フィシスに別れ告げてブルー階段を並んで降りていると、ふと何か言われたような気がして顔を上げた。
同じようにジョミーを見下ろしていたらしいブルーと正面から視線がぶつかって、お互いにしばし驚いたように瞬きをする。
白いグローブに包まれた細い手が差し出された。
「ジョミー、手を繋いでいいかい?」
その儚げな面持ちは、ブルーが倒れてしまいそうだとのフィシスの言葉を示すかのようでジョミーは眉を寄せる。
部屋まで付き添い、眠るまで傍にいるなら手を繋ぐことくらい、なにというほどのものでもない。ジョミーは無言で手を差し出した。
差し出された小さな手に、ブルーは目を細めて微笑む。
「ありがとう、ジョミー」
綺麗な笑顔だと思う。
これもまた、ジョミーに向けられた笑顔であることに変わりはない。
けれど、あのフィシスに見せてもらった、はっきりとは見えなかった笑顔のほうが、どうしてだか恥ずかしかった。
「聞いてくれ、フィシス!あの子を見つけた!」
フィシスに見せられたかつてのブルーの笑顔ははっきりとは見えなかったけれど、それがこの上ない喜びのものであったことは確かだ。
声で、行動で、全身で示したものではなく、あの弾むように喜び震えた想いが、まるでジョミーのもののように胸に残っている。
あれはフィシスから伝えられた、そのフィシスですらブルーの想いを受け取っただけのものであるにも関わらず、だ。
見上げたブルーに微笑みかけられて、どうしたらいいのか分からず、ふいと目を逸らす。
分からない。一体どうしてこの人は、こんなにもジョミーのことを想っているのだろう。
ジョミーが水に落ちたときに感じたあの心配は恐ろしいほどに深かった。
フィシスの記憶の中ではその誕生を喜び、興奮のあまり手がつけらないほどだった。
一体、どうして。
ジョミーはジョミーでしかないのに、ミュウだなんて思い込んで……。
疑問と共に浮かんだことに、ジョミーはあっと口に手を当ててブルーを振り仰いだ。
「見た!?」
動転してすっかり忘れていたけれど、ブルーは人の心が読める。うっかりフィシスに見せられた風景を思い浮かべたりして、ブルーに見られたのではないかと慌ててみれば、佳人は赤い目を瞬かせて首を傾げる。
「見たって、何を?」
「え……?」
首傾げたブルーは本当に心当たりがないようだ。見えていれば、自分が関わる記憶なだけになんのことか分からないなんてことはないように思う。
「ううん、なんでもないよ!」
どうしてブルーに見えもせず聞こえもしなかったのかは分からないけれど、それならそれが好都合だとジョミーは慌てて繋いだブルーの手を引いて早足で歩き始めた。
どうして聞こえなかったのか。
手を引いてずんずんと歩きながら、ふと一体なぜブルーと一緒にブルーの部屋に向かっていたのかを思い出す。
今日のブルーは体調が悪い。
思えば、ジョミーが照れているだけだとリオはすぐに気づいたけれど、ブルーはリオに言われて初めて気がついたようでもあった。ジョミーの考えが読めるのはブルーも同じはずなのに。
「病院へ行こう!」
ジョミーは慌てたように針路変更しようと踵を返す。
「ジョミー?」
「先生に診てもらおう!」
「待ってくれジョミー。僕は別にそこまで疲れているわけではないよ」
それまで、ジョミーに手を引かれるままに歩いていたブルーが初めてそれに逆らうように繋いだ手を後ろに引っ張る。
「でも!」
「今はちゃんと聞こえている。君が僕のことを心配してくれている、その心がね」
「し……んぱい、なんて!」
嬉しそうな微笑みを向けられて、ジョミーは顔を赤く染めた。
おかしい。こんな風に心配したりその体調を気遣ったり、ブルーとの仲はそんなものではなかったのに。
「別に!心配なんてしてない。お年寄りは大切にしなくちゃいけないからだよ」
「……なるほど、ここでそれを持ってくるのか」
見上げると、ブルーは苦笑を抑えるように口元を掌で撫でるだけで怒った様子はない。
その綺麗な笑顔から目を逸らすように、再び手を引いて歩き出したジョミーは脳裡に浮かんだことを、慌てて打ち消すように首を振った。
ブルーはジョミーがミュウだと思っている。だからその誕生を喜んだり危険な目に遭えば心配したりする。
ではジョミーはミュウではなかったと、そう納得する日が来たらどうなるのか。だってジョミーはミュウなんかではない。いつか必ず、その日が訪れる。
だからなんだ。そうしたら家に帰れる。喜ばしいことではないか。
この綺麗な笑顔が失望に染まることなんて、ジョミーが気にすることではない。
……はずだ。
ジョミーは歩きながら俯いて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
あんなに強く喜ばれて、けれどそんなことは勝手に盛り上がったことでジョミーの責任なんかではない。
そう思うのに、心の奥がまるで重石でも圧し掛かったようにずしりと重くなった。


頭の中を覗かれても平気なようにとなるべく何も考えないようにすることが難しかったので、無理やり今日のお昼ご飯はなんだろうとか、おやつはなんだろうとか、他愛もないことで頭を占めるように努力した。お陰で、ブルーの部屋に着いた時にはほっと息をついてしまった。
けれど扉を開けると相変わらず部屋にはそぐわない防護ネットが張り巡らせてあって、これがまたジョミーのためのものだと知っているだけに眉を寄せて顔をしかめてしまう。
俯いて早足で通路を抜けると、部屋の中央のベッドまで急いでブルーを連れて歩いた。
「じゃあ」
ジョミーは空のベッドを叩きながらブルーを見上げる。
「はい、寝転んで」
「本当に僕が眠るまで傍にいてくれるのだね?」
「ここまで来たのに嘘を言ってどうするのさ。ぼく約束は守るよ」
「いや、すまないジョミー。君を疑ったわけではなくて……少し感慨深くてね」
「かん……?」
言葉の意味が難しくて目を瞬くと、ブルーは微笑みながらベッドに腰掛けた。
「嬉しいということだよ」
その笑顔に、胸がキリリと軋みを上げる。
「ジョミー?」
首を傾げるブルーに、ジョミーはまた慌てて首を振って浮かんだ痛みを心の端へと追いやり、精々できうる限りの仏頂面を作った。
「ほら、早く寝てよ。なんのために戻ってきたと思っているのさ」
「ああ、そうだった」
マントを外しブーツを脱いでベッドに上がったブルーは、ジョミーの手を握って招くように軽く引っ張る。
「ありがとう、ジョミー。優しい子だ」
「別に……」
体調の悪い人を気にかけるくらい当然のことで、優しいなんて言われるような特別なことではない。
ジョミーがふいと目を逸らすと、握った手が小さく揺らされた。
「それだけではなくて、僕の気持ちを考えてくれている」
一瞬何のことかと怪訝に思いブルーを伺った。その困ったような、けれどこか少し嬉しそうに見える表情に、危惧を悟られていたを知った。
一生懸命違うことを考えようとしていたのに、結局頭に浮かんだことを読まれたのか。
カッと頬を染めると、ブルーは息をついてもう一度握った手を揺らす。
「すまない。懸命に他愛のないことを考えて表層意識を覆い隠そうする行為は可愛らしかった。けれど聞こえなかったことにするには、少々気になる悩みだったからね」
「読むなっ」
「うん、君が不快に思うことは分かっている。けれどこれだけは聞いて欲しい」
握った手を強く引かれた。
下に引きながら横にも流そうとする力に、身体が半分回転するように回って見事にブルーの横にぽすんと腰を降ろして並んで座る形になる。
「な………」
「ジョミー、忘れないでくれ」
ブルーの良いように動かされた怒りは、抗議しようと振り仰いだところで言葉と共に喉につかえて胸の奥に引っ込んでしまう。
緩やかに眉を下げた微笑は儚いほどに優しく美しく。
「確かに僕が君のことを知ったのは、君がミュウだったからだ。けれどそれは切っ掛けにすぎないのだよ」
「ぼくは……っ」
「だからもし、君がミュウでなかったとしても、僕が君を好ましく思うこととは別の問題だ。君のその真っ直ぐな魂も、純粋な心も、それはミュウであるか人であるかに左右されるものではない」
ミュウなんかじゃない、といつもの決まり文句はジョミーの口の中だけで呟くように転がされて、溶けるように消えた。
代わって、今度はその顔が赤い色で塗りたくられたように濃く染まる。
「う……う、う、う……」
「『嬉しい』?」
「嘘だ!」
また心を読まれたのかと思った。嘘だと言ったのは、ブルーの気持ちのことなのか、ジョミーの心を読んだように訊ねたことことなのか、そのどちらをも否定するようにジョミーは激しく首を振る。
「嘘だ!そんなの嘘だよ!」
「なぜ嘘だと?」
「だって、今までずっとぼくはミュウだって言ってたじゃないか!ブルーはぼくがミュウなんかじゃないって、少しも考えてないからそんなことが言えるんだ!」
ブルーもリオもフィシスも、みんなみんなジョミーがミュウだと疑わない。どれほどジョミーが違うと言っても、まったく聞こうとしない。
リオを傷つけた力を、どこかで否定しきれなくなってきていることが心の片隅を掠めたけれど、ジョミーは強く目を瞑って激しく首を振る。
違う、違う。ぼくはミュウじゃない。ミュウなんかじゃない。
だってもし、本当にミュウだったりしたらそれは……。
「そうだね、確かに僕は君がミュウだということを少しも疑っていない」
「ほらみろっ!だから」
「言葉を重ね続ければ、いつか君は信じてくれるかい?」
問われた言葉に、息が詰った。
平行線だ。どこまでも、平行線が続くだけだ。
ブルーはジョミーをミュウだと信じているし、ジョミーはそれは間違いだと思い続けている。
ミュウでも人でもなく、ジョミー自身を案じるのだという、その心もまた、同じように。
泣くものかと決めていたのに、涙がじわりと滲む。
胸が痛くて苦しいのは、一体なぜなのか。
ジョミーは俯いて腕で乱暴に涙を拭いながら、強く拳を握り締める。
「………嫌いだ」
ブルーはジョミーがミュウでも人でも関係ないと言う。
「ブルーなんて、嫌いだ」
どうあってもミュウだと思い込んでいるくせに、そんな都合のいいことを。
「大嫌いだ……」
家に帰してもくれないくせに。
「……だろうね」
呟くように肯定された声は、短すぎてその心の内を推し量ることもできなかった。
けれどジョミーは何に突き動かされるように顔を上げると、両手で突き飛ばすようしてブルーをベッドに押し倒した。
「さっさと寝なよ!ブルーが寝ないと、いつまでもここにいなくちゃいけないじゃないか!」
上に乗り上げて見下ろしたブルーの赤い目は、驚いたように丸められる。
「……傍に、いてくれるのかい?」
「約束したことは守るよ!だから早く寝ちゃえ!」
早く眠って、さっさと眠って、そして元気になればいい。ブルーが元気にならないと、ジョミーは家に戻るための方法を学べない。
それだけ、きっとそれだけだ。
ブルーはジョミーがミュウか人間かなんて関係ないという。
ならばジョミーが家に帰ることだって、人間かミュウかだなんて関係ない。
帰りたい。ただマムとパパに会いたい。
ジョミーの願いはそれだけだ。
ただそれだけなのに、押し倒されたブルーは肩を押さえ込まれたまま肘を曲げて手の届いた部分のジョミーの腕を擦るように撫でる。
触れた箇所から、ブルーの想いが流れてくるようで、ジョミーは首を振って目を逸らした。
「そうだね、休むとしよう。お休みジョミー。僕が眠るまでそこにいてくれるね?」
「約束だから」
不機嫌にそう返したのに、見ていなくてもブルーが微笑んだことが分かってしまった。







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