィシスが頬に手を当て感動している様子を不思議に思いながらジョミーはまずドーナッツに手を伸ばした。
フィシスは自分の分の紅茶も用意すると、ジョミーの正面に腰掛けておっとりと微笑む。
「このシャングリラでの生活に、少しは慣れましたか?」
甘いお菓子を頬張って、笑みを零しかけていたジョミーは優しげなその声に、眉を下げてゆるゆると首を振る。
「あんまり……あのね、ぼくは家に帰りたいんだ」
ブルーはもちろんのことだが、リオに言ってもだめだと言われたけれど、それでも諦めきれずにフィシスにもお願いしてみる。
けれど思ったとおり、彼女も困ったように溜息を零すだけだった。
「それは……できないの」
「どうして?ぼくがミュウだから?」
「ええ、そうです」
「違うよ、ぼくミュウなんかじゃない。だってリオやフィシス様みたいに、心の声なんて聞こえないもん」
「あなたは間違いなくミュウです……いいえ、この話は今はやめましょう」
やはりフィシスもジョミーをミュウだと言い切るのかと肩を落としかけたジョミーに、フィシスは声色を変えた。
「それよりジョミー、私のことはフィシスと呼んでください。あなたが敬称をつけることはないのです」
「でも、リオが」
「そうですね。そんな必要はないというのに皆そう呼びます。けれど私はただほんの少し、未来を読み解くことができるだけ。ソルジャーのように特別な存在はないのですけれど」
「ブルー?」
「ええ、あの方は我らにとって掛け替えのない方」
ジョミーは少し面白くなくて、ドーナッツを頬張ることで口を塞いだ。
リオも、公園で会った同じ歳くらいの子供たちも、ドクターも看護士たちも、みんなブルーのことを好いている。
そのブルーに反省してくださいなんて、厳しい言葉を掛けたフィシスに少しだけ期待してたけれど、やはり彼女もリオたちと同じらしい。
ジョミーは一つ目のドーナッツをすべて口に押し込むと、傍に置いてあった布巾で手を拭って温かい紅茶を満たしたカップを手にした。
「……ねえ、フィシス様」
「フィシスです、ジョミー」
紅茶で口の中のお菓子を流し込んでからようやく話し掛ければ、即座に訂正される。目を瞬いて一瞬戸惑ったものの、こくりと頷いて改めて口を開いた。
「ねえ、フィシス」
「はい、なんでしょう?」
今度は優しい笑顔で返事が返ってきた。様をつけるかつけないかなんて、そんなに重要なことでもないと思うのだけど、そうした方がフィシスが喜ぶならそれでいいかと納得しながら手にしたカップに目を落とした。
「ブルーもフィシスもリオも、どうしてぼくがミュウだって思うの?ぼくは……それらしいことなんて、リオを傷つけたことくらいしか……」
「まあ……ジョミー……そう、あなたはそれを恐れていたの……」
フィシスは眉を寄せて、愁いた様子で溜息を落とした。
「ジョミー、思念波を……サイコキネシスを恐れることはありません。ミュウの力は想いの力。あなたが本当にミュウとして目覚めたからといって、周りの人を傷つけるものではありません」
「でも」
「少し、難しい話をしましょうか」
不安げに顔を上げたジョミーに、フィシスはにっこりと微笑んだ。
「ミュウの持つ思念波は、虚弱な者たちが不自由な器官を補うために生まれたとも言われています。それは私の見えない目や、リオのように言葉を話す力、ソルジャーの物を聞く力、そう言ったものの他に、繊細な心を守るための殻でもあると」
「心………」
「先ほども言ったように、ミュウの力は想いを表したもの。人の心を読むと聞けば恐ろしい力に聞こえるかもしれません。ですが、本当は心を通じ合わせるための力なのです」
フィシスの言葉を頭の中で繰り返して、ジョミーは再びカップに目を落とした。
思念で話し掛けてくるリオの優しい声、溺れたというジョミーを心から心配していたブルーの声。
どちらも、恐ろしいとはまるで感じなかった。
「ジョミー、言葉とは難しいものです。真を語ろうと思えばどこまでも真を、けれど偽ることも容易い。それは言葉そのもので、あるいは声で、視線で、態度で。けれど思念は塞ぐことは出来ても、偽ることはできません」
その意味が半分ほども理解できないフィシスの言葉を懸命に自分なりに噛み砕こうとするジョミーに、フィシスは小さく笑う。
「まだ上手く思念を塞げないあなたの記憶に触れたことを、謝ります。けれどジョミー、あなたはそれをもう知っているでしょう?」
「え……?」
見上げたフィシスは、くすくすと笑いながら口元をほっそりとした手で覆う。
「不器用なソルジャー。あなたのことを芯から案じているのに、冷たい態度を取って……医務室から戻ったあなたを、本当は抱き締めたいほどに思っていたはずなのに、それを隠そうとなさって、けれどご自分の失敗ですべてあなたに筒抜けだなんて」
溺れたジョミーを心配していたブルー。今まさに、思い出していた出来事だ。
堪えきれない様子で笑うフィシスの例えは、難しいと思った話をすっきりと分かり易くジョミーに伝える。
呆れた顔で、声で、視線で、ジョミーを眺めていたくせに、心の中では聞いただけで恥ずかしくなるような声でジョミーのことを想っていた。
思い出しただけのあのブルーの心の声に、カップを手にしたままジョミーはかあっと頬を染める。
「思念は偽りを許しません。人の諍いには様々な理由があります。誤解もそのひとつ。ですが思念を直接交わすことができれば、誤解が生まれる場面を減らすことができるでしょう。ジョミー、心を交わすことは、恐ろしいことではないのです」
ブルーの心に触れて、確かにジョミーはブルーに対して無闇に反発することができなくなった。それは争いを減らしたと言えなくもない。
「力とは、ただそこにあるものでしかありません。それを使う道を定めるのは人なのです。あなたがリオを守りたいと思うのならば、力は決してリオを傷つけないでしょう。だからジョミー」
しゃらりと金の輪が音を立て、伸ばされたフィシスの手がジョミーの頬を撫でる。
「サイオンを恐れないで。どうかあるがままのあなたを受け入れて。例え思念波を正しく扱う術を手にしても、あなたはあなた。あなたの心が思念の赴く先を決めるのです」
まっすぐに見上げた美しい人。触れた指先からその温かい心を感じる。
恐らく彼女は今、その思念というものを隠していないのだ。
「でも……受け入れてって言われても、ぼくにはどうしたらいいのか分からない。フィシスやリオの優しい気持ちは感じる。でもそれだけだ。心の声なんて聞こえない」
「焦ることはありません。今はまだ、思念が怖いものではないということを知ることから始めましょう。ジョミー、私の手を取って」
頬を撫でていた手が滑り降りて、ジョミーの前に差し出される。その白い手を見て、ジョミーはおずおずと握り締めた。
「指と指を絡めて、目を閉じて。ゆっくりと私に心を委ねて……あなたに一つの記憶を見せましょう」
「記憶?でも」
言われるままにフィシスと指を絡めるように手を重ね、目を閉じたジョミーは困惑したように瞼を下ろしたままフィシスの声がするほうへ顔を向けた。
「大丈夫です。これはリオがあなたに言葉を届けるものと同じ。あなたに私の記憶を流すもの。数年前のできごとですわ」
耳に優しく響くフィシスの声に誘われるように、ジョミーの意識はふわりと浮いたような心地がした。


目を閉じたジョミーの瞼の裏に、ぼんやりとした風景が浮かぶ。それははっきりとは見えないけれど、どうやらこの天体の間のようだった。
そうと得心した直後、ジョミーの心を強く叩くように跳ねさせる「何か」が近づいてくる。
「なに……?」
「聞いてくれフィシス!」
息を切らせた大声に、ジョミーは大きく震えて背筋を伸ばす。慌てて振り返った先には、光の塊があった。
「まあソルジャー、そんなに興奮なさって。一体何が……」
その声が自分の口から出たのかと思って驚いた。けれど視線の重なるそれは、決して自分のものではない。フィシスの言葉で、光の塊が先の大声の主であることが分かった。
やはり聞き間違いなどではなく、ソルジャー・ブルーの声。
「見つけた、あの子を見つけた!君が予言し、僕に示した希望の子供だ!」
聞いたこともないほどに激しく震え、弾み、上擦りさえしているほどに興奮した声を上げ、光の塊がジョミーに抱きついた。いや、正しくはフィシスに抱きついたのだろう。
眩しすぎて目が痛いくらいだ。心臓を直接叩くように胸に迫る想いが苦しい。
「ソルジャー、ブルー、どうか落ち着いて。眩しすぎてあなたが見えませんわ」
「すまない、しかしこれが落ち着いていられようか!素晴らしい、本当に驚いた。君の予知を疑っていたわけではない。けれどこれほどまでとは……!」
ぎゅうぎゅうと強く抱き締められてかなり痛い。純粋な力と胸を叩く想いと、そして眩しすぎる光。
息苦しいほどの強い想い。
嬉しいことは分かったから、苦しいというこっちの訴えも少しは聞いて欲しい。
ジョミーほどではないけれど、フィシスもどうやら少し閉口しているようだった。
それくらい、ブルーはまったく人の話を聞いていない。
「髪は君のような美しい金の輝き、瞳は翡翠の石のように綺麗な澄んだ翠。まだ言葉も紡げないその声は愛らしくも元気の良い響きで周りの目を呼び寄せる。小さな手も、足も、すべてが可愛いんだ!」
興奮して語る言葉に途切れが見えない。とうとうと語られる誉め言葉はすべて一人の赤ん坊に向かっているらしい。
ジョミーにはその相手はまるで見当も着かないけれど、フィシスには心当たりがあるようだった。
「では、我らの希望の子を」
「そう、見つけた!力一杯泣いて、僕を呼んでいた!いや、呼んでいたのはきっと僕ら仲間そのものだろう。けれどあんなに小さいのに、確かに思念を、ああ、素晴らしい、あんなに強い力で!」
「ソルジャー、どうか落ち着いて……」
いくら苦しいと、眩しいと言ってもまったく聞き入れない光の塊を、ジョミーは力を込めて押しのけた。正しくはフィシスがそうしたのだろう。これはフィシスの記憶なのだから。
浮かれて謳うようにうっとりと子供のことを語り続ける光の塊に、フィシスは溜息をついて、抱き締められて乱れた髪を耳に掛けた。
「本当に、子供のようにはしゃがれて」
しょうがない人と呟きながら、フィシスの心も晴れ晴れとしている。ブルーが喜んでいることが、フィシスも嬉しいのだ。
「ブルー、その子のお名前は?もちろん私にも聞かせてくださるのでしょう?」
「もちろんだとも。君が予言し、僕に教えてくれた子だ。その姿も見せよう。僕の手を取って、指を絡めて」
差し出されたそれは光の塊から、ようやくぼんやりと人の手らしき形に見えてきた。どうやら少しだけブルーの興奮が落ち着いたのか、それとも興奮を押さえ込めるだけの理性が戻ってきたのか。
手を重ねてフィシスが顔を上げると、ブルーの顔が見えた。ジョミーの目で見るほどにははっきりとせず、輪郭はぼやけている。けれど、それを補ってあまりあるほどに気持ちが伝わってくるせいで、まるで蕩けそうな笑顔であることが分かった。
こんな顔もするのかと思うと、はっきりと見えないことが少し残念だ。フィシスは少し呆れながら、それでも一緒になって喜んでいるけれど、ジョミーはきっと大笑いしたのに。
「さあ、フィシス、君にも見せよう。名前はジョミー。ジョミー・マーキス・シンだ」
ブルーの記憶が重ねた手から伝わるかという寸前に、ジョミーの意識がフィシスから離れて椅子の上に座る自分に戻った。



ぱっと目を開いた視界の先には、嬉しくて仕方が無いというようなうきうきした笑顔のフィシスが座っている。
フィシスと手を繋いだまま、ジョミーは空いている左手をゆっくりと上げて人差し指を自分に向けた。
「……………ぼく?」
「はい、そうです。あなたを初めて見つけたときのソルジャーです」
フィシスはそれはもう、悪戯が成功したような明るい声ではっきりと頷いた。
ジョミーはずるずると力が抜けるようにテーブルに額を落とした。湧き上がる羞恥心と激しい戦いが始まる。
ブルーの蕩けそうな笑顔が、はっきり見えなくてよかった。







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アニメ第1話の眠るジョミーを見つめるブルーの表情は、
見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだったんですけれども、
という話(笑)