耳に触ると、僅かにだが歯型がついているようだった。血は出ていないからよしとしよう。
噛み付かれてさすがに僕が怯んだ隙に、ジョミーはバスルームの方へ駆け込んでしまった。
さすがにあの格好では外に出られないから、着替えて帰るつもりなのだろう。
兄からの電話で表情を綻ばせたジョミーは大層可愛らしかった。よりによって余計なタイミングで連絡をくれたものだという不満は腹の底から言いたいが、それとは別にジョミーのあの笑顔と、そして落ち込んだ様子で肩を落とした表情の可愛いことといったら!
強がってみせる健気な姿など、いいものを見せてもらったとも思う。
どうせ学校も住所も知っているし、今日はこの辺りで退いてタクシーで送ってあげる方がいいかもしれない。
帰っても誰もいないひとりの部屋は、寂しいのだという気持ちを強くさせるだろうし、その方が次の時に誘う幅も広がり易くもなるだろう。
それにしても、兄が帰らなければひとり、か。あの話を素直に受け止めれば、どうもジョミーたち兄弟は両親とは一緒に住んでいないらしい。
「ふむ……」
ソファーの背凭れに身体を預けながら、ダイニングの椅子に掛けたスーツに目を向けた。
とりあえず今日のところは帰しても、次に会う理由はできている。一時拝借したジョミーの生徒手帳はまだ僕が持っている。
生徒手帳の紛失にジョミーが気づいているのかいないのか、とにかく僕に詰め寄ってこない限りは、僕から言うことはない。
そう算段をつけたとき、荒れた様子でドアが開きバスルームからジョミーが戻ってきた。
その姿に、今日のところは素直に帰そうなんて考えは、一瞬にして消えた。
「君、なんて格好をしてるんだ!」
「……自分の服を着て何が悪い」
不機嫌そのものなのは、僕のせいだけでなく自分でも無理を押しているのがわかっているのだろう。
ジョミーの服は、上から下までかなり皺が寄っていた。長時間洗濯したまま放っておいたらしい。だが、問題はそこではない。問題は、それがまだ少しも乾いている様子がないことだ。
「乾燥機があっただろう」
「そっちに掛ける前に寝ちゃってたんだからしょうがないだろ!」
こんな季節にそんな格好で外へ出れば風邪を引いてしまう。
玄関に向かおうとするジョミーに、慌ててリビングのドアの前に立って道を塞いだ。
「待ちなさい。一度服を脱いで。乾燥させてからでないと、そんな格好では帰せない」
僕を睨みつけるジョミーの眉が跳ね上がる。服を脱げという言葉がまずかったらしい。
鋭くなった眼光に、だが僕も今度は軽くいなしたりせず真剣にジョミーを見下ろした。
「乾かす間だけでいい。ここで服が乾くまで待てないというのなら、僕の服を貸すから」
「そしたら今度は返しに来ないといけないじゃないか!その手に乗るか!」
「ジョミー!」
ジョミーの肩が跳ね上がる。叱られた子供が怯えるように一瞬だけ目を瞑って、すぐにまた僕を睨み上げた。
だけどそれはもう先ほどまでの怒りをたぎらせた目ではなく、あとは意地なんだろう。
僕は溜息をついて、両手を組んでドアにもたれた。
君に手を出さないということと、このままでは帰さないという意思表示に。
「そういう疑いを持たせるだけの言動は確かにとっていた……すまない。だが、だからと言って馬鹿なことをしているのに見送るわけにはいかないだろう。服は別に返さなくていい。家に帰れば捨ててくれて構わない。だから、そのまま外に行くのだけはやめてくれ」
溜息と共に見下ろすと、ジョミーは居心地が悪そうに視線を合わせるのを避けて俯いた。
「……本当に」
ジョミーは小さく呟いて、迷うように眉を寄せる。
「なんだい?」
「本当に、何もしない?」
自分でも強引だと思っていたのだろう。仕方なく譲歩しているような口調なのに、唇を尖らせたそれは照れと拗ねを如実に表していて、僕は眩暈を起こしそうになった。
何もするなというのなら、そんな理性を揺さぶるような表情はしないでくれ。
「しないよ。だから、ちゃんと服を乾かしてから帰るんだ。いいね?」
だがここでそんなことを言えば、今度こそジョミーが爆発する。伸びそうになる手を組んだ腕に力を入れて堪えると、動揺など悟らせない平静な声で諭すように言う。
拗ねて目元を僅かに染めたジョミーが、無言でこくりと頷く姿は、もはや僕に対する凶器としか言いようがない。


一度了承すれば、ジョミーは言葉を偽らない。そういう子であることはもうわかっている。
僕が外へと続くリビングのドアを離れ、寝室から着替えにと上下一揃えを持ってきても、その隙に帰ったりはせずにちゃんとその場で待っていた。
「着替えておいで。それが終わったら、何かデリバリーを頼もうか。お腹が減っているだろう?」
ジョミーは素直に着替えを受け取り、やはり無言で頷いてバスルームへと踵を返す。
その背中がドアの向こうに消えると、僕は詰めていた息を吐いてソファーに腰を降ろした。
「……反抗的な姿も可愛くて、素直な様子は愛らしくて、それなのに手を出せないなんてひどい話だ……」
僕の劣情を試しているのかと言いたくなる。
半端に解いていたネクタイを完全に取り去って、適当に放り投げて髪を掻き上げた。
ジョミーを拾った夜は、好みの可愛い子と一晩楽しめればいいかとくらいの軽い気持ちだった。それなのに翌朝には、続けばいいなと思うようになった。
その時点で僕の負けだったのかもしれない。
今ではどうやって関係を切らないようにするかを考えている。
「……困ったな」
ジョミーといると、本当に疲れて、そして楽しい。
背凭れに完全に沈み込み、溜息を零したところで再びバスルームの方へ続くドアが開く。
その体勢のままで目を向けると、ドアノブを握ったままジョミーが足を止めて息を詰めた。
しまった、サイズの合わない服を着たジョミーが可愛いと思ったことが顔に出ただろうか。
僕はすぐに取り繕うように微笑むと、ソファーから立ち上がった。
「何を食べる?君もキッチンを見たなら知っていると思うけど、僕は自炊はしなくてね。大抵のデリバリーの広告は置いてあるんだ」
電話台にしているチェストの棚から広告やメニューの束を取り出すと、ついでに椅子に掛けっ放しにしていたスーツを手に取った。
何気ない様子を装ったのがよかったのか、リビングに戻ってきたときは一瞬硬い表情を見せたジョミーだが、すぐに肩の力を抜いて傍に歩み寄ってきた。
差し出した広告を受け取って早速選び出したその肩に、スーツを広げてそっと掛けた。
弾かれたように顔を上げたジョミーに、すぐに両手を上げて他意はないと示す。
「今日着ていたものですまないが、そのシャツは薄手で寒いだろうと思って」
袖も裾も折ってもそれほど邪魔にならないようにと思えば、薄手のものを選ばざるを得なかった。さっきまで濡れた服を着ていたことを考えれば、身体が冷えていてもおかしくない。
僕を見上げて口を開いたジョミーは、結局息を吸うだけで何も言わずに再びメニューに視線を落とした。
「何頼んでもいいの?」
「構わないよ。本当ならデリバリーで済ませるより、どこか美味しい店に連れて行ってあげたいくらいだしね」
「今すぐ外に出られるなら帰ってるよ」
じろりと不機嫌そうに睨み上げられて、肩を竦めて苦笑する。
「わかっているさ。だからこうして……」
ジョミーが持っているメニューのひとつを取り上げたとき、部屋のベルが鳴った。
こんな時間に訪問者が来る様な心当たりはない。
一人を除いて。
「……まずいな」
思わず零してしまった一言に、ジョミーが顔を上げたのでメニューを返しながら軽く手を上げる。
「気にしないで。君は何を頼むか決めてくれ」
早く行かないと彼女は合鍵を持っている。せっかくジョミーと二人きりの時間を潰されでもしたらたまらない。
ドア先で追い返そうとリビングを出たところで、既に鍵が開く音が聞えた。
一応は別に暮らしているのだから、最初から鍵を構えて来ないでくれないか、フィシス!



「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven

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好感度アップを狙ってない時の方が
優しげな気がするのは気のせいでしょうか。