ブルーが初めて歌姫の存在を意識して気に掛けたのは、それほど前のことではない。 歌声で国を護るというその存在はもちろん幼い頃から知ってはいたが、国境から歌うその声は人の寝静まった深夜にその気になってよくよく耳を澄ましても、聞こえるか聞こえないかというくらい。 宮廷での歌姫に対する認識は、王がいて国が存在するのなら、そこには歌姫が必ずいる、という程度のものだ。 歌姫のことはそれを保護し監視する村にすべて委ねているため、殊更目を向けることすらほとんどない。 だがそれでも、歌姫が「いない」国はありえないとも考えている。人が空気の存在を気に留めないものとほぼ同種の感覚だったのかもしれない。 それが酷く歪な体制だとブルーが初めて考えたのは、王の葬儀が終わった夜だった。 何を考えているのか、さっぱり分からない国王の言動はまるで予想もつかない。 ジョミーはジリジリと後退りしながら握った拳を胸元に引き寄せた。 山奥に引っ込んで暮らしていて、馴染みの村人としか接することもないジョミーにとっては、相手が外の者だというだけでも緊張する。 そこでおまけに女装をして、相手に男と気取られてはいけないという条件までついてきた。 まだ王が来る前、裏声でも作った方がいいかとキースに訊ねて思い切り馬鹿にされたくらいに、女性のふりに自信がない。 完璧な女装とはと悩むジョミーに、キースは化粧道具を仕舞いながら冷ややかな目でジョミーを見下ろした。 「馬鹿か、お前は」 「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは!」 「裏声なんて不自然極まりない。しかも夜になって歌声を聞けば嘘の声を作っていたことなど一発で分かる。いや、この村に来るまでに王はここに向かって旅を続けている。その間、夜にはお前の歌を聞いているんだ」 「そ、そっか……」 「幸い、今のお前の声ならまだ十分、女でも通る。怯えて秘密を抱えていますと宣伝するような行為は控え、堂々としていろ。こんな山奥で一人暮らすお前くらいの歳の女が多少がさつでも、それほど不自然ということもあるまい」 「なんかいくつか気になる点があったけど、やっぱりキースは頼りになるなあ。王が来たときもアドバイスをよろしく」 「ああ。お前は墓穴を掘りそうで心配だ。何もしなければ女でも通りそうなものを」 そんなやはりどこか引っ掛かることを言われたものの、王が来たときは傍でキースがフォローを入れてくれると思ったから安心したのに。 どうして早々にキースと引き離される事態になっているんだろう。 ジョミーは予想もつかない行動に出る王に警戒しながら、目だけで窓の外をちらりと伺った。 出て行く前に、余計な真似はするなという目で、失礼なくらいに不安がっていたくせに、いくら王の命令だからって、さっさと出て行くなんてキースの薄情者。 「ジョミー」 先ほど押しのけたはずの手が再び伸びてきて、ジョミーの顎を捕らえる。 「あっ」 「今、君の目の前にいるのは僕だ。他に気を逸らせてはいけないな」 細い繊細そうな指は、けれどもやはり男性のものだった。添えられているだけのはずのそれに逆らえず、まっすぐにブルーの紅玉の瞳を見上げる羽目になる。 「そんなに、あの村長の息子がいないと不安かい?僕と二人は嫌なのか?」 何を当たり前のことを。王と過ごす時間が長いほど、男だと知られる危険が増す。おまけに二人きりしかいないということは、王の気がジョミーから逸れる機会が少ないということでもある。 それでもキースがいてくれればまだ何かとアドバイスをくれたり、ジョミーが不審な言動をしても誤魔化してくれることも期待できてけれど、今は正真正銘一人きりでの戦いだ。 不安でないはずがない。きっとキースも外でやきもきしていることだろう。いや、案外キースのことだから、なるようになると泰然と腕を組んでいるだけかもしれない。ジョミーと同じように、天にでも祈っているだろうと断言できるのは、その父親のほうだけだ。 「ジョミー」 またジョミーの意識が他に向いていると気づいたのか、ブルーの声がやや不機嫌になる。 一体この王は何がしたいんだ。 だが王の機嫌を損ねるわけにはいかない。男と知れたら後ならともかく、正式な歌姫と思っているうちはジョミーに何かをするとは思えないが、村へとなると話は別だ。 正直な話で言えば村の大人のことはあまり好きではないけれど、村にはキースやサムやスウェナがいる。彼らに危険が及ぶかもしれないような事態は避けなくてはいけない。 ジョミーは降ろした手を一度強く握り締めると、ふと力を抜いて拳を解く。 顎を捕らえるブルーの手に、その拳を解いた右手をそっと掛けた。 「失礼いたしました、陛下。お話を伺います」 「ブルーだよ、ジョミー」 ジョミーに押されると素直に手を離した王は、けれどもその一点は引こうとしない。 「………お戯れを」 ひょっとしてうろたえて困り果てるジョミーを見て楽しんでいるのだろうかとさえ疑いたくなるが、見下ろす紅玉の瞳は真剣な色を見せるだけだ。 とにかく話が終わらなければ王が帰ってくれないというのなら、こんなくだらないことで押し問答している時間が惜しい。ジョミーは溜息をついて軽く眉を下げた。 「分かりました、ブルー。それで……」 一体何の話がしたいんですか。 そう続けるはずだった言葉が途切れた。 その名前を呼んだ途端、ブルーの表情が柔らかく微笑み、赤い瞳が眇められたからだ。 たったそれだけのことが、心の底から嬉しいとでも言うように。 ジョミーは思わず後ろに身を引き、慌ててブルーに背中を見せる。激しいその動きに乱れたかつらの髪が肩から流れ落ちてきた。 「ジョミー?」 戸惑うような声と共に肩に掛けられた手を振り払いたい衝動に駆られたジョミーは、それに耐えるために両手を握り合わせて胸に押し付ける。 「か、からかわないでくださいっ」 「からかう?」 「ぼくがあなたみたいな綺麗な人に慣れてないからって、そんな、名前で呼べとか、そんな」 笑顔を不意打ちで見せるとか。 思い出した笑顔に、顔が熱くなる。鏡を見なくても、顔が赤くなっていることなんて分かってしまう。 「綺麗?僕が……?」 ぽつりと繰り返して呟かれた言葉に、ジョミーはますます熱くなる頬を両手で抑える。 歌姫だなんて言われて、国を守護しているなんて言われて、けれどジョミー自身は歌っているときでなければただの世間知らずの子供に過ぎない。 王からすれば楽しい遊び相手かもしれないが、うろたえることをからかわれるなんて我慢ならない。 「ふむ……僕を綺麗と言うなら君のほうがよほど」 「はっ!?」 「いや……君は可愛いというべきかな。僕の歌姫」 「だからそんなことを言って!」 耳を塞いでしまいたくなるような声色で囁かれて、ジョミーは思わず振り返ってしまう。 きっと大笑いしたいところを堪えているに違いないと思っていたのに、予想もしない真摯な表情が待っていて言葉に詰った。 後ろに一歩下がると、踵がチェストにぶつかった。 「ジョミー、君に尋ねたい」 「な、に……を……」 ブルーの手が伸びてきて、ジョミーは肩を竦めて目を瞑る。どうしてそんなことをしたのか分からないけれど、ブルーの顔を見ていられなかった。 予想に反して、ブルーの手はジョミーの肌には触れず、落ち掛かっていたかつらの髪に触れるだけだった。 「あの村長の息子は、君の恋人か?」 「………は?」 思ってもみない質問に、ジョミーは強く瞑っていた目を開けてブルーを見上げる。単なる世間話でも挟んだのかというような質問なのに、その表情はどこまでも真面目なままだ。 「え……キースは別にそんなんじゃ……ただの幼馴染みってだけで……」 そんな恐ろしいことあってたまるか。キースも自分も、男だ男。 心の中ではそう悪態を吐きつつ質問の意図を考えていたジョミーは、はっと気づいて途中で止める。 歌姫は子守唄で国を守護することと並んで、後継者たる子供を産むことが重要な義務とされている。言い方を変えればそれ以外の何も望まれてはいない。 キースとの仲を訊ねたのは、さっさと子供を産んでおけということが言いたいのだろうか。 どきどきと強く胸を叩いていた何かが急に醒めていくようで、ジョミーは唇を噛み締めた。 優しげな声や言葉をかけても、結局ブルーも村の大人と同じだ。いや、村の大人は王の命令に従って歌姫を管理しているのだからそれも当然か。 あなたには残念だけど、ぼくに子供は産めない。 目の前のブルーに心の中で舌を出して悪態を吐きながら、ここはどう答えておくべきかを目まぐるしく考える。 村の大人は、ジョミーが子供を産めないことを知っている。彼らが求めてくるのは、子供を産ませることだ。その際の相手は誰でもいいと考えている。まだ十四歳だからそこまで強くは迫られていないが、それも時間が経つほどにどうなるか分からない。 だからここでジョミーが誰ともそういった行為をしていないとブルーが知って村長を急かしでもしたら、大人たちは慌てて今すぐにでもジョミーに子供を作れと迫ってくるだろう。 ならば答えは当然決まっている。 「ご心配いただかなくても、歌姫としての役目は果たします」 「ジョミー?役目とは……」 「もちろん、毎晩歌を歌うこと。それと……」 望む答えを返そうとしているのに、何故か眉を寄せて衝撃に耐えるような表情を見せるブルーを不審に思いながらも、かつらの髪に触れていたその手をそっと押し返した。 「次の歌姫となるぼくの子供を、作ること」 どうだと胸を張ってまっすぐに見上げた紅玉の瞳から、一切の感情が消えたかのようだった。 それはよかったと返ってくるはずの言葉が、いつまで経っても返ってこない。それどころか彫像のように固まって動かないブルーに、ジョミーは首を傾げる。 「ブルー?」 「相手は」 どうしかしたのかと訊ねようと名を呼ぶと、それに重ねるようにブルーが口を開いた。その顔色は血の気が引いたように真っ白だ。 「相手は、外で待っている彼か?」 ジョミーは驚いたように目を瞬いて、それから頬を染める。 随分と下世話なことを聞いてくる。歌姫の子供は歌姫の腹から生まれさえすればいいのだから、父親が誰であるかは問われない。 ジョミーは男だし、友人のキースとそんなことなどありえるはずもないから悪趣味だと思うだけだが、もしジョミーが女の子だったらこんな質問はとんでもない屈辱だっただろう。 「そうだと答えたら満足ですか?そんな話をしにわざわざこんな山奥まで?」 国王とはよっぽど暇なんですねと嫌味の一つでも言ってやりたかったが、さすがにそれは我慢する。 肩から滑り落ちた嘘の髪を後ろに払い、ジョミーはさっきまでは綺麗だと思っていたブルーの顔から目を背けた。 「別に、キースとは限りませんよ。あなたたちはぼくの、歌姫の子供でありさえすれば、相手なんて誰だっていいんでしょう?」 つんと顎を逸らして腕を組み、身体ごとブルーから横を向いた。 最大限の嫌味を込めたつもりだった。どうせそんな当て擦りを言ったって、彼らには当然の話なのだから、気まぐれを起こしてこんなところまでやってきた王様には痛くも痒くもないに違いない。 そんな風に顔を背けたジョミーのその鼻先を、風が横切る。 間髪置かずに激しい音がジョミーの耳を打った。 驚いて目を開けたジョミーのすぐ鼻先に、王の腕がある。その腕を目で辿ると、強く握られた拳が壁に押し付けられて震えていた。 拳で壁を殴ったのか。 「な………」 組んでいた腕が解け掛けた状態で、ジョミーは慌ててブルーを振り仰いだ。 だがブルーはその顔を見られることを厭うように、すぐに拳を引いて踵を返した。 「ブ……陛下……?」 親しくするような態度を見せる王を相手に調子に乗りすぎたかと、ジョミーは今更ながら恐る恐るとその背中に声を掛ける。 だって、こんな山奥に虜囚となっている身なのだ。やってきた看守の親玉を相手に嫌味にひとつも言いたくなっても仕方ないじゃないか。 態度を豹変させたブルーの背中に不満を覚えながら、これで村に災厄でもあればと思うと気が気ではない。 「陛下、お気に触ったのでしたら、申し訳ありません」 そっちが振った話題だったけどねという不満はどうにか押し込めて、深々と頭を下げる。 衣擦れの音と、床に見えたブルーの足で彼が振り返ったことがわかった。 腰を曲げたまま、何かの言葉が返ってくることを待つ。王の許しもなく勝手に顔を上げるわけにもいかない。 「………いや、君が謝るようなことでは………」 戸惑うような、何かを押し込めるような、そんな声は途中で途切れた。 どうしたのだろうと疑問に思うジョミーの目に、再び背を向けた王が無言で歩き去るその足が見えた。 腰を曲げたままのジョミーの耳に、扉が開く音が聞こえる。 「また明日に」 その一言を残して、扉は閉められた。 そろりと顔を上げると、部屋の中にはもう王の姿はない。 「……えー………なに、それ……」 下世話な話を持ち出したのはそっちのくせに、どうして同じく下世話な嫌味で返せば怒るのか。 ジョミーはかつらの上から頭を掻いて、窓辺から外を伺った。 ブルーは振り返りもせずにずんずんと一人山道に向かって大股で歩いていて、その後を慌てたように従者と村長が追っている。 「わっかんないなあ。やっぱり王様って我侭……」 その我侭に付き合わされるこっちは堪らないよ、と溜息を零したところで、激しい勢いで扉が開いた。 「ジョミー!王に一体何を言った!?」 「あ………」 不機嫌な様子で出てきた王に、この幼馴染みが怒らないはずがない。 ジョミーはもたれていた壁から身体を起こして、どう言い訳しようと冷や汗を流した。 |
可愛い子に出逢えた天国から、知らされたことに地獄の王様と、 訳が分からない気まぐれに付き合わされた気分の歌姫。 すれ違いです(^^;) |