唇へのキスは、シャングリラにおいても恋人同士のキスだと聞いた。
だとしたら、ソルジャー・ブルーは何を思ってジョミーにキスをしてきたのか。
「だって……だとしたら……」
触れ合う直前、かの人の囁いた言葉と合わせて考えると、答えなんてひとつしかないと思う。そう思うのに、結論をはっきり出せない。
腕を組んで自室へ向かって歩きながら、ジョミーは疑問と困惑に唸り続けていた。それでも足は止まらない。
突然のことにブルーを突き飛ばしてしまった。勢いでゼルに怒鳴り返した言葉通り、それほど強い力を込めてはいなかったはずだけど、健康なジョミーの「それほど」がブルーにとっても「それほど」なのかわからない。大丈夫だとは思っても、少し心配だった。
同じように悩みながら歩いていても、完全に思念を遮断できるブルーとは違ってジョミーはその思いを零しながら歩いている。ジョミーの悩みぶりに比例するように思考が混沌としていることが逆に幸いして、はっきりとしたイメージまでは伝わらないものの、新米ソルジャーがブルーとの個人的な関係で悩んでいることは、誰かとすれ違うたびに相手に漠然と知られてしまっていた。もちろんジョミーはそのことに気づいていない。
腕を組んで唸りながら歩いていたジョミーは、見慣れた通路に出て唾を飲み込んだ。遠くに自室の扉が見える。
自分の部屋に帰るのに、こんなに緊張するのは初めてだ。
ソルジャーになんて言おう、何を聞かなければいけないんだろう、その前に怪我がないか聞いて……。
ぐるぐると考えすぎて目が回りそうだ。
とうとう扉の前にたどり着いてしまったジョミーは、考え込みすぎて沸騰しそうになった頭を強く振った。
「ええい!男は度胸だ!ソルジャー!話がありま………」
扉のコントロールパネルを叩き壊す勢いで拳を叩きつけて部屋に飛び込んだジョミーは、中にいた人物に目を瞬いた。
「あれ、リオ?ソルジャーは?」
テーブルにティーセットを用意して温かい紅茶を淹れていたリオは、香り立つカップをソーサーごと持ち上げてジョミーに歩み寄る。
『ソルジャーは青の間にお帰りになりました』
「え……っ」
どうして。
けれど疑問は、リオに答えを教えられるまでもなくわかる。
突き飛ばしたあの瞬間、ジョミーはブルーを拒絶したということになるのだ。あの愛情の意味が、どちらのものだとしても。
「ど……どうしよう……ソルジャーは怒ってた?あ、そうだ!怪我、怪我はしてなかった!?」
『怪我?ソルジャー・ブルーがですか?』
「驚いてつい突き飛ばしてしまって……突き飛ばしたところが痣になってたりとか……肋骨を骨折とかしていたら……っ」
『……い、いくらミュウでもそこまで虚弱ではありませんよ』
リオは吹き出すのを堪えて肩を震わせながら、ソーサーごとカップをジョミーに手渡した。
『ま、まず落ち着いてください』
「……そんなに笑わなくてもいいだろ」
散々船内を走り回っていたジョミーは、飲み物を手渡されて自分の喉が渇いていることに初めて気がついた。気分的にはスポーツドリンクが欲しいところだったけれど、せっかくリオが淹れてくれた紅茶があるのだからと、それを火傷しないように注意して啜る。
温かい飲み物が、喉を通って胃にゆっくりと染み渡ることを感じた。
『少し落ち着きましたか?』
「………うん」
素直に頷いたジョミーが顔を上げると、リオはしょうがないと呆れたような、けれど優しい微笑みを向けてくれている。
「……あの……それで、ソルジャーは……」
怒っていたなら、会いに行きづらい。キスをしてもいいと承諾したくせに突き飛ばしたのだから、怒らせても仕方がないと思うけれど、あの赤い瞳に冷たい視線を向けられたり、顔を背けられたりしたらと思うと想像だけでも悲しくなる。
『落ち込んでおられました』
「やっぱり怒って……え、落ち込んで?」
意外なことを聞いた気がして、ジョミーは目を瞬いた。
「なんで?」
『……そこでそう返しますか……』
リオは肩を落として軽く溜息を零す。
『あなたは本当に、ソルジャーにとっての自分の価値をご存じないのですね』
「ぼくの価値って……」
ジョミーは紅茶を一口含み、紅い液体に視線を落とす。静かな水面は僅かに揺らぐだけでジョミーの顔を映していた。
ブルーの瞳は、この紅茶よりももっと鮮やかな赤い色をしている。
「ぼくは、あの人が探していた後継者だ。まだ十分に応え切れていないけれど……」
『先ほどソルジャーはそう仰いましたか?それだけだと?』
―――それだけではないよ。
優しい、甘い声がジョミーの耳に蘇る。
ブルーに言われるままに目を閉じて、耳に入るのはあの人の蕩けそうに甘い声ばかり。
ふわふわと夢を見るように幸せな心地になったあの瞬間。
「……あの人は、落ち込んでいたんだね?」
『ええ、とても』
ブルーが怒っているのなら会いに行きづらいと思っていた。ただ行きづらくはあっても、許してもらうためには会いに行くしかない。結局ジョミーは必ず青の間へ向かっただろう。
落ち込んでいるというのなら。
少し温度が下がってきた紅い液体を一気に飲み干して、空になったカップをソーサーごとリオに突き返した。
「行って来る!」
『はい、どうぞ行ってらっしゃい』
リオは笑顔でそれを受け取り、ジョミーに軽く手を振った。
ジョミーは手を振り返すのもそこそこに、本日三度目の全力疾走で廊下に飛び出す。
怒っているのなら許しを請うために会いに行く。
けれど落ち込んでいるというのなら、より早くあの人の傍へ行かなくては。
少しでも多く、長く、笑っていて欲しい人なのだから、悲しい顔をさせることは不本意だ。
ましてそれがジョミーのせいでなど。


青の間に戻ったブルーは、疲れた身体をベッドに横たえて目を閉じた。
「……ジョミー……」
瞼の裏に映るのは、ジョミーの姿ばかりだ。
生まれたばかりの存在を感じて見つけた、人形のように小さなジョミー。
早く大きくなれと焦りを覚えながら念じ続けた。
遠くから見ることしかできなかった頃の、幼いジョミー。
頭を撫でて彼の両親のように、愛したかった。
もうすぐ成人検査を迎えようとしていたジョミー。
太陽のような眩しい笑顔にただ強く焦がれた。強く、手に入れたいと願って。
シャングリラに連れてきたばかりのジョミー。
焦がれ続けた愛し子に向けられた拒絶の視線が痛かった。けれど彼に他に行き場所はないことはわかっていた。必ずここに戻ってくると、確信をして。
そして。
「僕を信頼してくれたジョミー」
信頼と、愛情と、敬愛と。最初に願っていたすべてのものを、ブルーに向けてくれた。
始めにジョミーに欲していた感情はすべて手に入れたはずなのに、たったひとつ手に入らなかったもの。
後から生まれ、何よりも強く欲する感情。
「なんて欲深い……」
手の甲を閉じた瞼の上に当て、ブルーは深い深い息を吐いた。
勝手に期待して、勝手に勘違いをして、もしもジョミーが向けてくれていた他の感情もすべて失うことになりでもしたら……想像もしたくない恐怖だ。
しばらくの間、ジョミーから避けられることは仕方がない。だがそれがしばらくで済む保証がどこにある。
「ジョミー……」
船内に遠く離れた愛し子の名を呼んだ……つもりだった。
「……ん?」
騒々しい思念が近づいてくる。
「まさか、そんなはずは……」
視界を塞いでいた手を降ろして、閉じていた瞼を上げる。
だが身体を起こす前に、激しく壁を殴るような音に続いて騒々しい思念を発する少年が部屋に飛び込んできた。
「ソルジャー!」
「ジョミー!?」
しばらく会えないだろうと、向こうが避けるに違いないと踏んでいた少年が、自らやってきた。
青の間に駆け込んできたジョミーは、そのままブルーが肘をついて上半身だけ起こしたベッドまで駆け寄ってくる。いくらブルーの動作が緩やかだからといっても、ベッドの上の住人が起き上がるより早くたどり着くとはどういう速度だろう。
しかも駆け寄ってきた勢いが余ったのか、ジョミーは躓くようにベッドに足を引っ掛けると、せっかく起き上がったブルーを押し倒す形でベッドの上に転がり込む。
「ジョミー!?」
その肩を掴んで、上に乗った身体を押し上げる前に、乱入者はベッドに手をついて自分で身体を起こした。
どこから走ってきたのか息を切らせた赤い顔で、ブルーの横に手をついて上から見下ろす。
「き……きたい、ことが、あり……ます……」
「ジョミー、その前に水でも……」
「ぼくの……」
とにかくジョミーを落ち着けることが先だろうと手を伸ばしてその肩を掴む。起き上がろうと促しても、ジョミーはそれに従わなかった。
「ぼくのこと…………好き?」
目を見張った。
押し倒したブルーを上から覗き込み、走ったせいで息苦しいのか眉を寄せた表情が、まるで切ない想いを込めているようで。
「ジョミー……それは」
「ぼく、は……」
目の前で、ジョミーが大きく息をついた。
額から流れた汗がブルーの頬に落ちる。
「愛……なんて、よくわからない」
眉を寄せて、苦しみを堪えるような表情。
「ママやパパの愛情とは違うって、でもぼくは、愛なんてよく、わからない」
ブルーはそっと息を吐いた。
親愛の情と恋愛の情と、その愛がわからないと、ジョミーまだこんなにも子供なのだ。
それなのに、あんな想いを向けて可哀想なことをした。
「ジョミー、わからないならそれでいい。すまない。君にそんな負担をかけるつもりではなかった」
指先でそっと頬の触れる。
そのまま手を滑らせて、汗の滲むこめかみまでを掌で拭うように優しく撫でた。
ジョミーは気味が悪いとブルーを避けることもなく、信頼を裏切られたと疎むこともなかった。
ならばそれで十分ではないか。
そう宥めて終わらせるつもりのブルーの心情を察してか、ジョミーは汗を拭って優しく撫でるブルーの手を拒絶するように首を振る。
「ぼくは、あなたが好きだ」
誤魔化すことも飾ることもない、シンプルな言葉をぶつけられて、ブルーは息を詰めて振り払われて宙に浮いた手を止めた。
「ぼくには愛なんてよくわからない。好きって気持ちも……本当は……よくわからない。でもあなたのことは、ママとも、パパとも、フィシスとも、リオとも、ハーレイや他のみんなとも、全然違う。わかることはそれだけだった。でもさっき、もうひとつだけわかったことがあるんだ」
ようやく呼吸を落ち着けてきたジョミーは、ゆっくりと口の端を上げるようにして微笑みを浮かべる。
「唇へのキスは、あなたとでなければいやだって」
息を詰めるように声を失ったブルーがどう見えるのか、ジョミーは笑みを浮かべたときと同じようにゆっくりとその表情を消して真剣な目に戻っていく。
「あなたのキスで、こんな風に思うものなんだって、初めて知った。他の誰ともしたくない。あなただけだ」
虚言を許さない翡翠の瞳がまっすぐにブルーを見つめる。
「ぼくのこと、好き?」






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まだ恋がなんたるかを理解していなくても、
ジョミーは色んな人から助言をもらって、
ようやく自分の気持ちにたどり着きました。
あとはブルー次第なんですが……。