ジョミーは塔へ入るステップを踏みしめながら、後ろについてくる足音に耳を立てて、両手を強く握り合わせた。
せっかく今は平穏な暮らしが続いている。それが砂上の楼閣のような危うさで保たれた均衡であることも承知している。けれど、それでも平穏なのだ、今は。
気まぐれでやってきた王などに、これを壊させはしない。
初めから、何もかもが上手く運んだわけではなかった。
産まれた赤ん坊が歌姫の声を持っていたことに、ジョミーの母親は酷く困惑したという。
誰に分からなくても、当代の歌姫にだけは産まれた子供が歌姫であることが分かる。それは彼女の母親と同じ声で泣く赤子だったので。
自分の母とまったく同じ声を上げる子供は、どこをどう見直しても男にしか見えなかった。
産婆が取り上げさえしなければ、たった一人で出産に挑んでいれば、彼女は恐らくジョミーを女の子だったと報告しただろうと後に零していた。それほど動揺していたのだ。
歌姫が産んだ子供が次代の歌姫にはならない男子だと知ったとき、村の連中はみな落胆したそうだ。彼らにとって、歌姫の子供として必要なのは女子だけだ。ジョミーは初め無価値な子供と誰にも見向きもされなかった。
その頃の記憶はないので、母から聞いた話にそうなのかと頷いただけで何の感慨もない。
ただ今の平穏が、どれほど危うい均衡で保たれているのかを、思い知らせるだけの事実でしかない。
男の歌姫がひっそりと山奥で隠れるように暮らしているのは、すべて妥協の産物にすぎない、と。



歌姫の少女に続いて塔に足を踏み入れたブルーは、その内部の質素さに内心で眉を潜めた。
部屋の中央に実務的で武骨なテーブル、窓の傍には飾り気のないチェスト、あとは衝立で調理場を仕切っているだけだった。
確かにこの塔は随分と辺鄙な場所に立っているし、ジョミーのような少女では村まで降りて行くことすら簡単にはいかないだろう。それにしても、この年頃の娘の暮らす場所としては、殺風景な部屋だ。
花一つない部屋を見回して、振り返ったジョミーに目を戻す。
さらりと流れる金の髪、翡翠の宝石よりも美しい翠の瞳。
髪飾り一つ付けていなくても彼女の存在そのものが花よりもよほど華やかで、ブルーの目を楽しませてはくれるけれど、それは来客から見た場合の話だ。ここには普段は、ジョミーしかいない。ひとりでこんな山奥に暮らしていて寂しくはないのだろうか。
そう訊ねかけたブルーは、疑問を声にする前に口を閉ざした。
たとえジョミーが寂しさを感じていようといまいと、彼女には選択の余地が無い。
「粗末な椅子ですが、どうぞ。今なにかお飲み物を……」
「いや、構わない。それより村長」
自らの手で椅子を引きながらリオの後ろについてきていた村長とその息子を振り返ると、ブルーは塔の外を指差した。
「すまないがしばらく外で待っていてもらえるだろうか。リオも出てくれ」
「御意のままに」
すっと礼を取って踵を返したリオの後ろで、村長は滝のような汗を流して顔色も悪い。村長の息子は険しい目をして国王であるブルーを睨みつけている。
歌姫に現状を尋ねるとまずいことでもあるのだろうかと、冷えた目を親子に送るブルーの後ろで、村長と同じくらいにうろたえた声が上がった。
「え!?ちょ……お、お待ちください」
ジョミーは愛らしい顔に困惑を浮かべて、ブルーの横をすり抜けて村長の息子の傍に小走りに駆け寄ると、何かを恐れるようにその服をぎゅっと握り締めてブルーを返り見る。
「ふ、二人でなんて困ります!キースは残してください!」
少年の服を握るジョミーの白い手が僅かに震えて、それはまるで怯えているようだった。
それまで凛とした態度を示していたジョミーが、儚げに、可憐な様子で。
少年のことは頼り、ブルーには怯える。
馴染みの相手と、初対面の王となれば仕方がないとは分かっていても、少々面白くない。
「そう怯えることはない。王は民を脅かす存在ではないのだよ、私の歌姫。ただ君と、余人を交えず忌憚なく話がしたいだけだ」
「話をするだけならキースがいても構わないのではありませんか!?」
「ジョミー」
必死の様子で自分の服を握るジョミーの手を、少年がゆっくりと撫でて外させた。
「陛下のご意向に背くな」
「でも!」
「大丈夫だ、塔のすぐ外で待っている」
村長の息子はブルーの意向に沿うためにジョミーを諭しているのだが、ジョミーは少年に縋りつくように見上げ、少年はまだジョミーの手を握ったまま。
お互いだけをまっすぐに見詰めて交わす会話は、まるで不安がる恋人を宥めているそれに見えてブルーはますます面白くない。
「し、心配じゃないのか!?」
「確かに不安だらけではあるが」
コツンとひとつ、大きくはないがはっきりとした音が室内に響いて、お互いだけを見ていた少年とジョミーの目がブルーに向く。
椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をついた態勢でブルーはもう一度、指先でテーブルを叩いて先ほどと同じ音を立てた。
「私が歌姫に何か無体を働くとでも?」
「そ、そういうことではありません!キース、ジョミー!陛下に失礼……」
「村長、あなたには訊ねていない」
ブルーの冷たい一言で、喉に物を詰らせたような青褪めた表情で口を閉ざした村長とは対照的に、息子の方はどこまでも冷静だった。
「もちろんそのような心配はいたしておりません。ただ歌姫は何分このような僻地で普段を過ごしておりますので来客に慣れておりません。陛下に失礼があってはと、その心配を彼女も私もしているだけです」
「そ、そそ、そう!その点キースなら無愛想だけどその辺りには気が利くし!……じゃなくて、利きますし……」
「そのような気遣いは無用だ。構わなくていいと言っただろう。私は、君と二人で話がしたいだけだ、ジョミー」
改めて二人で話すことを強調すると、ジョミーはその瞳を曇らせて不安そうに傍らの少年を見上げる。
少年はジョミーの手を一度強く握り、すぐに離してブルーに一礼をして背を向けた。
「キース」
それでもジョミーは背を向けた少年の服を掴んでまだ引きとめようとする。
そんなに二人きりになるのは嫌なのか。
その歌姫の様子に、苛立ちを覚えているのか傷ついているのか。ブルーは再びテーブルを叩きそうになった指を宙で制止させた。
ジョミーがどう言おうと村長の息子はブルーの意向に従うだろう。ならばこれ以上急かしてもジョミーを怯えさせるだけだ。
「大丈夫だ」
少年はもう一度ジョミーの手を服から外すと、慣れた仕草でジョミーの頭を軽く撫でた。
先ほどから見ていると、年頃の少年少女にしては随分と気安い触れ合いをしている。
もしかすると、恋仲なのだろうか。
歌姫と歌姫の村の者との間が上手くいっているという話はあまり聞かない。歌姫は国の守護者であるが、同時に虜囚でもある。歌姫の血統を絶やさないためには強引な手段も問わない村人に、抑圧からの解放を歌姫が願えばどうしても摩擦が起きるからだ。
だが、もし歌姫が自ら心を通わせる相手がいるのなら、村人たちが無体を働く必要はなく、摩擦も衝突もしないだろう。
ジョミーと村長の息子が恋仲なのだとしたら、村人へは内密にする話でも、ジョミーからは不満を聞くことはないかもしれない。
ブルーは歌姫の存在を問うために国内を回っているが、その存在を不要と判断を下しても今すぐに歌姫の制度を廃止できるものでもない。ジョミーが今の暮らしに不満を覚えていないのならそれは喜ばしいはずだ。
けれど今にも泣き出しそうな目で少年を見送るジョミーを見て、苛立ちを覚えるのは何故だろう。
僕のことがそんなにも信じられないのか。
浮かんだ不快にブルーは眉を寄せた。
三人の姿が塔の外へと出て扉が閉じられると、ジョミーは油の切れたブリキのようなぎこちない動きで、ゆっくりと振り返った。


「えっと……今、何か飲み物でも……」
「必要ないと言った。まず君も座りたまえ」
苛立ちが思った以上に声にも出てしまい、ジョミーがびくりと震えて両手を握り締める。
青褪めた少女の様子が今にも倒れてしまいそうに見えて、ブルーは内心で慌てて自らを叱咤した。
村での暮らしに不満はないか、何か村人に無体を強いられてはいないか、そんな話を聞いて何かあればそれを改善したいと思って訪ねてきたのに、これでは無体を働いているのはブルーの方だ。
宮廷で常に冷静を装っている自分が、こんなにも心の内を表に出してしまう経験などほとんど記憶にもない。何をそんなに苛立っているのか。
ブルーは両手の指を組むとそこに顎を乗せて、にっこりと優しくジョミーに微笑みかけた。
「そう怯えないでほしい。私はただ本当に、君と話がしたいだけなのだよ、ジョミー。ここでの暮らしに困っていないか、何か改善したいことはないか。そういったことを聞きたいだけだ」
「困ったことなんて……山奥だから暮らしは大変だけど、キースとか皆は良くしてくれるし、特に何も……ありません」
戸惑いながら首を傾げたジョミーは、丁寧に話そうと最後の一言を慌てたように付け足した。
キースの名前にまた眉を僅かに動かしかけたブルーは、慣れない言葉をどうにか操ろうとするジョミーの様子に、表情を綻ばせる。
「無理に丁寧に話そうとする必要はない。言葉遣いを気にして会話から気を逸らすよりは、自然体で話してくれたほうがいいよ」
「そ、そういうわけには。いくらぼくだっ……じゃなくて、私だって」
「普段はぼくと言ってるのかい?」
「い、いえ、その!」
たったそれだけのことでうろたえるジョミーが可愛くて、ブルーは微笑を零して椅子から立ち上がった。
「普段どおりに話すことに気後れするというなら、僕も普段どおりにさせてもらうよ。だからジョミーも無理はしなくていい」
「で……でも……」
戸惑い、俯く少女の姿が、ブルーの保護欲を酷くそそる。
テーブルから手を離し、ジョミーを驚かさないようにゆっくりとその傍に歩み寄った。
肩から滑り落ちた髪がジョミーの顔を少し隠してしまっていることが惜しくて、そっとその髪を掬い上げてジョミーの頬を掌で撫でる。
途端に少女は怯えたように大きく震えて強く目を瞑った。
「ジョミー、僕を見て。そんなに恐がらなくても、僕は人を食べたりしないから」
「い、いえ陛下……」
「ブルー」
「え……?」
少しでもブルーの視線が逃れようとするかのように身を縮めて固めていたジョミーは、そろりと目だけでブルーを伺う。
「僕の名はブルーだ。陛下などと呼ぶから緊張するんだよ。ここにいるのはただのブルーだと思って話してくれたらいい」
「そんなこと、できません」
無理難題を言うと思ったのか、それまで怯えている様子だったジョミーがむっとしたように眉を寄せる。
怯えて身を引かれるより、そんな表情のほうがよほどいい。怯える可憐な少女という姿は緊張から来ているだけで、本来のジョミーは気が強いのかもしれない。
村長の息子のように不安そうな目で縋られることも羨ましく思ったけれど、そんな姿も悪くない。
「どうして?」
ジョミーの素の表情を引き出したくて、その戸惑いを十分に理解してながら分からない振りで訊ねると、それがふりだと気づいたのかジョミーの表情は更に険しくなった。
大きな翡翠の瞳が感情を表に出してブルーだけを映している。
ジョミーは頬に添えられていたブルーの手を、ぐっと押し返して顎を逸らして顔を上げる。
「陛下は国王陛下です。ぼく……私にとっては雲の上のお方」
からかわれるなんて我慢ならないとでも言いたげなジョミーに、ブルーは頬を緩ませて微笑んだ。
「ああ、やっと顔を上げてくれた。怒ったその表情も、とても可愛いな」
「なっ………」
羞恥にか、怒りにか、頬を赤く染めて目を吊り上げたジョミーは、今まで見たどんな貴婦人よりも美しく魅力的だ。
歌姫と会うことだけが目的だったはずのお忍び行動は、ブルー自身でも思っても見なかった感情をいくつも引きずり出すものとなった。






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無意識でも相手を口説こうとする人。