目の前の王様は、こんなに質素な食事なのに本当に楽しそうに魚を口にしている。 これは王の好みの範疇が広いのか、それともキースの料理の腕前が良いのか。 ジョミーは感心しながら、そこに座っているだけで粗末な塔の中を輝かせる存在をしげしげと眺めた。 あるいは空腹が過ぎたのかもしれない。空腹は最高のスパイスというくらいだし……先ほど盛大に鳴った腹の音を思い出して、慌てて笑いを噛み殺した。 親しげに語りかけてきたり、下世話な事を聞いてきたり、突然怒ったかと思えば、大笑いしても咎めない。小さな子供が手伝いできることを探すようにジョミーの周りを右往左往したりして、この人は本当に読めない、おかしな人だ。 ふと、ジョミーの視線に気づいたのかこちらを向いた赤い瞳に、ぶしつけに眺めすぎたかと慌てたけれど、ブルーはにこりと綺麗な微笑みを浮かべた。 「ジョミーと囲む食卓は本当に楽しい。食事とは、こんなにも暖かく楽しいものなのだね」 驚いて、咄嗟になにも返すことができなかった。 楽しいと言っても、特別な料理があるわけでも、何か気の効いた話題を提供できたわけでもない。 けれど確かに、ジョミーもすこぶる楽しい気分であったことに違いはない。 時折、キースやサムやスウェナが一緒に食事をしていくことがあるとはいえ、基本的にジョミーはいつだってこの塔にひとりきりだ。 思い出すのは、今は亡くなった母との食卓。食事に限らず、あの頃はもっと楽しく過ごしていたように思う。 目の前の王様は、なに不自由なく暮らしているはずだ。ジョミーのように山奥に一人で暮らしているわけでもなく、こうして王都を出て国内を巡ることだってできる。 けれど王という立場では、今のように誰かと食卓を囲むなんてことはないのかもしれない。 「………ぼくも……」 「うん?」 木目の浮いたスプーンで薄いスープを優雅に口に運んでいたブルーは、消え入りそうな小さなジョミーの声も聞き逃したりせずに耳を傾けてくれた。 朝に見せた苛烈な色なんて、まるで嘘のように凪いだ瞳が、真っ直ぐにジョミーを見つめている。 「ぼくも、とても楽しいです」 あるいはこんなこと、王を相手に告げるなんて無礼に値するかもしれないなんて、考える余裕もなかった。 ただ口から滑り落ちるように出た言葉に、ブルーは手にしていたスプーンを取り落としかける。 「本当に?ジョミー、本当に僕と共に過ごす時間を楽しいと思ってくれるのかい?」 「え……ええっと……」 思ったことをうっかり口にしてしまっただけなのだけど、妙に弾んだ声で訊ね返されて、返答に詰る。 楽しいことは楽しいし、ブルーが喜んでいる様子に嬉しくなったのも本当のことだ。 だがこんなに激しい反応を返されるとは思いもしなかった。 何かを期待しているかのようにキラキラと輝く真紅の瞳に、戸惑いながら小さく頷く。 「よかった!急に押しかけて、その上君の食事を半分奪い取ることになって、君を不快にさせていたらと、そればかりが気に掛かっていたんだ」 「奪い取るだなんて!だって、ぼくが誘ったんですよ?」 「いや、だが君の立場で思えば、勝手に飢えていろとは言えないだろう」 「飢え……そんなのあなたじゃなくでも言わないですよ!」 どんな突き放し方だと思わず笑えば、ブルーはますます嬉しそうに表情を和らげた。 楽しくて暖かくて、けれど妙に焦ったり困ったり、少なくともひとりきりの味気ないものではない食事を終えると、当然ながら話は最初に戻る。 「それで、君の歌う姿を見せてはもらえるのだろうか」 いいと言ったのに食器を調理場へと一緒に運んできたところで、ブルーはさっそく真剣な様子で再び迫ってきた。 色々と抵抗したけれど、思えばこの人は初めからずっと強引だった。 名前を呼べと強要してきたり、歌を聞かせてくれといって頑として譲らなかったり……そもそも、この塔を訪れてきたことだって、王様の気まぐれだ。だったら最後まで付き合えば、きっと気が済むに違いない。ただ歌っているところを見ているだけなら、男だなんて気づかれる心配もないはずだ。 それに窓の外を見ると完全に日は沈み、仕事の時間も迫っている。 水を張った桶に食器を放り込みながら、ジョミーは溜息を零した。 「分かりました。あなたの思うようになさってください」 「本当かい?」 月明かりだけの薄暗い塔の中で子守唄を歌うだけのところを見物して、一体何が楽しいのかさっぱりと分からないけれど、ブルーは声を弾ませて喜びを顕わにする。 王様なんて、娯楽らしい娯楽はやり尽くしていて、つまらなさそうなものに逆に興味が湧くのかもしれない。 ジョミーはテーブルまで戻ると、椅子にかけていたスウェナのストールを手にして振り返る。 「塔の最上階は冷えますから、風邪を引かないように暖かくしてきてくださいね」 「君は?そんな薄手のストールでは寒さなんて……」 更に視線を下げたブルーは、唐突に首を捻って顔を背けた。 何かおかしなところがあっただろうかと下に目を向けると、素肌を晒した足が見える。そういえば、着替え中に踏み込まれてそのままだった。 「ぼくは歌っているから、そんなに寒くないんです。タイツを履いてから行くので、先に最上階まで行ってください」 「わ、分かった」 壁際に掛けていた外套を手にすると、ブルーは急いで塔の上階に続く扉の向こうに消えた。 女性の着替えを、なんて慌てていた人だ。きっと先ほどのことを思い出したのだろう。 「王様って、案外純情なのかなあ?」 朝に初めて訪れたときに子供を作る相手のことを聞いてきたりした人と同一人物だとは、到底思えないくらいの取り乱しようだった。 ひょっとすると下世話とか悪趣味などではなくて、あの人は単に世間知らずなだけかもしれない。今までの態度を見ていると、そう考えたほうがしっくりくる。 思い出して笑いを噛み殺したジョミーは、ふと朝のことを思い出した途端に憂鬱な気分になって、厚手のタイツを手に俯く。 「………でもあの人は、ぼくが歌姫であればいいと思っている人だ」 村の大人たちと同じに。 キースやサムやスウェナのように、「ジョミー」のことを見てなどいない。ジョミーを友人として見ているキースたちとは違い、ブルーは「歌姫」のジョミーにしか興味はない。 もしもジョミーが男だと知ったとき、あの人はどんな顔をするだろうか。 失望も困惑も侮蔑も憎しみも、男の歌姫への負の感情は一通り村の大人に向けられた。彼らにとって、歌姫の状態を正常に保つことは死活問題なのだから無理はない。 だが無理はないからといって、それをジョミーが受け入れなければならないわけではない。 村の大人は嫌いだ。彼らが母にした仕打ちを、忘れてなんていない。 あんな村、いっそ滅びてしまえばとそれでも思わないのは、友達の暮らす村で、友達の家族がいるからだ。 「ぼくが……守るんだ」 友達が暮らす村を、友達の命を。 あの赤い瞳に、失望や侮蔑が浮かぶ様を思い浮かべて、胸が軋みを上げたように痛んだのはきっと気のせいだ。それは真実を暴かれたときの恐怖に違いない。 「食事とは、こんなにも暖かく楽しいものなのだね」 ほんの少し前に見せられた、嬉しそうな、楽しそうな、綺麗な笑顔を消し去ろうと目を閉じる。 あの微笑みは、歌姫に向けられたものに過ぎないのだから。 火を灯した蝋燭と、二階の寝室から持ってきた毛布を手に最上階へ上がると、月明かりの中に佇み外を眺めていたブルーが振り返った。 月の光を背にしたその姿に、ジョミーは冷静に務めると落ち着けてきたはずの心が揺れたことを否応もなしに感じさせられた。 人を人とも思わない、歌姫を道具としか思わない、そんな大人たちと同じはずなのに、どうしてこの人は、こんなにも神聖で美しいのか。 いっそいやらしい笑みを浮かべて、最初からジョミーのことなど道具としてしか見ていない目をしていれば、こんなにつらくはなかったのに。 ……つらい? 「ここは随分遠くまで見えるのだね」 四方を柱と低い壁に囲まれただけの最上階では風が強く、ブルーの銀の髪を無遠慮になぶる。自然は王であろうと歌姫であろうと、関係なくあるがままにあるだけだ。 「そうなんですか?ぼくにはいつもの光景だから、そんなこと考えたこともありませんでした」 嘘だ。夜はまだいい。暗闇に慣れた目でも月明かりで見える風景はたかが知れている。 だが夜が明けるにつれて、遥か彼方まで続いているのではないかと思う街道を目にするたびに、昇り始めた太陽に遠く離れた大地の向こうが赤く染まる様を目にするほどに、どれほど広い世界を思うことか。こんな塔に縛られず、どこまでも旅をしてみたいと思うことか。 窓辺から離れたブルーは、吹き曝しの最上階に足を踏み入れたジョミーに近付いて眉を寄せた。 「ジョミー、どうかした?……もしかすると具合が悪いのかい?」 「いいえ?どうして」 「顔色が良くない」 外套が揺れて、その下から白い手が伸ばされた。燭台と毛布で両手が塞がっていたジョミーにそれを避ける術はない。 指先が頬に触れる。 階下で触れたときよりずっと熱く感じるのは、夜の冷気で急速にジョミーの体温が下がったせいなのだろうか。 ………熱い。 ブルーの指先が触れた所の熱に、痛みを覚えて目を閉じる。 そうか、ぼくはつらいのだ。 この人を騙すことが。 「………どうして、なのかなあ……」 「ジョミー?」 やはり小さな呟きすらも拾って首を傾げた王に、ジョミーは笑顔を見せて毛布を差し出した。 「どうぞ。歌っているぼくと違って、見ているだけならあなたは冷えてしまいます。ぼくの毛布で申し訳ないのですが」 「君の寝具!い、いやしかし女性の、その、褥を荒らすような……」 「そんな仰り方ですと、余計にいやらしいですよ?」 「だ、断じてそんなつもりはない!」 慌てたように首を振って否定したブルーは、けれどジョミーが笑うと表情を綻ばせた。 我侭で、ときどき無遠慮で、でも楽しい人だ。 ジョミーは目の奥に熱を感じて、毛布と一緒に燭台もブルーに押し付けた。 「どうぞ。小さな物でも火があれば少しは違うと思います。さっきは気が付かなくて申し訳ありません」 「僕は外套に君の寝具まで借りるのに、それはせめて君の手許に……」 「いつもは火なんて持ってきません。本当に、歌い続けだから寒くなんてないんですよ」 半ば強引にブルーに手渡すと、急いで高く開いた塔の窓に手をかけた。王都に向けて歌う定位置。 ここにいるのは、歌姫なのだと、そう思い知らせなければいけない。 ブルーに。 ジョミー自身に。 大きく息を吸う。今から歌うのだとブルーに告げることももうできない。今あと少しでも、ブルーの優しい声を聞けば今度こそ泣いてしまいそうだった。 つらいのだ、騙すことが。 ブルーの優しさは、すべて歌姫のもの。国の安寧を祈り守る歌姫のもの。 ジョミーは確かに歌姫だけど、それでもブルーを騙していることに変わりはない。 ……女に生まれていればよかった。 生まれてからずっと、男であることを嘆かれてきた。だがキースたちと今の形の友情を築いたのは、男であるジョミーだ。村の大人たちの思惑になんて、舌を出して嘲笑すらしていたはずなのに、今はこんなにも男であることがつらい。 こんなにも強く女に生まれたかったと思うことなんて、母の涙を見たとき以来だ。踏みつけられ、利用されるだけの歌姫。 喉を震わせて、歌姫の声がいつもの子守唄を紡ぎ始める。 胸が痛い、肺腑に針が突き刺さったように、痛くて息苦しい。 気まぐれを起こした通りすがりの王を、ほんの数日騙しきれば終わるだけのはずだった。 それなのに、今はそれがこんなにも苦しい。 女に生まれていれば、ブルーを騙すことになんて、ならなかったのに。 好意に対して嘘をつくことがこんなにも痛いだなんて、知らずにいたかった。 いいや、この人が好意を見せているのは歌姫に対して。 忘れるな、ぼくが歌姫だと分かったときの、あの大人たちの目を忘れるな。 男の歌姫なんて、誰もいらないのだから。 |
ブルーを気に入らなければ、感じることのなかった楽しさ。 ブルーを気に入らなければ感じることのなかった痛み。 どちらもどうしもない真実。 |