今朝はともかく、昨夜は実に有意義だった。 今朝のことにしたって殴られた顎は多少痛むが、蓑虫のように丸まって僕を睨みつけるジョミーが、あれはあれでなかなか楽しかった。 涙を溜めて僕を睨みつけるあの大きな瞳の美しいことといったら! なにより可愛いのは、僕が出勤すると言ったときのあの悔しそうな、心細そうな表情。 あの子の理性は昨夜のことを覚えていなくても、身体が覚えている。少なくとも、怒りはしても憎むところまではいっていない。 本当に心底嫌悪しかない相手に、ああいう顔は見せまい。 「本当に大人の男に弱いらしいね、ジョミー?」 エレベーターに乗り込んで、スーツのポケットから彼の生徒手帳を取り出した。服を脱がせたときに、一緒に洗濯してしまわないように一応抜いておいたものだ。 中には勝気そうな少年の写真が貼られていて、ご丁寧に最後のページにはきちんと住所と自宅の電話番号という連絡先まで記されている。たとえ彼がこれを書き込んでいなくても、学校さえ判れば十分だったけれど、書いてあればなおいい。 軽いハミングで鼻歌を歌いながら生徒手帳を閉じたところで、エレベーターは一階降りただけで停止した。 軽快な音がして扉が開く。 「あら、ブルー。今日は早いのですね?」 「やあ、僕のフィシス!今日も綺麗だね」 長い髪を一つに束ねパンツスーツに身を包んだフィシスは、両手を広げてそう褒め称えた僕に胡散臭そうな目を向けながらエレベーターに乗り込んできた。 「いやにご機嫌ですね。朝から珍しいこと」 「うん、昨日は久々に楽しいことずくめだったからね」 「それは私が近々結婚をするつもりですと、ご報告したことも含めてですか?」 もちろんその通りだ。彼女が幸せになってくれるのならこれ以上のことはないし、僕の自堕落な私生活に口うるさく叱られることもなくなる。万々歳ではないか。 だがそんな言葉を馬鹿正直に口にするほど僕も子供ではない。お互い明白なことであろうと、敢えて口に出さないのが花というものだ。 「そういえば、昨日は相手のご家族に挨拶をすると言っていたね。上手くいったのかい?」 「ええ、滞りなく。おめでとうと笑顔で祝福していただきましたわ」 「それはよかった」 エレベーターが地階の駐車場に着く。先に降りたフィシスは、僕がその後ろをピッタリとついて歩くことに怪訝そうに振り返った。 「ブルー?」 「僕の車はまだ車検から帰って来ていない。知っているだろう」 「ですから、素直に代車を借りればよろしいでしょうと言いましたのに」 「嫌だよ、誰が使ったのか判らない車なんて。他人とハンドルを共有するのは好きじゃないんだ」 「そんなにこだわるほど車が好きというわけでもないのに、難しい性格ですわね」 フィシスの嫌味に、僕は肩を竦めるだけで応じた。 だがそのお陰で、昨日は駅からの帰りにジョミーを見つけることが出来た。思えばフィシスが婚約者の家族に会いに行く日だったからこそ、送ってくれる者もなく徒歩だったのだ。 あんな幸運はそうはない。タクシーを使わなくて本当によかった。 ロックを外したフィシスの車の運転席のドアを開けると、彼女は軽く礼を言って乗り込んだ。 ドアを閉めて助手席側へ回りながら、ふと胸のポケットに入れた生徒手帳の存在を思い出す。僕がジョミーを手に入れた幸運も、彼が最愛らしい兄から恋人ができたと紹介されたからだったか。 「フィシス。相手が笑顔だったからといって、本当に祝福されていると信じて落とし穴に落ちないように、気をつけた方がいいと思うよ」 助手席に乗り込みながらそう忠告すると、フィシスはエンジンを掛けながら今度こそ実に嫌そうな顔をする。 「人の幸福に難癖をつけようなんて、本当に嫌な方ですね」 「君の幸福を願うからこその忠告だろう?」 確かにいらない波風を立てかねない忠告でもあったけれど。 だが車の後方を確認して、ハンドルを握り直した所でフィシスが溜息をつく。 「ですが、あなたの言うことも判らないでもないです。どんなに笑っていても、絶対に義姉さんとは呼んでくれませんでしたもの……」 僕はシートを倒して一寝入りする態勢になりながら、おやおやと肩を竦めた。どうやら相手にはなかなか手ごわい小姑もいるらしい。 昨夜ジョミーを可愛がることに熱中して寝不足だったこともあり、このときフィシスが相手の両親ではなく、婚約者の兄弟のことしか口にしていなかったことについて深く考えることもなく、会社に着くまでそのまま眠りに落ちた。 仕事の後の軽い疲労を抱えて僕が帰宅したのは、実に十二時間ぶりのことだった。繁忙期を過ぎたばかりというのはこういうときにありがたい。 昨日はすこぶる楽しかったが、残念ながら僕はそれほど若くない。寝不足のままでの仕事はそれなりに堪えた。 フィシスとは一階下で別れ、エレベーターを出てすぐの扉を開けると、いつものくせで玄関の明かりもつけずに月明かりだけでリビングまで進む。 さて、ジョミーは僕に何かしら反撃をしていったか、それともとにかく逃げ出したか。 少し怖いような、楽しいような、リビングになにか被害は出ているかと期待しながら明かりを点けて……強かな反撃にかなりの衝撃を受けた。 「ううーん……」 急に灯されたライトが明るかったのか、ソファーの上の少年は眩しそうに身じろぎをする。 すると着ていたシャツの裾が乱れ、白い足がさらに顕わになった。 「………すごいな、君は」 まさかあんなに怒っていた相手のシャツだけを着て、無防備にソファーで眠っているとは思いも寄らなかった。 僕もさほど体格がいいわけではないが、まだ成長期に入っていないのだろう小柄なジョミーには十分大きいようだ。 今は少し捲くれているが僕のシャツ一枚でも太股までは隠せるらしいし、袖口からは僅かに指先が見えるだけで、掌はまるで見えない。ボタンを留めても鎖骨がちらりと覗き、全体的にシャツを着るというより、着られているような感じだった。 それにしても……こうして肌を合わせた相手が、僕のシャツを着て眠っているという姿はなかなかそそる。 リビングの入口で腕を組み、じっくりとその肢体を眺めていた僕は、鞄すら下ろすのを忘れて小脇に抱えていたことにしばらく気づかなかった。 ジョミー、君の誘惑の仕方は悪くない。 悪くないどころか、最高だ。 「まあ……もっとも」 ちらりと目を向けると、黒檀のローテーブルの上にはありったけのうちにあった食糧を食べ尽くしたのだろう残骸が並んでいる。大した量は置いていなかったと思ったのだが、なかなか頑張って探し出したらしい。報復としてはささやかすぎて可愛らしいものだ。 「満腹になったら寝てしまったというのが真相だろうけどね」 飲み慣れない酒を飲んで、初めての性行為を行った疲れは相当なものだろう。 だがそうと事情が知れたものだとしても、据え膳を食わぬは男の恥だ。 「せっかくジョミーが今夜も泊まるというのなら、それに応えるのがマナーというものだろう」 僕は鞄をそこいらに放り投げて、脱いだスーツをダイニングの椅子に掛けると、ネクタイを解きながらソファーへ歩み寄った。 |
「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven
ちょっぴりブルーが変た……(以下略) |