船内を全力で走って、奇異の目を向けられているとわかっていても、足を止められない。
どこに向かっているのかなんてわからない。廊下を走り抜け、いくつも角を曲がり、リオに叫ぶような思念波を送られなければ、船の最端まで走り続けたかもしれない。
『ジョミー!もう無理ですっ』
走れません、と思念波まで息切れしていそうな切羽詰った言葉に、ジョミーはようやく足を止めた。自身も肩で大きく息をしながら振り返ってリオの腕を掴んだ手を見る。
「…………ごめん……リオを、引っ張ってるの……忘れて……た」
あまりといえばあまりの話だが、謝りながらもどこかぼんやりとしたジョミーの様子のほうが気になって、リオは肺まで痛くなった胸を押さえながら廊下の壁に背中を預ける。
『一体、どうしたのですか?』
「……わからない……」
リオの横に並んで壁に背中をつけると、ジョミーはそのままずるずると座り込んでしまった。
普段ならそれでも立って話をするリオも、一緒になって壁に背中を預けたまま廊下に腰を降ろした。ジョミーの速度に合わせて走り続けたせいで膝が笑いそうになっている。
しばらく沈黙が降りて、ジョミーとリオの息を整えようとする呼吸の音だけが誰もいない廊下に響く。
リオが人の少ない区画まで頑張って引っ張られるに任せていたおかげで、ジョミーがそのまま更に腰を沈めてほとんど廊下に寝転んだ状態になっても、誰に見咎められることもなかった。
「……ぼくもわからないんだ」
どうしてフィシスに嘘をついてまで逃げたりしたのか。
ジョミーに嘘で誤魔化している様子は見えない。ジョミーの思念はひどく混乱していて、けれどその中に傷ついているような悲しみを感じた。
ジョミーの訓練は今日も好調だった、と聞いている。思念波を使った意思の疎通の訓練を受け持っていたエラも、最近はジョミーが落ち着いてきたこと誉めていた。
フィシスとお茶を飲む約束をしているんだと、嬉しそうに今日の好調の理由は後の楽しみがあるからかもと言っていたジョミーが、その楽しみにしていた時間から逃げ出すなんてよほどのことのはずなのに、ジョミー自身でもその理由がわからないという。
ぼんやりとなら、原因はわかる。
天体の間に向かう道すがら、それまでジョミーは上機嫌だった。フィシスと共に過ごす時間は落ち着くから好きだと言って、足取りも軽かった。
なのに廊下でフィシスと偶然会って、突然逃げ出した。
フィシスは、ソルジャー・ブルーと一緒にいた。
『……ソルジャーと何かありましたか?』
他に原因らしい原因なんて思い当たる節も無い。まさか、朝の挨拶の時に何かあったのだろうかと心配になったものの、我慢の限界を超えてソルジャーが何かやらかしたのだとしたら、それにしてはソルジャー・ブルーの態度は今まで通り過ぎた。
ジョミーは眉を下げた今にも泣きそうな表情で緩く首を振って、リオに背を向けるように横に転がる。
「ソルジャーは何もしてないよ。でも……」
リオに背中を向けたジョミーは、膝を抱えるように背中を丸めて小さくなった。
こうして見ていると、本当に小さな背中だ。まだジョミーは子供だと誰もがわかっていて、けれどソルジャーになる者だと思えば子供だなんて言ってはいられない。
出来る限りの精一杯で仲間達の不安を少しでも解消しようと、胸を張って背筋を伸ばして歩くジョミーの堂々とした態度が、子供の小さな背中を大きく見せていたのだと、まざまざと実感する。
『でも?』
落ち込んで、しかもそれがソルジャーに起因しているとなればジョミーに頼る相手は他にはいない。せめてこんなときくらいは自分に甘えて欲しい。
優しく先を促してみると、ジョミーは背を向けたままポツリと呟いた。
「……ソルジャーって、スキンシップ好きだよね」
『………は?』
何の話だろう。いや、今まで散々ソルジャー・ブルーがジョミーに触りまくっていたという話は知ってはいるが、今は自粛中だったはずだ。しかもソルジャー・ブルーがそんなにも触れるのはむしろジョミーくらいのもので、彼がスキンシップを好む相手はとても限られているといえる。少なくともリオはその被害に遭ってはいない。
「ぼくは、何か勘違いしていたのかもしれない。いやきっとそうだ」
『あの、ジョミー……?』
なんとなく、あまり先を聞きたくない気分になってきたけれど、今更聞きたくないとは言えないし、放っておくと更に厄介な事態になるような気もする。
『ソルジャーはそんなに、人と触れ合うことはないと……直接、肌で、という意味でですが』
「だって……さっき気づいたけど、ソルジャーはフィシスといるときはいつも手を握っている」
それは地球の姿を見せてもらっているからでは。
先ほどの場合は、盲目のフィシスをエスコートしていたからだ。思念が使えるので見えなくとも歩くことに大きな支障はないけれど、それでも手を引かれているほうがフィシスにとっては安全に歩くことが出来る。
フィシスに対してはそういう理由ばかりでないことも多いはずだが、それでもジョミーの手を握ったり、頭を撫でたり、抱き締めたりしていたこととは根本が違う。
「ぼくは自分が特別甘やかされているんだと思ってた……後継ぎだから、頼りないから、子供だからって……でも違ったんだ」
いえ、その通りです。そこにもうひとつ、ある意味もっとも大きな理由が入るとは思いますけれど。
ただでさえ足がもつれそうになるほどの全力疾走で疲れていた身体に、どっと疲労が押し寄せてきたような気がした。
リオは立てた膝に両腕を乗せて、その間に顔を落として溜息をつく。
「子供扱いされているみたいで、恥ずかしかったし、情けなかった。でも自分が特別に扱われているだなんてどうして思ったんだろう。そっちのほうが恥ずかしい」
違いますジョミー。特別扱いされていたわけではなかった、と思っている今のほうが勘違いです。
そう言いたい。思念を大にして訴えたい。
だがそうすれば、今度はどこが特別なのかを説明しなくてはならないだろう。
なぜ自分がそんなことをしなくてはならないのか。
リオは呼吸を整えるふりで、大きな溜息を隠すことなく廊下に落とした。


『ジョミーの部屋で待っていてください』
リオからの思念波は、天体の間でフィシスに元気を出すようにとお茶を振舞われ励まされているときに流れてきた。
ジョミーに嫌われたかもしれないと肩を落としたソルジャー・ブルーの姿は、傍から見れば麗しい愁いを帯びた横顔だが、ブルー本人の心のうちでは拳を握って男泣きに咆えている状態だ。
アルフレートはソルジャーの悩ましい様子に心を痛めているようだったが、フィシスはこの麗人が意外と猛々しいことをよく知っている。
「あら、リオが呼んでいますわ、ソルジャー」
「……ああ」
ジョミーの部屋でなんて、一体リオは何を考えているのだろう。青の間には連れてはいけないということだから、ジョミーはブルーに会いたくないと思っているに違いない。
テーブルに肘をつき組んだ両手の甲に額を当てて俯いていたブルーに、もう一度だけ脅迫、いや誘いの思念波が送られてくる。
『今行かないと、きっと後悔なさいますよ?』
どう後悔するのかさっぱりわからないまま、けれど逃げ出したジョミーと今まで一緒にいたリオからの言葉に、ブルーは思わず席を立つ。
立ち上がったものの、もしも顔を合わせてまたジョミーに逃げられたら、嫌な顔をされたら。
「いってらっしゃいませ、ソルジャー」
向かいに座っていたフィシスにハンカチを振られた。
「私とジョミーの楽しい時間をなくしてしまったのですもの。その上であなたとジョミーが傷ついたままだなんて、私には耐えられませんわ」
さっさとどうにかしてこいと、笑顔で背中を突き飛ばされた。
ミュウの女神を怒らせると後が怖い。少なくともブルーにとっては、ジョミーとはまた違う種類の愛情を寄せている彼女に会ってもらえないとか、地球の姿を見せてもらえないとか、ジョミーがブルーを避けている状態ならば、それをいいことにジョミーを独占される恐れがあるとか、さまざまな弱みがある。
それに、どうにかできるものならブルーだってどうにかしたい。ジョミーに避けられるなんてことがこの先続けば、その辛さは触れることを耐えていた日々の比ではない。
白いハンカチに送られて、ブルーはよろめく足取りで天体の間を後にした。
フィシスに突き飛ばされたお陰で開き直ってみると、考えも少し落ち着いてくる。
リオがなんの成算もなしに、ジョミーの部屋へ行けと言うとは思えない。先ほどジョミーが逃げ出した理由は、きっとブルーの危惧とは別のものだったのだろう。
だとすればどうにかなるかと前向きに考えるようにして廊下を歩くソルジャー・ブルーの姿は、今の思考の大半がジョミーで占められているなんて知らない限り、神々しくさえ映っていたに違いない。


『ソルジャーと、一度じっくりお話ししたほうがいいと思いますよ』
ようやく廊下から起き上がると、リオにそんなことを諭された。
ジョミーはそれこそとんでもないと首を振って、膝を抱えて小さくなる。
「じっくりなんて、今までも毎日会ってた」
『それは日々の中で得たあなたの話、経験、周囲との関係のことばかりでしょう。肝心のあなたとソルジャーとのことは、何も話したことがないのではありませんか?』
「……なんて言うのさ?ぼく、自分はあなたの特別だと思っていた、とでも?」
踵だけを床につけ爪先を浮かした両足を見つめて、抱えた膝に顎を乗せてジョミーは拗ねたように唇を尖らせる。
『そうですね。それはいい質問かもしれません』
「言えるわけないだろ、こんなこと!」
勘違いしていたとわかったばかりでそんなこと、笑われるのがオチだとジョミーが憤慨したにも関わらず、リオは不思議そうに首を傾げる。
『なぜです?』
「なぜって……」
当たり前のことを言ったはずなのに、真顔で聞き返されると自分のほうが間違っていたのだろうかと不安になってくる。誰かにとって、自分が特別だと思うなんて、そんな思い上がりを本人相手に披露しろだなんて、リオのほうが絶対に間違っている……はずなのに。
リオは膝に手をつくと、重そうに腰を上げて壁から背中を離した。
『少なくとも、私から見ればあなたはやはりソルジャーの特別です』
「どこが」
何がそんなに楽しいのか、リオはにこにこと笑顔のままで人差し指を立てる。
『青の間に、いつ何時でも出入りできるのはあなただけです』
「それはぼくがソルジャーの後を継ぐことを期待されているから……」
言い差したジョミーは、途端に口を押さえた。
ソルジャー候補であるという時点で、確かにジョミーは特別だ。けれどその愁眉が晴れることはない。
ソルジャー・ブルーにとって特別な存在だということが、まったくの見当違いでなかったならそれで悩みは解決したはずだ。
それなのに、胸の辺りに湧き上がる不快感は余計に増した。
『本当に、それだけですか?』
「え……?」
胸の上を押さえるように、ぎゅっと上着を握り締めていたジョミーが顔を上げると、リオは笑顔のままで首を傾げる。
『ソルジャーがそう仰いましたか?あなたは後継ぎだから、いつでも来ていいのだと』
リオが何を言いたいのかよくわからなくて目を瞬く。
ソルジャー・ブルーの元へ、一日の報告へ上がることはいつの間にか習慣となっていた。それはソルジャーが希望したからではあるが、ジョミーにとっても楽しみの時間である。
ではいつから、それが習慣化したのだろうか。
一度ミュウを、この船を拒絶して、アタラクシアへ戻ってリオに怪我をさせて、ブルーに力をたくさん使わせた。
そのことが申し訳なくて、しばらくはブルーの元へ顔を出すこともできなかったことを覚えている。
一度きちんと、あなたの言葉を信じるのだと、それだけは伝えておこうと訪れたジョミーに、その決意を喜び、それからいつでも傍においでと手招いてくれたのはブルーのほうだ。
あのときブルーはなんと言っただろう。
『きちんと話し合ったほうが、よいと思いますよ?』
ジョミーは眉を下げて、抱えた膝に顔を埋める。
「無理だ」
『なぜ?』
「自分が恥ずかしい。ソルジャーの特別だと思っていたと自分から言うなんて嫌だ。後継者だからなんて当たり前なことを忘れていたなんて言うのは、もっと嫌だ。だから頑張るなんて言っていたくせに」
『……私は、自分がジョミーの特別なんだと思っていました』
抱えた膝に隠していた顔を上げると、リオは少し恥ずかしそうに首を竦めた。
『もちろんソルジャーや、あなたにとって大切な人々と比べるべくもないとも思います。ですが、私は私で、あなたの特別だと思っていました。思い上がりですか?』
「そんなことない!リオはぼくをアタラクシアまで迎えに来て、それにこの船で一番初めにぼくを受け入れてくれた人だ。ずっと傍にいてくれた。この船に暮らすみんなのことは大切だけど、リオはもっと……上手く言えないけど、でも大切だよ」
『この船で、一番初めにあなたを受け入れたのは……いえ、むしろ飛び込ませたのはソルジャー・ブルーです。私はあの方の言葉に従ってあなたを迎えに行きました』
では、リオはソルジャーの言葉だからジョミーを受け入れてくれたということだろうか。
思念を零したつもりはなかったけれど、リオは先回りするようにすぐに続ける。
『勘違いしないでくださいね。あなたを迎えに行ったのはソルジャーの命令です。ですが、今の私があなたの傍にいつでも寄り添いたいと思うことは、私の意志です』
見上げるジョミーに手を差し出して、リオは軽く片目を閉じる。
『こうして話してみなくても、あなたには私の心がわかりましたか?』
ジョミーは目を瞬いて、笑顔で痛いところを突いてきたリオに苦笑を浮かべる。
「わからなかった、かも」
ただ漠然と、リオなら信用できると勝手に確信していただけのような気がする。
言葉がすべてで感覚は無意味だなんてことは思わないけれど、思い込みが怖いものだということは少しわかった。
差し出されたリオの手を取って、廊下から立ち上がるとマントに寄ったしわを伸ばすように軽く払う。
『ソルジャーとお話に……』
「行かない。まだ、もう少しだけ落ち着いてから行く」
それが明日になるか、明後日になるかはわからないけれど。
それでも、まだブルーの顔を見て冷静に話せる自信がなくて首を振ると、リオは少し考えるようにジョミーから目を逸らした。
「リオ?」
『……では一度部屋に戻りますか?フィシス様とのお茶の時間がなくなって時間が余ってしまったでしょう?』
「そうだね。走り回って少し疲れた。リオも、無理やりつき合わせてごめん……」
『いいえ。あなたにとって、それだけ気安い相手だという立場が私は楽しいのですよ』
宥めるのでもなく、慰めるのでもなく、口先だけの言葉でもなく、笑顔でそれが本心だと伝えてくれるリオに、ジョミーも笑顔を返してようやく肩の力を抜くことができた。






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実はリオが一番策士な気がします(うちのリオは)
そしてフィシス様は女帝な気が。
(公式でもタロットでは女帝でしたし!)
必然的にブルーが弱く……(笑)
彼はきっとわざと負けてあげているんだと思います。たぶん。