ぶつけた頭はかなり痛かったけど、お陰で目が覚めた。
なに流されそうになってるんだ。
髪を梳く手とか、耳にずしっとくる低めの甘い声とか、優しそうな笑顔に少し格好いいな、なんて思ったのは気の迷いだ。
忘れちゃいけない。
こいつは意識のないぼくをいいようにした奴じゃないか!
危うく間違いを起こすところだったぼくの目を覚まさせてくれたのは、やっぱり頼りになる兄さんだった。
取り返しがつかなくなる前に電話をくれてありがとう、兄さん!
床に落ちた男に目も向けずに、ソファーから身を乗り出してローテーブルに放り出していた携帯を慌てて開いた。
「兄さん?」
『ジョミーかい?ごめんね、メッセージは聞いてくれた?』
「え……」
メッセージってなんのことだろう。そう首を傾げながらふと窓の外に目を向けて、日なんて欠片も見えない夜の空に、どっと心臓が跳ね上がった。
今が何時なのか、周囲を見回したけどこの部屋には時計がない。とにかくとっくに夜になっていることだけは確かで、連絡もなしに家にいないことで心配を掛けたのかと冷や汗が流れる。
知らない男の部屋にいるだなんて、絶対に兄さんに気づかれてはいけない。
床で顎を押さえて悶える男にちらりとだけ目を向けて、携帯を握り直した。
「ご、ごめん。部室に携帯を忘れてさ!今ちょうど取りに戻ったところだったんだ。連絡くれてたの?」
『ああ、そうだったのか。なら伝言にも残っていると思うけど、今日は家に帰れなくなって』
「え!?」
いつもならすごく寂しい話だけど、今日だけは違う。
助かった。
それがぼくの本音だった。これで今すぐ家に帰っておけば、この男に引っ掛かったことや、その原因になったお酒のことは兄さんにバレずに済む。
「帰れないって」
『仕事のトラブルでね、すぐに対応しなくちゃいけなくて、直接現場に……今はエネルゲイアにいる』
「エネルゲイアー!?」
帰れないって、てっきり忙しいからとか思ったのに、距離の問題だったのか。距離と忙しさと、両方かもしれないけど。
「じゃ、じゃあ明日も帰ってこれないの?」
『うん、やっとこちらに着いたばかりなんだ。明日から対応するとして……二、三日は帰れないと思う。その間、一人でも大丈夫かい?』
大丈夫も何も、一人で留守番をすることは初めてではない。嫌だと言ってどうにかできるものでもない。仕方の無いことだ。わかっている。今日はまだ帰っていなくてホッとしたのも本当で。
だけど今日はダメでも、明日には家に帰って来て欲しかった。明日には顔を合わせて、なんでもない言葉を交わしたかった。
寂しくて誰かに身を任せたのなんて馬鹿な間違いだったと、ただそう反省できると思ったのに。
「うん、大丈夫。平気だよ。ぼくがいくつになったと思ってるのさ」
小さな子供じゃないんだからと笑って答える。明るい声が出せた。笑い声も自然だったはずだ。
『ジョミーはしっかりしてるから、大丈夫だとは思うけど……もしもひとりが不安だったら、彼女に家に来てもらおうか?もうすぐ一緒に暮らすことになるし、その予行になるかもしれな……』
「いらない!」
勢い込んで否定して、必要以上に力が篭ってしまったことにはっとする。
「い……いくら結婚するからって、いきなり女の人にそんなこと頼んだら迷惑だよ。ぼくとは一昨日に一度会ったばっかりなんだよ?兄さんがいるならともかくさ。ひとりで大丈夫だって!」
携帯電話を握り締める手が震える。なんでもない声が出せた。そう思う。
でも、ぼくはなんて心が狭いんだ。兄さんの大切な人なのに、受け入れられない。
ぼくよりあの人を信頼しているのかとか、馬鹿なことを一瞬でも考えてしまったことに唇を噛み締める。そうじゃない、そういうことじゃない。わかっているだろう?
『ああ……うん、そうだね。寂しければ友達を呼ぶか。ジョミーの年頃の子が集まって保護者がいなければ、気兼ねないだけに大変な泊まり会になりそうだけど』
兄さんが電話口で笑った。ぼくも笑った。本当に向こうで兄さんは笑っているんだろうか。
目を擦りながら、おやすみなさいと挨拶をして通話を切った。


「お兄さんかい?」
床から起き上がった男が、ソファーに頬杖をついてぼくを見ていた。顎が赤い。
電話に夢中になっていたぼくは、目を擦りながらふんと顔を逸らす。
「あんたには関係ない」
「エネルゲイアね……遠いな」
「き……聞いてたのか!?」
「聞えたんだよ。この距離で話していたんだから当然だろう?」
綺麗な顔に似合わず、よいしょなんて声を出しながら床から腰を上げると、ぼくの隣に座った。警戒したけど、とりあえずは手を伸ばしてきたりはしない。
「ひとりなら外泊の理由も作らなくていいし、都合が良い。もう今日は時間も遅いから泊まっていくといいよ」
「……それを……素直に頷くと思ってるわけ?」
「どうかな。でも僕が帰したくない」
「あんたの都合なんて知るか!」
「僕は泣いている子をひとりにするほど、情けない男のつもりはないよ」
伸びてきた指が、ぼくの頬を撫でるように優しく擦った。
濡れた指先を見せられて、ぼくはむっと相手を睨みつける。
「寂しくて泣いてるわけじゃない」
「ああ……そうだね」
頷いた口調が、さっきの兄さんにそっくりでドキリとした。背けていた顔を戻して男を見上げると、優しい顔で苦笑している。
兄さんも、こんなお見通しみたいな顔をしていたんだろうか。
「君のその涙は、寂しさではないね。悔し涙だ」
「なにわかったようなこと……っ」
ぼくはフィシスさんに負けたことで泣いているんじゃない。
「『兄の恋人』に過剰反応してしまう、自分に対する悔し涙」
そう……兄さんの中で、フィシスさんに負けるんだと思ってしまう自分がいやなんだ。
そうじゃないだろう。ぼくは兄弟で、フィシスさんは婚約者で、全然違う存在だってわかっているのに、何でも一番でないと嫌だなんて、どんな子供だ、と。
なんでこいつにそんなことを見抜かれてしまうんだ。
携帯を握り締めた拳を膝に置いて俯く。今度はそんなに簡単にわかってしまうほどぼくは単純なのかと、そちらが情けなくて。
肩に手が回って、ぐいっと抱き寄せられる。
構えていなかったせいで、簡単に男の胸に倒れ込んでしまった。
どさくさに紛れてなにやってるんだ!
肩に置かれた手の大きさと暖かさに、一瞬でも安心したのなんて気の迷いだ。
相手の胸に手をついて身体を離そうとしたのに、更に強く肩を抱き締められる。
「やめろよ!」
「今自宅に戻っても、嫌な気持ちを抱えているだけに、そのことだけを考えてしまうんじゃないのかな?」
「それでもここにいるよりはマシだ!」
「別に、君がどうしてもと嫌がるなら、何もしないよ?」
あっさりとそんなことを言われて、ぼくは思わず押し返す手を止めてしまった。
「……は?」
そんな話が信用できると思っているのか。昨日から今にかけてまで、自分が何をやっているのか、わかっているのか、こいつは。
ぼくが呆れた目を向けると、男は綺麗な顔に困った表情を乗せて肩を竦める。
「昨日は合意、君からも誘ったと言っただろう?今日だって初めくらいは多少強引に進める必要があるとは思ったけれど、最後まで抵抗されながらするのは趣味じゃなくてね」
「……だったら、なに?さっきまでのことは、少しすればぼくがあんたを受け入れると思っていたって、そういうこと!?」
なんてことだ。昨日からこれ以上の屈辱はないと何度も考えていたのに、次々に記録が塗り替えられていく。驚いた。こんなに短時間で、ここまで人を不愉快にさせる人間がこの世にいるなんて!
「様子を見るつもりはあったよ。蛇蝎のように嫌う目を向けられたらやめておこうかな、と」
「ぼくは、そんな目を、してなかったか!?」
わざとゆっくり区切って言うと、男は悪びれずに頷く。
「してなかった。驚いたり、純粋な怒りであったりはしたけれど。あれを憎悪と呼ぶには、憎しみが足りないかな」
じゃあどれだけ嫌がれば、引いたんだよ!
嘘をつけという目で睨みつけたのに、まったく堪えた様子もなく悲しげな顔をして、ぼくの額に、こつりと額を重ねてきた。
「君のことが可愛くて仕方ないんだ。だからね、どうせ泣くなら、僕のことで泣いてくれないか」
そうしたら、その涙も止めてあげるよ。
甘い優しげな声でそんなことを言う男に、ぼくはすぐそこにあった耳に噛み付いた。



「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven

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結局噛まれました