「フィシスはこの下の階の部屋に住んでいるんだ。訳があって僕が預かっていてね。昔は一緒に暮らしていたが、さすがに彼女が年頃になったので、部屋を別けている。ちなみに仕事は僕の秘書」 ……だ、騙されるものか……。 心の中で騙されるものかと懸命に繰り返していたのに、ぼくの様子を見ていたブルーがそれなら証拠を見せようと部屋に戻る。 ソファーでは人数が多いし横並びになるので、キッチンの方のテーブルにぼくとフィシスさんが向かい合って座り、ブルーは本棚からアルバムを取り出してきて、フィシスさんの横の椅子に座りながらぼくの前に置いた。 「僕と写っているフィシスの写真がある。子供の頃からね」 ちらりと視線を向けると、ブルーはどうぞとばかりにアルバムを更に少しぼくへ押し出す。 ここで立ち止まっても一緒だ。兄さんが騙されていたわけじゃないなら喜ばしいことじゃないか!そのためにはちゃんと確認しなくちゃ! ぼくが覚悟を決めてえいっとページを捲ると、そこには優しい笑みを浮かべて、綺麗な金色の髪を持つ女の子の肩に手を置いているブルーの写真があった。 薄いピンク色のカクテルドレスと同じ色のリボンで髪を括った少女には、確かにフィシスさんの面影がある。 「それは十歳の誕生日の時の写真ですわ。このあと一緒に食事に行きましたの」 フィシスさんもそれが自分だと指差して、ぼくは眩暈がした。ページを捲っていくと、大抵一ページに一枚はフィシスさんの写真がある。 「それは家族旅行に行ったときのものだね」 「それはプロムに参加したときの写真です」 「それが卒業した日の写真」 後のページに行くほどに、少しずつ成長していく女の子は、やがて誰が見ても間違えようもなく彼女だと結論付ける美人になっていた。 制服姿で卒業証書を手にしたフィシスさんの肩を抱いて、スーツを着たブルーが微笑んでいる。 ぼくはそのまま両手で顔を覆い、唸るような溜息を零した。 「ブルーと私は親戚だと……引いてはあの人を騙していたわけではないことは、納得していただけましたね?」 歌うような綺麗な声に、手で覆っていた顔を上げてぼくは心底後悔した。 怒っている。 フィシスさんは綺麗な顔に微笑みを浮かべて、言葉もなく怒っていた。 当然だ。ぼくは彼女を侮辱したんだ。兄さんとブルーに二股を掛けるような人なんだと決め付けて。 恥かしくて申し訳なくて、俯いたぼくにフィシスさんの厳しい声が響いた。 「顔を上げて、ジョミー」 膝の上に揃えた手を握り締めて、唾を飲み込む。一度強く目を瞑って、覚悟を決めて顔を上げた。 彼女がぼくを糾弾するのは当然で、ぼくはそれを正面から受け止めなくてはいけない。それだけ失礼なことをしたんだから。 顔を上げたぼくに、フィシスさんは真剣な表情で手を伸ばしてきた。 「あなたはまだ若い……いいえ、まだ幼い」 綺麗で繊細な両手で頬を挟まれて、ぼくはごくりともう一度喉を鳴らす。 ぼくが居たたまれなくて目を逸らさないようにしたのかと思ったけれど、それにしては彼女の手は優しく包み込むようだった。 「もっと色々な人を見て、知っていいのです。こんな人の魔の手に落ちてはいけません。気をしっかり持たなくてはいけないのよ?」 「………え?」 フィシスさんの横で、ブルーは目を閉じて腕を組みながら溜息を零す。 「魔の手って……君ねえ……」 「確かに顔はいいです。本質的には優しい人ですし、エスコートも完璧かもしれません。ですが、この人は大事なところが抜けています。それを常識といいます」 「……君、ね……」 ブルーは腕を組んだまま、肩を落として首を前へと折れるように倒した。 「えっと……」 困惑するぼくから、溜息をつくブルーにキッと視線を向けると、俯いていることに気づいてフィシスさんはその後頭部に向かって冷たい声を落とす。 「まだ14歳のジョミーにあんなことを言わせるようなお付き合いをしておいて、よくそんな態度取れますね!私は情けなくて、申し訳なくて、ジョミーにもあの人にも顔向けできませんわ!」 「あんな……こと……」 あんなことと言うと、ブルーの首に腕を回して、フィシスさんの前で見せ付けるようにキスをして、彼女に向かって嫌味に微笑みかけて、えっとそれから……。 ―――でも、ぼくの身体で彼が知らないところなんてないけどね。 「うわあああああああぁぁっ!」 ぼくが突然悲鳴を上げて椅子を蹴倒して立ち上がったせいで、フィシスさんが目を丸くする。その視線すら耐え難く、ぼくは膝を抱えてその場にうずくまった。 「ジョ、ジョミー?大丈夫よ、人生はやり直せます。あなたはまだ若いのだもの。シンクの汚れのように拭けば消えるというものではなくても、きっと乗り越えることはできますわ」 「僕は生ゴミか」 背中を丸めてうずくまったまま動かなくなったぼくの傍らに膝をついて懸命に慰めてくれるフィシスさんとは反対側から、憮然としたブルーの声が聞える。 そのブルーの溜息が聞えた。 「フィシス、心配しなくてもジョミーのあれは演技だよ」 「……え?」 そう、演技だ。兄さんを騙したフィシスさんと、ぼくを騙したブルーが許せなくてした演技だ。けど、やったことは演技だとしても言ったことは嘘じゃない。ぼくにはなんの慰めにもならない。 「ジョミーは僕と君が恋人だと勘違いしていただろう?大事なお兄さんを君に侮辱されたのだと思い込んで、君に対して行った嘘だよ」 「……うそ……?」 小さく繰り返して、フィシスさんはふらりと床に座り込んだ。気の抜けた声と、その危うい座り込み方に、ぼくは抱えていた膝から顔を上げる。 フィシスさんは呆然とした表情だったけど、ぼくと目が合った途端にボロボロと涙を零した。 ぎょっとしたぼくに、白い手が伸びてきて強く抱き寄せられる。 「ああ……よかった、よかったジョミー……私、あなたがブルーに汚されたのだと本当に、本当に心配して………っ」 嗚咽を漏らしながら抱き締められて、ぼくは実に複雑な気分を味わった。だって、演技はあの熱愛っぽい演出の方であって、その……け、汚された……とかいうのは、嘘じゃない。 でもぼくの背中に回された細い手は震えていて、彼女がどれだけぼくの身を案じたのかと思えばそんな台無しになることは言えなかった。 この人は、ぼくのことを心から心配してくれたんだ。 兄さんの弟ではあるけど、たった一回しか会ったことのなかった、上手く馴染めそうもなかった、ぼくを。 ・・・…それが、兄さんの選んだ人。 子供みたいに泣きじゃくるフィシスさんに、宥めるように自然にその髪に触れようとした。 その直前、フィシスさんが弾かれたように顔を上げる。 「ですがブルー!それならあのキスマークはなんですか!」 言われた途端にぼくはフィシスさんから離れて立ち上がり、跡の付いていた方の首を手で押さえる。 わ、わ、忘れていた!これを忘れていた! あたふたと慌てたぼくが背後の気配に気付いたのは、フィシスさんの表情からだった。 「ぎゃっ!」 「ブルーっ!」 急に後ろから抱き締められて思わず悲鳴を上げてしまう。 縮んだバネが飛び上がるように立ち上がったフィシスさんが手を振りかざし、ぼくは反射的に頭を庇ってしまう。 だけどぼくではなくブルーを狙った彼女の一撃は、当のブルーに手を掴まれて空中で止まっていた。 「昨日は雨が降っていただろう?濡れて立ち往生してたジョミーを僕が部屋に誘ったんだ。すごく好みだったからね。だけど言葉通りに雨宿りするだけのつもりしかなかったジョミーにつれなくフラレ、残念ながらこれ以上は進めなかったんだ。そして君たち恋人同士の夜に気遣ったジョミーは、フラレて諦めた僕の勧めでここに泊まったというだけの話さ」 流れるような嘘にぼくは心の底から嘘をつけと怒鳴りつけたくなった。だけど抱き締めている指先で脇腹を突かれて、ぐっと奥歯を噛み締めて我慢をする。 ブルーが言ったのは嘘だ。間違いなく嘘だ。 だけどそれなら、ぼくがお酒を飲んで酔い潰れていたのことも、その理由がフィシスさんを認められなかったからということも……ブルーと、その……してしまった、ことも……なかったことにできる。 ぼくにとっても、ブルーにとっても、フィシスさんや兄さんに知られてマズイことを伏せられる嘘に、ぼくは引きつりそうになる口元をどうにか堪えながら、眉を寄せてブルーを疑うフィシスさんに無言で頷いてみせた。 「そう……でしたの。でもね、ジョミー。世の中には悪い大人が一杯いるのですから、知らない人に誘われてもついて行ってはいけまんよ?」 そんな小学生レベルの注意に、ぼくは反論することができなかった。 「ところで提案があるのだが」 ブルーがそう言いだしたのは、ぼくのお腹の虫が活動を再開して、すぐの頃だった。 デリバリーへの注文を終えたフィシスさんとぼくに向かって、ブルーはせいぜい真面目な顔をして、とんでもないことを言い出した。 「フィシスたちが結婚したら、ジョミーは僕と暮らしてはどうだろう?」 「はあ!?」 真面目な顔をして何を言い出すんだ。 ありえない提案にぼくの声は裏返り、フィシスさんも苦い顔をする。 「どうしてそうなるのですか。ジョミーは私たちと暮らすのが当たり前でしょう」 「だが君たちは新婚だし、どうしたってジョミーはそれに気を使わなくてはいけないだろう?」 「余計なお世話です。私たちは家族になるのです。最初は多少ぎこちなくとも、ちゃんと家庭を築いていけますわ。ね、ジョミー?」 「え?う、うん、そ……そうだよ!」 当たり前のように家族と言われて、あれだけ反発していたはずの彼女の言葉に、ぼくは至極感動してしまった。我ながら単純だ。 だけど、ブルーとの……その、関係を、心配してしてくれた彼女の涙は嘘じゃない。 そう思うと、ぼくの胸は自然と温かくなる。 「フィシスの言うことももっともだが、君たちにはそのうち子供も生まれるかもしれない。その頃ジョミーが受験などの時期ならどうする。子供のいる家は、どうしたって子供中心になる。その点、僕は普段なら夜も遅いし、ジョミーの生活を乱すこともない。ジョミーも気兼ねなく友人も呼べるだろう。フィシスが心配する僕の自堕落な私生活だって、同居人がいれば多少はどうにかする。君がまだ一緒の部屋で暮らしていたとき、僕はここまで手を抜いていなかっただろう?」 一気に捲くし立てられて、ぼくとフィシスさんは思わず僅かに仰け反った。 先に体勢を立て直したのはフィシスさんだった。 「ブルーは利点ばかり仰いますが、私はその逆を心配してしまいます」 「逆?」 「ええ。ブルーの自堕落な生活に、ジョミーの手を煩わせることですわ。それにあなたの好みだとわかっていて、ジョミーと二人で暮らすことを認めるなんて……」 「同意がなければ僕は何もしないよ」 にこにこと笑顔でそんなことを言い切るブルーに、僕とフィシスさんは同時に胡散臭いものでも見るような目を向ける。 そこに、インターホンの音が響いた。 「あら、もう届きましたのね」 フィシスさんがブルーの財布を手に玄関の方へ行くと、途端にブルーがぼくの隣に移動して肩を抱いてくる。 「本当に君が嫌がるなら、何もしないと約束するよ。だからここで一緒に住もうよ」 いきなり無断で肩を抱きながら何を言う。本当に説得する気はあるのか。 ぼくがじろりと睨み付けても、ブルーの笑顔は崩れない。 「フィシスとも上手くやっていけそうだから、もう寂しくはないのかい?」 「ええ、そうです。だからあなたと暮らす必要なんて……」 「そうか……」 ブルーは息をついて、あっさりとぼくの肩を離した。 拍子抜けするほど簡単に、向かいの席に戻ったブルーはリビングの方に顔を向けて、小さく笑みを漏らした。それはどこか寂しそうで。 「一人になるのは、僕だけ、か……まあ、君が寂しくないのなら喜ばしいことだけどね」 「あ……」 そうか、フィシスさんが結婚してぼくたちと暮らすようになれば、ブルーが一人になるんだ。 ぼくは自分のことばっかり考えていた。 だけどブルーと一緒に暮らす……のは、やっぱり無理……だよね。 ちらりとリビングのソファーに目をやって、ぼくは慌てて首を振った。いくらなんでも無理なものは無理!……だけど。 「……えっと……と……ときどき……」 「うん?」 ブルーは寂しそうな表情を消して、ぼくに優しく微笑みかける。 「ときどき……あ、遊びにくる……っていうのじゃ、ダメ?」 ブルーが驚いたように目を丸める。 ぼくは慌てて手を振って、早口で捲くし立てた。 「で、でも何もなしだよ!ぼくが嫌がったら何もしないって約束したよね?」 ブルーと何があったのか忘れたのかとか、ぼく馬鹿じゃないの!?とか思わないでもなかったけど、だけど!……ひとりになる怖さも、寂しさも、それは昨日のぼくが持っていたものだ。 ぼくのぼそぼそと呟くような言葉で、それでいて確認する視線に、ブルーは笑顔で頷く。 「もちろんだ。君が嫌がることはしないと約束するよ」 ブルーとはこれからぼくだって親戚ってことになるんだし、親戚の家に遊びに行ってもおかしなことはない……よね? 段々二人きりでいることに落ち着かなくなってきて、そわそわとフィシスさんの帰りを待ちながら、ついブルーに目を向けると、にこりと優しく微笑みかけられる。 顔が熱くなったのは、きっと気のせいだ。 そうに違いない! 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「ラビット・ホリック」
配布元:Seventh Heaven
ジョミー、騙されてます。 続きは、本編で出てこなかったお兄ちゃんとブルーの対面。 |