「気にしないで。君は何を頼むか決めてくれ」 そう言ってリビングを出て行った男の背中が、ドアの向こうに消えてぼくはようやくほっと息を吐けた。 「あいつ……なんか反則じゃない?」 今こうしている元凶は滅茶苦茶な言い分で好き勝手にやったあいつなのに、真剣な顔をしたらまるで本当にぼくの心配しているように見えた。 なんてずるい。 それまでヘラヘラ笑ってばっかりだったのに、ドアの前に立ち塞がってぼくを叱りつけた時、あの怒った声と表情に不覚にも胸がぎゅっと苦しくなって、まるで……。 「ときめいてなんてない!」 浮かびかけた言葉を慌てて打ち消して勢いよく首を振ると、肩に掛けていたスーツが床に落ちた。 これを掛けられたときもそうだ。 あんまり自然に肩に掛けたから、ついお礼を言いそうになったけど、なんでぼくがあんな奴に礼を言わなくちゃいけないんだ。 とにかく食べたいものを選ぼうと拾い上げたスーツを肩に掛けてソファーに移動して、顔が熱くなる。 この服に着替えて戻ってきたら、ここであいつが寛いでいた。自分の家なんだから当たり前だ。でも、疲れた様子でここに身を投げ出していた姿に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ! ……認めたくはないけど、見とれてしまった。 せっかくあんなに顔がいいのに、なんで変態なんだろう。もったいない。 溜息をついてソファーに座ると、テーブルにメニューを広げる。 頭の中がごちゃごちゃして食欲なんてない……と思っていたのに、写真付きのメニューを開けると腹の虫が鳴って思わず頭を抱えた。 「ぼくってさあ……つくづく図太いよね……」 頬杖をついて溜息をこぼしながら、昼とは違う心境になっていることに気づいている。 何もしないといったあいつの言葉を、ぼくは信じているんだ。 あんなことがあってどうして信じられるんだと自分でも呆れるのに、それでも疑う気にはならない。 随分色々好きにやってくれたことに対する怒りは当然まだ腹の底で燃えているけど、不思議と嘘だけはついていないと、そう思う。 あいつが言った数々のぼくの言動は信じたくないことだらけなのに。 ―――僕の傍においで 囁かれた優しい声が、耳の奥に残っている。 気が付くと、メニューを捲る手が止まってぼうっと考えて込んでいた。 慌てて首を降って、気の迷いを断ち切ろうとする。なに流されそうになってるんだ。 「遅いな」 気持ちを切り替えようと顔を上げて、玄関の方へと顔を向けた。電話はすぐそこにあるし、何でも好きなものを食べていいと言ったんだから、勝手に頼んでもいいだろう。でも、あいつだって何かいるだろうし、何がいいかはぼくにはわからない。 全然話が終わりそうもないなら、とりあえずぼくの分だけ勝手に頼んじゃおうかな。 まだ何を食べるか、どこに電話をするかも決めていないのに、ぼくは落ち着かなくてドアへとにじり寄った。 行儀が悪いとは思いつつ、ドアを薄く開けると女の人の声が聞えてくる。 「どうして付き合ってくださらないのです!」 「だから僕には用事があると……」 「あら、今日は何の用事もないから送ってくれとおっしゃったのは嘘でしたの?」 「少し予想とは違うことが起こって急用ができただけだ」 「出かけるならお送りしたほうがよろしいですね?ブルーの車は車検に出しているでしょう」 憤慨しているらしい女の人の声に、そっとドアを閉じた。 さっきまでお腹が減っていたのに、腹の底がムカムカして気分が悪い。 なんだ。彼女がいるんじゃないか。 怒った声は少し荒々しかったけど、綺麗だったと思う。 あんなに顔がいい男の彼女なら、美人かもしれない。 「一緒に暮らそうとか……嘘ばっかり」 当たり前だ。昨日拾って連れ込んだだけの、どこの誰とも知らない子供と一緒に暮らそうと思うなんて人がいるはずがない。嘘をついてないと思ったのだって、ぼくがそう感じただけだ。あいつは嘘をつかないなんて言えるほど、ぼくはあいつのことを知らない。 知っているのは、広い高そうな部屋に一人で住んでいること、顔がやたらに綺麗なこと、口が上手いこと、名前がブルーだということ。それから……。 「……それだけだ」 デリバリーを頼むならどんな料理がいいかすらも知らない。 なんだか妙に泣きたくなって、ドアに背中をぶつけると、そのままずるずる座り込み膝を抱えてそこに顔を埋めた。 なんで泣きたくなるのかわからないのに、鼻の奥が痛くなってぎゅっと強く目を瞑る。 どうしてこんなに胸が痛いのか、わからない。 「……うちに帰りたい」 ここにいるのが苦痛になってきた。嫌で嫌で仕方なかったのは朝から同じはずなのに、どうして今の方がこんなに息苦しくて、悲しいのかわからない。 ぼくは抱えていた膝から顔を上げて、立ち上がった。 帰ろう。服は返さなくていいって言ってたから、このまま帰ればいい。 出て行くにはブルーと彼女の前に出なくてはいけないけど……彼女には酔っていたところを拾ってもらったと正直に言えばいい。……その後どうなったかは言わずに。 一瞬だけ全部ぶちまけたい衝動を感じたけど、それは彼女が可哀想だ。自分の彼氏が少年を連れ込んだ挙句に色々した、なんて。 テーブルに広げたメニューの下から携帯と家の鍵だけ取ると、ぼくは迷いながら、それでもこれ以上ここにはいたくなくてドアを開けた。 ドアを開けて、ぼくは自分の目を疑った。 「もう!わかりましたわ、帰ります!本当に冷たい人!傷心の……」 リビングから玄関までの廊下の明かりは、決して強くはない。 だけどブルーの肩越しに目があったぼくと彼女は、同時に相手を認めて絶句した。 硬直した彼女に首を傾げたブルーの肩が、何かに気づいたように跳ね上がって、同時に身体ごと振り返る。 「ああ、すまない。お腹が減っているんだよね。そういうわけでフィシス、僕の用事とは来客があってだね……」 「ジョミー!あなたどうしてここに!?」 「フィシスさん!あなたこそ……」 一瞬にして、居心地の悪い悲しさが消え去って、代わりにぼくの胸には真っ黒な怒りが駆け上った。 血の気が引いて体温が一気に下がったみたいなのに、頭の中はぐつぐつと煮え滾るようだ。 兄さんを、あんなに優しい兄さんを裏切っていたのか。 過去に誰かと付き合っていただけなら別にいい。普通の話で、怒ることでもない。 だけど兄さんと結婚をする約束までしていて、まだこんな夜に訊ねるような付き合いを続けていたなんて。 それもブルーと。 ブルーと兄さんを天秤に掛けていたのか。それとも、どっちも手に入れようとしているのか。 「……どっちでもいい……こんなに酷い裏切りなんて……っ」 「その服……ブルーのものですね?二人はお知り合いだったのですか?」 目を丸めて、本当に驚いたような顔をするだけで、ぼくにブルーのことを知られた気まずさなんて欠片も見せない。それで誤魔化すつもりなんだろうか。 こんな人を優しそうだなんて思って、ぼくの眼は本当に節穴だ。 ブルーも、フィシスさんも、嘘をついてばかりじゃないか! 「ちょ……ちょっと待ってくれ。二人は知り合いなのか!?」 ブルーが目を白黒させてぼくとフィシスさんを見比べる。 ああ、それはそうだろう。行きずりで手を出しただけの子供が、まさか自分の彼女と顔見知りだなんて思うはずが無い。慌てて当然だ。 こんな奴を一瞬でも信じようとしたなんて。 あんな人を、兄さんにお似合いだと思ったなんて。 兄弟揃って、この二人に振り回されたなんて、なんて滑稽な話なんだ。 泣きたくなって、笑いたくなって、ぼくは上まで止めていたシャツのボタンを一つ外して、ブルーが昨日つけた跡をわざと見えるようにして彼女に向かって微笑んだ。 「ブルーとは知り合いだよ。昨日からだけど」 「え………ええ……!?」 彼女は最初わからなかったようだけど、ぼくが近付いて行くと首の跡に気づいたようだった。顔を赤くして両手で口を押さえる。 別にこの二人の仲を壊したからって、兄さんが騙されたことも、ぼくが好きに扱われたこともなくならない。 ぼくがやっていることは、空しくて、悲しいだけだ。 それでも、ぼくは驚く彼女に微笑みかけながら、まだ事態についていけない様子のブルーの首に腕を回す。 「でも、ぼくの身体で、彼が知らないところなんてないけどね」 思い切り腕を引いてブルーに屈ませながら、ぼくも背伸びをして噛み付くようなキスをしてやった。 じっくりしたほうが彼女にもブルーにも痛手だろうけど、すぐに唇を拭いたい衝動に駆られて、ブルーを突き放すようにして離れる。 反動でよろめいたのはブルーではなくぼくの方で、壁に背中をぶつけながら、振り上げられた彼女の細く白い美しい手を見て、泣きたくなりながら微笑み続けた。 あの手が振り下ろされる一瞬まで、いや最後まで泣くものか。 こんなことでぼくが傷ついたはずなんて、ないのだから。 |
「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven
全員揃って大混乱中。 |