今日は逃げてばかりだ。
脇目も振らず混乱した思念を零しながら全力で駆けて行くジョミーの姿に、何事か起こったのかと船内の一部に動揺が走ったものの、警報が鳴るわけでもなく、ジョミーが駆け去った後に続く問題が何も起きなかったため、皆すぐに安心して大きな騒ぎになることはなかった。
「ジョミーだから」で納得されてしまうもの次期の長としては問題があるが、今回に限ってはそれでよかった、と後にハーレイがしみじみと零している。
そんな風に不可抗力で小さな問題を起こしながら、今度は止めてくれるリオが一緒ではなかったせいもあって、本当に船尾まで走り続けてしまった。
船の端にたどり着いたジョミーは、ふらふらとした足取りで格納庫の扉に両手をつく。
一呼吸ごとに肺が痛むような激しい呼吸を繰り返しながら、ずるずると身体を床へと下ろして膝をついた。額から流れ落ちた一粒の汗が床にぶつかって弾ける様子が目に映る。視界に映るだけで、どこか現実感が伴わないのは、まだ混乱しているからだろう。
どうして、どうしよう、ソルジャーとあんなこと。キスしたいなんて言われて、てっきりいつもの頬にするあれだと思ったのに、まさか……。
微かに触れた感覚を思い出して、唇を拭うように握った拳の甲を当てた。だが当てるだけで拭う仕草にまでは至らない。
親愛のキスだとそう思って……けれど今までキスをしてくるときにあんな風にジョミーの意向を聞いたことなんてなかった。いつもと違う雰囲気は肌で感じていた。だから、してもいいかと聞かれたときに戸惑ったのだ。
―――ジョミー……愛してる。
耳に心地のよい声の囁きを思い出して、ジョミーは堪らず両手で顔を覆う。
「そんなこと……っ」
両手で顔を覆ったまま、大きく首を振る。愛してるなんて言葉、今までママやパパからくらいしか聞いたことがない。
「………ママや、パパ?」
はっと気づいたように、両手で覆っていた顔を上げる。目に映るのは冷たい金属の格納庫の扉のみだが、ジョミーはそれを見てはいない。見ているのはかつての光景。
「……ひょっとして、あれも親愛のキス……だったの、かな」
唇にキスをされたことなんて初めてで動揺してしまったけれど、もしかするとこのシャングリラではあれも親愛のうちに入るのかもしれない。アタラクシアで当たり前だと思っていたことが、ここでは違うこともたくさんあると何度も体験したじゃないか。
だとすれば、納得だ。
「………なんだ」
気が抜けたように呟いたジョミーは、膝から力が抜けてそのまま床にぺたりと座り込む。
ずっとジョミーの成長を見ていたと、それこそ両親と同じようなことを言っていたブルー。
そこに込められた意味には大きな違いがあるとはいえ、ブルーから向けれられる愛情があるとすれば、恋よりも家族のような情のほうが納得できる。きっと、あのときブルーが囁いた声がいつもと違って熱が篭ったように聞こえたのは、勝手にジョミーがそう感じただけなのだろうと、そう思って。
「そっか………」
納得したはずなのに、あれは親愛のキスだったのだろうと思った途端に石を飲み込んだように胸が重くなった。
もやもやというのか、ムカムカというのか、上手く自分の胸のうちを表現する状態が思い浮かばない。
ジョミーはよろけるように身体を反転させると、膝を抱えて扉に背中を預けた。
「……なぁんだ……」
気が抜けた呟きと共に疲れたように息を吐き出すと、廊下の天井を見上げる。
「習慣の違いって難しいな……ぼく、ファーストキスだったのに……」
習慣の違いだからブルーが悪いわけではないけれど。
「驚いてあの人を突き飛ばしちゃったし………」
思わず両手で突き飛ばすように押し返したときの、ブルーの驚いた表情を思い出してジョミーは溜息をつく。
「……突き飛ばしちゃったし!?」
どうしよう、大変だ、いつもいつも安静にしててなんて言っておいて、あの人を突き飛ばすなんてどうかしてる!
慌てて立ち上がろうとして、足がもつれて廊下に尻餅をついたジョミーが苦痛の呟きを漏らしたのと、怒声が響いたのはほぼ同時だった。


「相変わらずやかましい奴じゃ!ソルジャー・ブルーの跡を継ぐということの意味を本当に理解しとるのか」
「ソルジャーは常に悠然と構えておかなければ、仲間たちが動揺してしまいますよ」
格納庫の傍の部屋から出てきた意外な人物に、ジョミーは床に座ったままで目を丸める。
「ゼル機関長、エラ女史。こんなところで会うなんて。一体どうし……」
「それはおぬしのほうじゃろう、ジョミー!仮にもソルジャーの名前を継ぐ者が、廊下で座り込んどるとは何事だ!」
ゼルからの雷に、ジョミーは目を瞑って肩を竦める。あまり自慢できたことではないが、アタラクシアにいた頃から大人に怒られることには慣れてしまっているので、すぐに気を取り直した……というよりも、今はそれ以上に気がかりがあるのでそれどころではない。
「あの、ごめん、これからちゃんと気をつけるよ。それで、もう行っていい?」
ゼルのこめかみに青筋が浮かび、エラは額を押さえて溜息をつく。
「先ほどからあなたの思念がソルジャーのことで一杯なのはわかりますが、いつもと違って酷くこじれている様子。一体何をしたのです」
「何って……思わず突き飛ばしちゃったから、今から戻ろうと」
「突き飛ばした!?ソルジャーをか!?」
ゼルの声に批難の色が濃く混じり、ジョミーは唇を尖らせて立ち上がる。
「とっさのこととはいえ、あの人になんてことしちゃったのかとは思うけど……」
「当たり前じゃ!ソルジャーに何かあったらどうする!」
「そんな力一杯は突き飛ばしてない!大体、ぼくはここの習慣に馴染みがないから驚いてしまっただけだ!」
「習慣?」
ゼルほどの激しい反応は見せなかったものの、眉をひそめたエラにジョミーは怒鳴り返した勢いを引いて、一瞬口を閉ざした。
頬が熱くなるのを感じるけれど、それを抑えることはできない。親愛のキスにそこまで照れるのもどうかとは思うけれど。
「………その……キ、キス……を」
「キス?」
呆れたような気の抜けたような声で鸚鵡返しをするゼルに、ジョミーは赤くなった頬を隠そうと両手で押さえる。
「そうだよ!キスしたいって言われたら、普通は頬だと思うじゃないか!なんでこの船では、く、く、く……唇にするわけ!?」
ゼルとエラが同時にぽかんと口を開けて、そんなことで騒いでいるのかと呆れられたと思ったジョミーは頬を両手で隠したまま憤慨したように床を蹴る。
「唇にキスなんて、普通は恋人同士がするものじゃないか!頬にだと思ったからいいよって言ったのに………っ」
「ソルジャー……」
エラが疲れたように肩と首を落として床に視線を向け、ゼルは逆に首を後ろに倒して天井を見上げる。
「だから驚いて……っ……わ、わかってるよ、ここの習慣に慣れないといけないことくらいっ!」
「いえジョミー、それは慣れなくても……」
「さっきはソルジャーだったからよかったけど……でも他の人とああいうのは……ぼくにはまだ無理だ」
「だから慣れんでいいと言って………今なんと言った?」
口元を引きつらせながらジョミーの認識を訂正しようとしたゼルに、怪訝そうな目を向けられて、ジョミーはこれは断固として譲れないと拳を握る。
「ソルジャー・ブルーとだからまだいいけど、他の人とは無理だ。その……い、いずれはできるように頑張るつもりけど……もう少し時間が欲しい」
エラとゼルは顔を見合わせ、それから同時に溜息をつくと首を振る。
「な……なに?そんなこともできないようでは話にならないってこと?でもぼくにとって唇でのキスは恋人同士の行為だ。ずっとそう思ってきたんだから……」
「それはこの船でも同じ事です」
「時間をくれるくらいいいじゃないか!………って……え?」
仲間たちからキスを贈るほどの好意を寄せてもらえるようになるまでには慣れてみせるから、と続けようとしたジョミーはエラの言葉に目を瞬いた。
「おぬし、船内でソルジャーがしたような口付けを贈る者を見たことがあるのか」
「え……?」
ゼルに言われて今までの生活を思い起こす。
そもそも他人のキスの場面に出くわしたこと自体あまり覚えがないが、それでもちょっとした親愛の情を見せるような場合はみんな頬に贈り合っていた。だからこそ、ジョミーも唇へのキスまでがここでは親愛を示したものだとは今まで思わなかったのだ。
けれど、それは違うと二人の長老から否定された。
「え………でも、だって、じゃあなんでソルジャーは……」
「そんなもの、わしに聞くなっ!」
「だって!それじゃまるでっ」
ジョミーに背を向けて、出てきた部屋へと戻ろうとするゼルに焦った声で問い掛けても、それ以上は何も返ってこない。
急いでエラに視線を移すと、彼女も苦笑を浮かべて首を振った。
「あなたはそれを嫌だとは思わなかったのでしょう?恋人同士がするものだと思っていたのに」
ここから先は自分で考えなさいと、エラもゼルと一緒に部屋へ戻ってしまう。
ひとり廊下に残されたジョミーは、ゆるゆると手を降ろして身体の横にだらりと下げる。
「だって………それじゃまるで……」


ジョミーが飛び出してから、固まっていたのはどれほどの時間だろうか。
それほど長くはないと思うけれど、ブルーはゆっくりと手を降ろすとこの後にとるべき行動に珍しく迷いを見せた。
個人の思いはさておいたとしても……先代のソルジャーと次代のソルジャーとして、ジョミーとの仲がぎくしゃくと上手くいかなくなることは避けなければならない。
だがどうやって。
ジョミーに口付けをしてしまった事実はどう足掻いて消えないし、それはジョミーには逃げ出すほど受け入れ難いことだった。
その事実が重く圧し掛かる。
悪かったもう二度とあんな真似はしない。だからどうか、表面上だけでもいいから僕を避けないでくれ。ミュウの長として、君と僕が不仲であると周囲に思わせるわけにはいかない……。
ジョミーを説得する言葉を考えて、溜息が零れた。
なんだこれは。こんなものはちっとも謝罪ではない。悪かったと言いながら要求ばかりではないか。そう、正しく「説得」だ。
「違う、何を考えている。ジョミーを傷つけたのに……」
ブルーを突き飛ばしたジョミーの瞳には、驚きばかりが浮かんでいた。
けれどあのときは驚きしかなかったとしても、きっと傷ついただろう。信頼していた、それも同性から想いを寄せられていただなんて、それまで欠片も考えもしなかったジョミーには青天の霹靂だったはずだ。
今も感じる、遠くに離れて行くジョミーの思念が酷く混乱していることがわかる。
「いけない、ジョミー。君がそんなに心を乱せば、皆も何事かと動揺する」
混乱させた張本人が何を言う。
ジョミーを諌めなければという考えと、まず何よりもジョミーの気持ちを優先したいという想いが対立する。
諌めたいならジョミーのところへ行かなくては。
ジョミーの気持ちを優先するなら、しばらくは顔を見せるべきではない。
「ジョミー……」
額を覆うように手を当て、苦悩して目を閉じる。
どちらを選ぶとしても、何の行動も起こさないということが最も性質が悪い。迷っている暇があれば、ジョミーの元へ行くか、彼の目が届かないよう青の間に戻るか、早く決めなくては。
どちらにしても、まずはこの部屋から出て行くべきだと床に張り付いたような足を無理やり剥がした。
あとほんの少し、早く動き出していれば、リオと正面から衝突していたかもしれない。
それほどの勢いで、リオが飛び込んできた。
『ソルジャー!ジョミーに何をしたのです!?』
「リオ」
離れた場所から、やはり全速力で走ってきたのか、息を切らせたリオはそのままブルーに詰め寄ってくる。
『一体、ジョミーに何と仰いましたか!あんなに混乱してっ』
「わかっている、僕の落ち度だ」
『落ち度!?』
眉を跳ね上げたリオは、何かを怒鳴るような形に口を開けたが、やがて力なく息を吐いて肩を落とした。
『……どうして素直に大切だと言ってあげられないのですか』
勢いを落として緩く首を振ったリオは、眉をひそめて悲しげな目をブルーに向ける。
『ソルジャーではなく個人として大切だと。それだけで、ジョミーはきっと満足できたはずでしたのに。嘘をつけとは言えませんが、どうして真実を教えてあげらないのかと……』
「特別だとは、言った。だが余計な真似までしてしまった」
『余計な真似?』
自分でしでかしたことだとしても、それを改めて人に説明することは難しい。失敗したと思っていることほど、人に後を任せるのは不本意だ。
だがもしジョミーの気持ちを考えて顔を見せない方向を選ぶとしたら、ジョミーの最も近くにいるリオには説明しておくほうがいいだろう。
ジョミーに嫌われたに違いないなんて、口にしたくもないけれど。
「………口付けを」
『口付け?』
何を告白されるのかと構えていた様子のリオは、驚いたように鸚鵡返しをする。
『口付けは今更では?ジョミーはあなたによく頬にキスをされると』
「それは頬にだろう。……ああ、あの時ジョミーはやはり頬にだと思ったのだろうね。キスをしていいかと聞いたら戸惑いながらも頷いてくれた。僕はあの子の好意を完全に思い違いしていたんだ。……唇を奪って、ジョミーを傷つけた」
白状することに抵抗を覚える話をしたというのに、リオはやっぱり先ほどと同じように口を開けて何かを言い掛けて、結局は何も言わずに溜息をついた。
『あなた方ときたら二人とも……』
「リオ?」
ジョミーの唇を奪ったという話で、どうしてジョミーに対してまで呆れたような言葉が出るのか不思議に思ったが、リオは軽く首を振ると先ほどのまでの真剣な目を和らげて苦笑する。
『私も少し認識が甘かったようです。まさかあの状態から今日のうちにソルジャーがそこまでしてしまうなんて思いもしませんでした。ただ少し話し合ってもらいたかっただけだったのですが』
「僕だって同感だ。ただ僕を見て逃げたらしい理由さえ知ることができたら十分だと……」
言い差したところで、ブルーが顔を上げた。ジョミーの思念が混乱したまま、再び動き出したことに気づいたからだ。
「ジョミーが今度はこの部屋に戻りつつあるようだ。僕はもう行く。今は顔を見せないほうがいいだろう」
『ですがソルジャー……』
「ああ……確かに、ソルジャーとしては正しくはない。本来なら僕がジョミーを諌めるべきだ。……だが急に口付けなどして酷く困らせたのに、これ以上はあの子を傷つけたくない」
『いえ、そうではなく……』
「すまない、リオ。ジョミーを頼む……せめてあの子が落ち着くまで」
そうではなくて!と繰り返すリオに首を振ると、ブルーは部屋の主が帰ってくる前にと足早に部屋を後にした。






BACK お話TOP NEXT



人の話を聞かないのもソルジャーの条件なんでしょうか(笑)
当人達は深刻なのに、周りはどんどん呆れていってますよ……。