「こんばんは、ブルー。一緒に飲んでくれませんか?」
僕が開けるまでもなく合鍵でドアを開けたフィシスは、ワインのボトルを掲げて見せた。
「君ねー……」
先ほど階下で別れてまだ三十分と経っていない。彼女はともかく、僕がまっすぐ自宅へ戻った日では、食事を終えるにはまだ早すぎる。つまり、彼女は僕に夕食より酒に付き合えといっているのだ。その証拠に、この部屋にはろくな食糧がないと知っていながらワインしか手にしていない。食事しつつということなら、こちらに来いと誘うはずだ。
「普段あれだけ僕の生活習慣は悪すぎるとか言っているくせに、その誘いは何事だ」
「言っても直さない人がなにを今更。私はもうすぐこのマンションを出ていくのですよ?もう少し、一人暮らしに気を配ってみてはいかがです」
呆れたように言いながらいつものように部屋にあがろうとしたフィシスは、僕が場所を空けないことに首を傾げる。
「ブルー?」
「何があって急に飲む気になったのかは知らないが、僕は今日は用事があって……」
今日は駄目だと続けるよりも早く、フィシスの瞳に涙が浮かぶ。
「フィ、フィシス?」
さすがに面食らって、ドアを開けたまま入口に立つフィシスを覗き込もうとする。
だがフィシスは泣いて俯くことなどはなく、力を込めて手を握り締めた。ギリギリと音がしそうなそれに、僕は身の危険を感じて僅かにだけ後ろに下がる。
「ど、どうしたというんだ」
「あの人の家に行くことを、断られましたの」
「なんだって?」
あの人、というと婚約者のことだろう。婚約者が家に来ることを拒むとはどういうことだ。
まさかフィシスをないがしろにするような男なのではないかと、眉を寄せる。
フィシスは彼を僕に紹介すると言ったが、さすがにフィシスの両親に先駆けて僕が挨拶をするわけにもいかないだろうとまだ先延ばしていた。だがやはり会って人となりを見ておいた方がよかっただろうか。
「夕方頃に連絡があったのですが、今日あの人は急の出張で家に戻れなくなったそうなんです」
「ん?」
それでどうして婚約者の家に行くのか。断るのも当然の話に首を傾げる。
「それが嘘だった?」
「いいえ?どうしてそんな話になるのですか」
じゃあどうして涙を浮かべるほど悔しがっているんだ。
わけがわからない僕の疑問は話の続きで解決された。
「それで、急に一人になってしまうあの人の弟のために、私が食事を作りに行きましょうかと言ったんです。あちらに泊まることも考えていて、あの人もそうしてくれたら安心だ、と……」
それでは婚約者は断っていない。むしろフィシスに留守を任せようとしているんじゃないか。だが実際には、結局こうしてここで落胆している。
ならば断ったのは、一人にされる婚約者の弟本人なのだろう。
……どこかで聞いた話だな。
「弟くんに断られた?」
「ええ、今あの人から連絡が。まだ照れているのだろうと言っていましたが、避けられているのですわ、きっと」
溜息をついたがフィシスはその事態に怒りや本格的な悲しみというような感情はないようだ。仲良くしたい相手から背を向けられて、意気消沈はしたが次の機会に備えて英気を養う。
つまりは、そういう酒盛りか。
普段ならそれに付き合いもするが、今日はその程度の話なら悪いが帰ってもらおう。
そう思ったのだがフィシスは珍しく頑固だった。それだけ見た目よりも落ち込んでいたのか、それとも先に自室で一杯傾けてきたのかもしれない。
そちらに気を取られて、どこかで聞いた話だと思ったことについて深く考える間もないうちに、ジョミーがリビングから現れた。


ジョミーからのキスだなんて信じがたい事態に酔う暇も無かった。
つい、思わずその背中に手を回して抱き締めようとしたのに、すぐに突き飛ばされてジョミーが離れてしまう。
その微笑みの下に、隠しようのない怒りと侮蔑を見出して、僕は歓喜に震えた。一瞬だけ。
ジョミーは、フィシスを僕の恋人と勘違いして怒ったのだ。だからこんなことを。
どうでもいい相手なら恋人がいたって怒りはしないだろう。
それが一瞬だったのは、次の瞬間にはバチリと締まらない音を立てて、平手で頭を殴られたからだ。
「いたっ」
「なんて……なんて人なんですか!」
フィシスは続けて平手で僕を殴り続ける。
「ま、待ちなさい、フィシス……」
「気まぐれで、頑固で、我侭で、私生活は自堕落で、それでも、あなたを人としては尊敬すらしていたのに!」
「いたたっ!フィシス、ちょっと待ちなさ……っ」
両腕を上げてフィシスの攻撃から身を守っていたのだが、たまたまフィシスの手の甲が僕の顎を殴るように掠めて、僕はとうとうその場にしゃがみ込んだ。
今日、ここを殴られるのは三度目なんだぞ!しかも二度目は強烈な頭突きだった!絶対に明日には青痣になっている。
僕がしゃがみ込んだからか、フィシスの攻撃の手は止まったが、本気で憤っているらしく肩で息をしながら糾弾の声は止まない。
「何を考えているのですか!ジョミーはまだ14歳なんですよ!?それを……それを……なんて情けない!あなたがそんな人だとは思いもしませんでした!」
目の前にあった足が方向を変えて、フィシスがジョミーの方へ向かったのだとわかる。
振り返ると、フィシスはジョミーの肩を掴んで揺さぶっていた。
「いいですか、ジョミー。この人の顔に騙されてはいけません。優しそうな面差しをしていて、いざとなったら悪魔のような笑みを浮かべる人です!」
「……いくらなんてでもそれはないんじゃないか……フィシス……」
フィシスは強く僕を睨み付けると、ジョミーに向き直った。その表情は一変して心配をする慈愛に満ちた女神のようだ。
「本当に、あなたを大切に想うのならば、まだ身体が成熟しきっていないあなたに無体なことをするはずがありません」
本気の心配を向けられて、ジョミーは混乱しているようだ。フィシスに対する怒りが空転して事態についていけていないのだろう。
だがその間に、僕の中でどこかで聞いた話が繋がった。
フィシスの婚約者は、ジョミーの兄だったのか。
驚くほど狭い世間だった話に、僕は思わず天井を見上げる。
フィシスが婚約者の家族に会いに行った夜にジョミーが酔って外で不貞寝をしたのは、偶然ではなかったのだ。
「な……なに言って……そ、そんな態度で誤魔化そうたってそうは……!」
「ジョミー?」
手を振り払われたフィシスは驚いて目を瞬く。
ジョミーの怒りは、フィシスの存在に怒ったのではなく、フィシスが兄を騙していたのだと勘違いしたからか。その怒りで、腹を立てているはずの、それも自分の意思とは関係なく肌を重ねたはずの僕にキスをしてフィシスに見せ付けるのだから、いっそ天晴れなブラザー・コンプレックスだ。
ジョミーに嫉妬してもらえたと浮かれていた僕は、落胆しながら立ち上がって溜息をつく。
「ジョミー、僕とフィシスは恋人同士なんかではないよ」
「一体なんのお話ですか!?」
恋人同士なんて言葉を聞かされて、フィシスは驚いたように声を裏返す。
そしてジョミーは僕をまるで信じていない目で睨みつけてくる。
ああ……その視線が嫉妬からくるものなら、僕は大喜びで君の手を取って引き寄せて頬にキスをするのに。
「彼女は僕の姪だよ」
「ブルーはただの伯父です!」
まったく同時に、僕は溜息混じりに弱々しく、フィシスは心の底から心外だと言わんばかりに強く、ジョミーに訴えた。



「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven

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夢のような夜の次の日は
痛い目に遭ってばっかりの日でした。