ただひたすらに、歌姫の塔から離れようと足早に山道を下る。
後ろから従者と歌姫の村の村長が慌ててついてくる気配は察していたが、振り返る気にも足を緩める気にもならない。
身体の中を嵐が駆け巡っているかのようだ。
ジョミーから逃げるように塔を出たとき、正面に立って待っていた村長の息子の姿を見た途端に走った感情。
あの衝動は知っている。それは馴染みの深いものだ。
ブルーが抱くことは滅多になく、向けられる側になったことは幾度となくあるあの感情。
指先が冷たく冷えるようだった。気がつけば手は腰の剣に掛かろうとしている。
柄を握る寸前に、己が自然と成した行動に気づいたブルーは眉を潜めて手を降ろした。
少年に覚えた感情は知っている。だが初めて会った少年になぜその感情を抱いたのか、それが分からない。
少年から目を逸らすように歩き出すと、後は止まらなかった。
聞く者の心を揺さぶる愛らしい声が紡いだ言葉は、聞くに堪えないものだった。
「歌姫の子供でありさえすれば、相手なんて誰だっていいんでしょう?」
指先で触れた彼女の頬は絹のように滑らかで、間近で覗き込んだ翡翠はその中に永遠を閉じ込めたのかと思うほどに深く澄んでいた。
彼女の幼い身体を誰かが組み敷いて、あの柔肌に直接触れたのか。ブルーが触れた頬や手ではなく、質素な衣服に包まれたその下に、子供を成すという目的だけで。
「―――っ!」
山道に落ちていた小枝を足が踏み砕いた。
その音に足を止め、ブルーは一度目を閉じた。すぐ隣の木を殴りつけそうになった拳を握り締め、木の幹に叩きつける代わりに額に運んで押し付けるようにして当てる。
なぜこんなにも感情的になっている。知っていたことではないか。
歌姫は、その血を絶やさぬために必ず子を成さなければならない。彼女を監視する者は、そのための手段を選ばない。
そしてそれを、村の優先的保護と言う形で推奨しているのは王室だ。
ブルーは押し付けていた拳を軽く浮かせて一度その白皙の額をごつりと殴りつけると、そのままもう一度強く額に押し付けた。
「リオ」
「はい」
すぐ後ろからは、当然のように即座に返答が返る。王に振り切られるような失態はもちろん、その王のおかしな様子に動揺することもなく、まるで何事もなかったような声色。
振り返るとリオは三歩離れた斜め後ろという、いつもの定位置で当たり前の顔をして立っていた。他の従者と村長は、どうやらブルーの歩く速度についてこれずに少し遅れているらしく姿が見えない。
「リオ。僕はしばらくこの村に滞在する」
「二、三日のご予定を延ばすということですか?それはいかほどに」
視察の予定がずれ込めば、その分だけ様々な場面で支障をきたす恐れがある。それをなるべく最小限に抑える為にも、リオの協力は不可欠だ。
「出来る限りだ」
「………御意のままに」
突然の宣言に疑問や思うところがあるはずだが、リオはそういったことには口を挟まない。
王都で現在ブルーの代理を務めている古馴染みの大臣は、「それは口を挟もうと嗜めようとあなたが聞く耳をもたないからでしょう」と呆れたように言っていた。
とにかく、リオと王都にいる大臣はブルーの決めたことのためならば、無理も通す。そのリオが帰都を迫るようになれば、それが本当のタイムリミットとなるだろう。
「試算では、どれほど取れる?」
「よく伸ばして七日といったところでしょうか」
「最低十日は欲しい。頼む」
頼むと言いつつ、それは命令だ。リオは木々の間から覗く空を見上げて、軽く嘆息をついて首を振った。
「ハーレイ閣下に泣いてもらうことになりそうですね」
リオはできないとは言わなかった。それが答えだ。
ブルーはにやりと笑って、その肩を軽く叩いて村に降りるべく踵を返す。
「頼りにしている。王都に帰れば何か礼を贈るよ。ハーレイにもね。アルテメシア産の白なんてどうだ?芳醇な味わいが好みだと言っていただろう」
「いい具合に閣下が釣れそうですね。しかし不測の事態についてはお約束しかねますよ?」
「承知しているさ」
褒美なんていいから帰ってください、と王都で叫ぶであろう大臣の姿が二人の脳裡には浮かんでいたが、お互いに想像もしなかったふりをした。


リオから承諾の言葉を引き出したブルーは、置いていったリオの部下と村長が追いつくのを待って村まで降りた。
村長はジョミーが何かをやらかしたと思い込んでいて、運動で紅潮した顔を青褪めさせるという奇妙な様子でよく分からない言葉で謝罪を繰り返した。
面倒だし、何より自分の行動のせいでジョミーが責められるようなことは我慢ならなかったので、ジョミーには何の落ち度もないことを何度も強調したけれど、「あの格好は決して悪ふざけなどではなく」とはどういう意味だったのだろう。よく似合っていたのに。
謝る村長を適当にあしらったブルーには、一行の中にその息子の姿が見えなかったことのほうが重要だった。彼は塔に残ったのか。
そう思うと、胸中に激しい勢いで不快感が膨らむ。
その不快感は、麓の村まで戻ると更に一層と激しくなった。
彼女は言った。
「歌姫の子供でありさえすれば、相手なんて誰だっていいんでしょう?」
一体何人の男が、彼女に触れたのだろう。
家の裏手で薪を切っている青年や、ジョミーと同じ年頃で籠一杯に野菜を詰めた少年や、果ては牛を牽いている老人を見ても疑念が浮かんでは重みを増して行く。
護るべき自国の民を見て、こんなに苦々しい思いに駆られることがあるなんて。
あの、土に塗れた手は彼女の胸に触れたのだろうか。
あの、斧を握る武骨な手は彼女の足に触れたのだろうか。
あの、生きた年月の長さを刻んだ手は彼女の……。
ブルーは軽く首を振って息を吐いた。
義務で子供を産むと言った彼女に驚いて、耐え切れずに夜伽の相手を訊ねるなどと愚かな真似をした。おまけに村に降りれば下世話な想像を膨らませて、これ以上は落ち込みそうもないほどの深い自責の念に駆られる。
振り仰いだ山の中腹には、つい数刻前に訪れた歌姫の塔が見えた。
朝からあの中にいて、そして今も残っているジョミーの幼馴染みだという少年。
一体今頃二人で何を話しているだろう。
ジョミーのブルーへの心象は、決してよくないだろう。彼女は最初からブルーと二人きりになることには消極的だったし、その挙句にあんな質問だ。
無礼で、彼女の尊厳を傷つけるような質問をぶつけた。傷つけられた繊細な心を、少年に縋ることで癒しているかもしれない。


酷い侮辱だと涙を零すジョミーの目尻を、少年の手が慰めるように撫でる。
「泣くな、ジョミー。そんな愚かで下劣な問いをする王こそが汚れているんだ。お前が涙することなど何もない」
「でも、キース」
涙を湛えた瞳で少年を見上げたジョミーは、やがて耐え切れないようにと俯いてそっと両手でその身を抱き締めた。
「ぼくは……歌姫だから……この身体は、もう、一体どれくらい……っ」
「ジョミー!」
少年の強い叫びに、ジョミーは怯えたように身を竦める。
強く瞼を閉じたその端から零れ落ちる美しい涙。苦しみ、悲しみに暮れる彼女を待っていたのは、叱責でも侮蔑でもなく、優しい抱擁。
「お前は汚れてなどいない。身勝手な国の決まりなどでお前が汚されたりするものか。苦しいなら、この胸で泣け。だが自らが汚れているなんて、そんなことは思わないでくれ」
「キース……」
ジョミーは硬く縮めていた身体の力を抜いて、その身を少年に預け……。


「く………っ!」
ブルーは畑の柵に手を掛けて、叫びだしたい衝動を堪えた。
勝手に想像したことで勝手に焦燥してどうする。
大体、ジョミーは自らのことをぼくと呼び、ブルーに対してもからかわれていると思って睨みつけてくるような気丈な少女だ。
こんなくだらない三文芝居のような行動を取るものか。
「陛下」
後ろから、控え目な咳払いと小さな声が聞こえて、ブルーはいつの間にか両手を柵に掛けて今にも押し潰そうとしている態勢になっていたことに気づく。
柵を強く握り過ぎて硬くなった指をゆっくりと引き剥がすと、掌と関節の上にしっかりと木枠の跡がついていた。
どうやら少しも冷静に村を見ることができそうにない。
ブルーは息を吐いてリオを返り見た。
「……一度、宿に戻る」
今は村の男を見ると、誰にでも塔の前であの少年に抱いた感情を向けそうになる。
村にいる間は村長の家に滞在することになっているので、その先導に沿って歩きながらブルーはあまり男は目に入れないようにと無駄な努力を試みた。
一体どうしたというのだろう。
あんな想像逞しく、勝手な光景を思い浮かべることなんて今まではなかったはずだ。おまけに自国の民、我が子とさえ言える民に対して、敵意を抱くなどこんなおかしな話はない。
村長の家の奥まった部屋に通されると、ブルーは人払いをして疲れたように椅子に身体を投げ出した。
体力的なものではなくて、精神的な疲労が蓄積しているような気がする。身体よりも頭が重い。いいや、重いのは胸の奥かもしれない。
恐らく医者と教師を兼任しているのだろう、薬草を詰めた籠を手に子供たちと歩いている男を見かけては、まだあどけないジョミーがよからぬことを教えられそうになっている姿が浮かび、狩りから帰ってきたところの体格のいい男を目の端に見つけると、その膝で小さな身体が無体を強いられている姿が浮かぶ。
「一体どうしたというんだ、僕は」
ブルーは額を押さえて眉間に皺を寄せながら目を閉じた。
こんなことばかり考えて、これこそジョミーに対する侮辱だ。ブルーの脳裡で彼女がどれほどの辱めを受け、何人の男がそこにいたか。
思い出すだけでも腸が煮えくり返る。
「……重症だ……」
閉じた目を瞼の上から掌で覆い、深い息を吐き出した。






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想像力逞しい王様(しかしシチュエーションはベタ)
ひとり上手になってますよ(^^;)
次回は王様の妄想じゃない、その頃のジョミー。