「帰っていない?」 村長に息子の所在を尋ねると、再び楽しくない答えを聞く羽目になった。 ジョミーは彼との交際やそれに類することは否定していたけれど、それでも親しい様子だったことに変わりはない。 彼から歌姫のことについての話を聞きたいとようやく心の整理をつけてみればなんということか。 空を見上げると、既に日は随分と西に傾いていた。 「彼は朝からずっと彼女の元にいるのか?歌姫は夜に備えてこの時間は休息しているものだと思っていたよ」 蒼白になった村長と、傍らに控えていたリオに意外そうな顔をされて、つい嫌味じみた言葉になっていたと気付く。 「……いや、分かった。歌姫と良い関係が結べているのなら結構だ。歌姫と村の関係は簡単に悪化する。難しい役ゆえ、喜ばしい話だ」 そう大人気ない態度を誤魔化すと、村長は複雑そうな表情を浮かべた。 村長が部屋を辞して、傍に控えていたリオの視線を感じながら窓辺に寄る。 窓から見える山の上の塔。 あそこにジョミーと……村長の息子がいる。 ジョミーと二人きりで、自分以外の男がいる。 胸の奥で消化不良を起こしているような、胃もたれにも似た不快感が湧き上がった。 塔を見上げる眉間に皺が寄り、睨みつけるような表情になっていることにも気づかずに、ぱたりと足で床を叩いた。 窓にもたれて腕を組みながらイライラと、一度動くと足は止まらず爪先が床を叩き続ける。 何を、しているのだろうか。 ジョミーの美しい姿を思い出す。 その正面に黒髪の少年の姿が浮かんで、苛立ちは更に強くなる。 少年の腕にそっと寄り添うジョミーの姿を思い浮かべたところで、ブルーは大きな音を立てて床を蹴った。 「リオ、一人になりたい。夕餉も無用だ。明日の朝まで誰も部屋に入れるな」 「……御意」 夕食すらも拒絶したブルーに、窓硝子に映ったリオは何か言いたげな表情を見せたが、結局何も言わずに退出した。 しばらくの間を置いて、備え付けのチェストに向かったブルーはペンにインクをつけてさらさらと文字を綴る。 護衛というものは、護られる者にもその心構えがなくては遂行することは難しい。 王という己の立場を思えば、護られることは義務にもなる。たとえ腕に覚えがあろうとも、決して自ら囲いの中から出てはいけないのだ。 そんなことは、今更確認しなくとも十分に分かっている。 分かっていて、行く先と自ら戻るので追うことを固く禁じた旨を記すと、ペンを置いた。 これでも行く先を明記したのは、何かブルーの裁可が必要な話が舞い込んできたときのための王としての配慮だ。本当なら何があっても邪魔が入らないよう、黙って出て行きたい。 「……歌姫はこれからが役目だ。そんなときに塔にいても、仕方がないことくらい……」 分かっているのに、どうしても部屋で明日の朝を待つことはできそうにもなかった。 そうして窓から護衛の目を盗んで一人抜け出し、二度目に辿り着いた塔。 ただ塔の中で、その近くで彼女の歌声を聞く。 それだけのつもりだったのに、口から滑り出た要求はその上を行った。 歌姫以外は立ち入り禁止の塔の最上階でその歌を聞かせて欲しいと。 当たり前だがジョミーは酷く困惑している。 それが分かっていて、それでも願いを撤回することはできなかった。 塔に到着してジョミーの許可を得て扉を開けたとき、目に飛び込んできた光景に頭が追いつかなかった。 椅子に足を掛け、白い肌を太股まで晒したジョミーはこれ以上ないくらいに大きな目を見開いて、やはり硬直した。 慌てて謝罪しながら扉を閉じて、ステップに座り込みながら網膜に焼きついた白い肌を忘れようと、懸命に首を振って自らの不明を恥じる。 なんということだ、ジョミーの着替えを覗いてしまった。ただでさえ朝の失態で嫌われているのに、これ以上まだ失態を重ねるなんて愚か者の所業だ。 掌でその頭を叩いて恥じ入っていたところに、扉が開いて慌てて振り返る。せめてわざとではないのだと分かってもらいたいと懸命に説明を繰り返すと、ジョミーは肩を震わせて背中を見せる。 故意ではないと信じようと信じまいと、着替えを覗かれるなんて女性には泣くほどつらいことだったに違いないと大いに慌てると、危惧に反してジョミーは大声で笑った。 自分が扉を開けて良いと許可したのだと笑うジョミーに、怒らせても傷つけてもいなかったのだと嬉しく思いながら胸を撫で下ろすブルーの耳に、聞き捨てならない一言が飛び込んだのはそのときだ。 「てっきりキースが戻ってきたのかと思って、見苦しいところをお見せしました」 村長の息子だと思って入室を許可した。 ということは、彼にならあの姿を見せてもなんとも思わないということだ。それに彼が塔を出てすぐに着替え始めたというのは、一体なぜ。 テーブルに置いていたタイツを手にしたジョミーは、スカートから覗く膝から下が当然ながら素足だった。 考えると嫌な想像に発展しそうで、ブルーは拳を握り締めて思考を無理やり遮断する。 そこでようやくこんな時間にブルーが訪ねてきたことに思い至ったらしいジョミーが驚いた様子で振り返り、その翡翠色の瞳を見つめた途端に、願いがより図々しいものに摩り替わってしまった。 ジョミーは手にしていた荷物を取り落とし、ブルーの頼みに酷く衝撃を受けた様子を見せる。 国のために歌われる歌を、国王であるブルーが邪魔をするはずもない。ならばジョミーが戸惑い嫌がる様子を見せるのは、ブルーに傍にいて欲しくないからに他ならない。 「……許可して貰えないだろうか」 「えっと……でも……」 視線を彷徨わせ、返答は濁されているが色良くないのは明白だ。 「歌ってるところを見るって言っても、楽しくないと思います。きっとすぐに飽きます。だって、ただ王都に向かって歌うだけだし……」 「そんなことはない!君の美しい歌声を間近で聞ける、それに飽きがあるはずもない」 これはブルーにとって当たり前でなんの不思議もない主張だったのだが、ジョミーは目を瞬いて少し頬を赤らめた。 「た、ただの子守唄です。あ、いえ、国の安寧を願う大切な歌ではありますが」 「ただの、だなんて。君の歌が、君の声が、どれほど者の夜の無聊を慰めるか。僕がどれほど君の歌に焦がれたか……知らないからそんなことが言える」 「そんな……お、お戯れを」 ジョミーは困ったように視線を床に落として、ブルーに再び背を向けた。 「陛下ほどの方なら、もっと素晴らしい歌を聞かせる者がいくらでも雇えるでしょう。僕の歌に価値があるのは、歌姫の歌だから、それだけで……」 「君の歌以上に価値のある歌を、僕は知らない」 その背中に向かって一歩足を進めて、驚かせないように細心の注意を払ってそっと両肩に手を添える。 それでも十分ジョミーは驚いたらしく、肩が大きく跳ねた。 「君の歌だから聞きたい。君の声だから、聞きたい」 もっと何かを語って欲しい。もっとその声を聞かせて欲しい。歌姫の歌は、国に住まうすべての民に等しく与えられるものだ。だがここでブルーと語らうその声は、ブルーだけに向けられたブルーだけのもの。 俯いたジョミーの耳は真っ赤に染まっていて、ひどく愛しい想いが募る。 誘われるままに赤く染まった耳朶を唇で食もうと無意識に身を屈める。 その唇がジョミーに触れる寸前。 ブルーの腹から盛大に空腹を告げる音が鳴った。 尾を引く音が過ぎ去り、沈黙が部屋に降りる。 政務が押して食事を取れずに一日を過ごした日にだって、こんな失態を犯したことはない。 空腹すら操れるのかと大臣のハーレイに呆れられたことさえあるというのに、この大事な場面でこの失態! じわじわと昇り来る羞恥と情けなさにブルーの顔に熱が昇り始めたとき、触れていたジョミーの肩が揺れた。 「っ………も、もしかして、夕食を取られていないの、ですか?」 大声で笑いたいのを堪えているらしく、ぶるぶると震えながら少々引きつった声で訊ねるが振り返らない。きっと表情までは取り繕えていないのだろう。 「そう……夕餉は断ってきた。………ジョミー、我慢せずに大声で笑っていいよ」 むしろ笑ってくれたほうが助かると呟けば、ジョミーは塔全体に響き渡るほどに声を上げて笑った。 ひとしきり笑い転げたジョミーは、ようやく笑い収める頃になって笑い過ぎたと思ったのか、ふと気づいたように表情を改めてブルーに恐る恐る目を向けた。 涙を拭いながらのその仕草に、ブルーは怒っていないと表して肩を竦めながら苦笑して見せる。 それに安堵したように零したジョミーの微笑みに、この失態も悪くなかったかもしれないと思えてしまう。 「陛下のお口に合うとは思えませんが、もしよろしければぼくと食事にしませんか?ぼくもまだ食べていないんです」 ジョミーから固さが取れただけなく、思いがけない提案を出されて、いよいよ自らの失態も悪くなかったと力を込めて拳を握り急いで頷いた。 「君がいいと言ってくれるなら、その言葉に甘えたい。本当にいいのかい?」 「はい。大した量も種類もない魚とスープとパンだけの食事ですが」 「あ……いやしかしそれは君の食事だろう。今から役目につく君からそれを分けてもうらわけには……」 嬉しくてつい頷いたが、気がついたことに尻込みするとジョミーは肩を竦める。 「陛下を前にして、ぼくだけ食べるなんてできるはずもないじゃないですか」 呆れた調子で言われて、まったくその通りかと考える。 「では、僕はしばらく外で時間を潰してこよう。君が塔に登る頃に戻ってくるから……」 「それこそそんなことさせるわけにいきませんよ。いいから貧しい食事が嫌というわけじゃないなら座ってください」 ジョミーはキッチンに向かって歩きながら、軽く肩を竦める。迷惑だろうに、そんな様子は見受けられないのが不思議だ。 ここで出て行けば、ジョミーの言う貧しい食事とやらが嫌だということになるのだろうか。 ジョミーと食事を共にできることは本来喜ばしいブルーにとって、逃げ道を塞がれた格好なのは好都合だ。 言われた通りに座ろうと椅子に手を掛けて引いたところで、ふと自分は招かれざる客であることに思い至る。 「なにか手伝うことはあるかい?」 竈に火をつけようと火打石を手にしたジョミーは、驚いたような、呆れたような顔で振り返る。 「ですから、陛下は座っててください。水回りの仕事なんてやったことないでしょう?」 「そ、それはそうだが……」 むしろ邪魔になるかと返答に詰ったけれど、ジョミーが手にしたものに目を止めて歩み寄ると、火打石を取り上げる。 「火を点けることくらいはできる」 「なるほど」 むきになったと思ったのか、ジョミーは笑いを堪えながら納得したように頷いた。 これで火を点けられなかったら恥を通り越して情けなさ過ぎる。 一回で点けて見せると簡単な仕事に僅かに緊張したものの、今度こそ失敗する事無くすぐに藁に火を点け、竈に放り込むことができた。 炎が薪を燃やし始めると、ジョミーは鍋をその上に掛けながらブルーを見上げる。 「ありがとうございます、陛下」 それはどこか初めてのお手伝いを成功させた子供を誉める母親を彷彿とさせたのだが、ジョミーに礼を言われたということに、心が沸き立つ。 こんなに地に足がついていないようなことは初めてだ。 一体自分はどうしたのだろうかと不思議に思うのにひどく楽しい時間に胸を高鳴らせて、先ほどから気になっていたことを訂正してみることにする。 「陛下ではなくて、ブルーだよ」 そう呼んでくれてと朝に頼んだときは、ジョミーも承諾してくれた。けれどあれから無粋な質問を投げかけて怒らせていることを思うと、少し勇気のいる願い事だった。 だがジョミーは軽く目を瞬いただけで、拒絶の様子は見せずに頷く。 「分かりました……。ブルー、ありがとうございます」 苦笑と共に寄せられた言葉。 天にも昇る心地とはこんなことを指すのかと、感動を覚えている間にジョミーに背中を押されて椅子まで連れ戻された。 「じゃああとは座って待っててください」 「他に何か手伝うことは……」 「ありません。もう仕度はできているから暖め直すだけなんです。すぐですから……待っててくださいね?」 軽く首を傾げて、伺うようにそんなことを言うジョミーは仕草から何から可愛らしくて仕方がない。 ジョミーが待っていろというのなら、いつまでだろうと待っていそうだ。 ジョミーと食事、ジョミーと過ごす時間。 たったこれだけのことに何故こんなにも幸せを味わえるのだろう。 ほどなくしてテーブルに並べられた料理は、ジョミーが最初に言ったとおり煮付けた魚とスープとパンだけという質素なものだったが、暖かそうな湯気の立つ食卓は幸せを具現化したらこうだと今のブルーなら言い切れそうな、それほど眩しいものだった。 「これくらいしかできないんですけど……不味かったら無理して食べなくていいですからね?」 「いや、そんなことはないよ。ありがたくいただこう」 感動に震えそうになる手をどうにか押さえて、銀の食器ではない、真っ白な陶器の器でもない初めての食事は、それなのに今まで食べたどんなものよりブルーの胸を暖かく満たした。 「―――うん、とても美味しい。ジョミー、本当に美味しいよ。君は料理も上手いのだね」 「本当ですか?お口に合ってよかった!作ったのはキースなんですけど、喜んでもらえてよかったです」 ナイフとフォークを手に、ブルーは笑顔のままで動きを止めた。 美味しいと言ったのは本当だ。ジョミーがブルーの言葉を疑わず素直に喜んだのもいい。 誰が作った食事だろうと、ジョミーと食事をしている事実にも変わりはない。 それなのに、急に込み上げた感情はなんと名付けるものなのだろう。 あの男は、ジョミーの家でジョミーのための食事まで作るのか。 「………彼は、随分と細かく気が効くようだね」 ブルーの中の激しい葛藤など知る由もなく、ジョミーはスープを掻き混ぜながら屈託なく笑う。 「そうなんです。今日なんてぼくが朝から一日中眠ってたのに、ごはんまで作ってくれて。ちょっと無愛想だけどあれで案外凝り性だし、面白い奴ですよ」 ジョミーの口から他の男を誉める言葉が出たことは癪に障ったが、その内容は少しブルーの心を救った。 一日中眠っていた、と。ならば彼はただこの塔にいただけで、何度か想像したような事態にはなっていなかったのか。 「……彼は良い友人なのだね」 僅かな緊張を覚えながら何気ないふりをして問うと、ジョミーは迷うことなく頷いた。 「はい。腐れ縁みたいなものだけど、本当にいい友達です」 「そうか……友人か」 きっぱりとジョミーが友人と言い切ったことに、ブルーは今度こそ無理をせずに笑顔で頷くことができた。 誰が作った食事だろうと、ジョミーとの食卓が楽しいことに変わりはないと、今度こそ心から思いながら。 |
この話のブルーはお笑い属性がついているのでは……(^^;) じ、次回はシリアス展開ですよ!(途中から) |